1.4 鐘の音

 アールシュよりも一回り年上のジェフ・ニールは元アメリカンフットボール部らしく、がっしりとした大きな体と日焼けした肌に糊の利いた白いシャツを着ていた。短く刈り込んだ金髪とメンテナンスが行き届いた真っ白に整った歯をのぞかせるジェフに、彼がIBリーグ出身者かどうか聞く必要はなかった。


 ジェフが連れてきたのはトンネル掘削業者で、彼らは3交代で24時間稼働し続けた。その間にマーティンたちは10マイル離れた土地で新しく地質調査を始めていた。ジェフと毎日のように夕食を共にすることになったアールシュは苦手だった彼とすっかり仲良くなっていた。


 ボーリングで穴を開けたあの場所は特に岩盤が硬いためトンネルを掘る機械を使ってシールド工法という方式で掘っているのだという。縦穴を掘り、そこからシールドマシンを入れて斜め下に向けて掘り進めた。エヴァンズ教授は近くに他にも同じような観測ビューの破損個所もあるかもしれないと言っていたがそれは見当たらなかったという。3か月で最低限の掘削作業を終え、白い空間に到達した日、ジェフとアールシュ、エヴァンズ教授、それからソフトウェアエンジニアのソフィア・コールマンが一緒に立ち会った。


 エヴァンズ教授がディフェクトに入れたラットを持ち帰り、リプロジェン社で検査した結果、ラットには細胞も筋組織も血液も異常は何も見当たらなかったというレポートが返された。その間にジェフは地下の空間をより広く掘削していた。そしてディフェクトを屋根付きのフェンスで覆い、その隣とトンネルの外にコンテナの仮設事務所を設置していた。


 地下の空間に続くトンネルの入り口のコンテナ事務所と、その近くに止めたエヴァンズ教授のキャンピングカーを拠点として、エヴァンズ教授、アールシュ、ソフィアの3人はそれから5日ほど滞在して、様々な検証を行った。


 2日目にエヴァンズ教授がふいに、ディフェクトに手を入れた時にはアールシュとソフィアは心臓が飛び出しそうなほど驚いたが、結局何も起らなかった。4日目にエヴァンズ教授はバーニズマウンテンドッグのマックスを連れてきたがマックスはディフェクトに怯えもせず、そして興味も示さなかった。何らかの変化や反応を期待して様々な検証を行ったが、どれも次につながるような結果をもたらさなかった。


 4日目の夕方、エヴァンズ教授が買い出しに出かけている間、アールシュとソフィアは検証のアイデアが尽きてしまい、ポーカーをしていた。圧倒的にソフィアの勝率が高かった。


「絶対におかしい。ソフィアなんかインチキしてない?」


 「あのさ、アールシュ。まじで気付いてないの?」 


「何を?」


「アールシュ。あんた、嘘つくとき左の鎖骨を撫でる癖あるよ?知らなかった?だから、レイズするときの芝居じみたあんたのブラフ、全く意味ねーから。」


 アールシュは思わず声を出し、手で口を覆った。それは直したはずだった子供の時からの癖だった。いつの間にか無意識に出てしまっていた自分の癖を完全に忘れていた。ソフィアはずっと我慢していた笑いをしばらくの間大声で吐き出していた。それから、ちゃんと負け分は支払えよなと言い残し、マックスと遊び始めてしまった。


 エヴァンズ教授が買い出しから戻り、キャンプカーの外にテーブルを出し、エヴァンズ教授の青春の味だという山羊とアボガドソースのタコスとチリコンカンを食べ、クラシカルな瓶入りのビールを飲んだ。夕日が沈みかけ荒野は過ごしやすい気温になっていた。


 翌朝、持ち寄った仮説や検証のアイデアが尽きてしまったので、3人は出直すことにした。一旦、各自のオフィスに戻り、新しい仮説や検証アプローチをひねり出してくることにした。そして昼前に荷物をまとめたアールシュは帰り際に何気なくディフェクトの縁を指先で触れてみた。


 その途端、アールシュは平衡感覚を失い視界が揺らいだ。「鐘の音」だった。大気が震えるほどの轟音で鐘の音が鳴り響く。エヴァンズ教授とソフィアがコンテナの仮設事務所から飛び出してくる。エヴァンズ教授が何か叫んでひざから崩れたが、まるで何も聞こえない。ソフィアがうつぶせに倒れる。アールシュからソフィアの青白い顔が見える。焦点の合っていない目、唇が小刻みに震えて口の端に泡がたまっている。アールシュは肺や心臓、それどころか認識できる全ての臓器が収縮し呼吸もできない。背筋から何度も震えが起こる。額から滴る汗で右目の視界が滲んでいる。一度目の鐘の音で三半規管に傷がついたのか平衡感覚がなく立っていられない。エヴァンズ教授と同じように膝をつき両手で体を支え、呼吸することに集中する。


 アールシュは意識が遠のいていくのを感じながら、コンテナの近くでエヴァンズ教授が連れてきていたバーニズマウンテンドッグのマックスが前足を伸ばし、背中をそらせていたのを見つめていた。そして、アールシュはそれが犬で、背伸びをしているということが認識できなくなるほど意識が混濁しながらも、ただ呼吸を整えていた。時間の経過も解らなくなり、鐘の音はさらに大きくなりやがて全ての音が聞こえなくなった。鐘の音が止まったのか、それとも聴力を失ったのか分からなかったが耳鳴り以外に何も聞こえないし動けもしなかった。先ほどまでの苦痛から突然解放され、意識を徐々に取り戻しながらアールシュは呆然としていた。そして、頭の片隅にあった様々な雑事を全て忘れ、今この時以外に気を散らすことは何もなくなっていた。


 こんなことは初めてだったが、心が晴れやかな気分になり、なにか小さなころに感じていた懐かしい感覚のようでもあった。コンテナの前でマックスは後ろ足を伸ばし、それからゆっくりと前足をついて座った。やがて耳鳴りが止み、完全な静寂の中にいた。PAは反応せずプロセッサ自体が機能を停止していた。



 2040年代に半導体特性をもつタンパク質由来の化合物を培養することに成功した。2050年にはシリコンタンパク質を体内に取り込み特定の形状を形成するワクチンとそれをナノマシンプロセッサの苗床にする混合ワクチンが開発された。シリコンタンパク質を苗床に数億のナノマシンプロセッサの集合で形成される「プロセッサ」は前頭葉と側頭葉を跨いで寄生するように形成され、人体の代謝によって得られたエネルギーをもとに活動する。混合ワクチンを接種してから通常180日程度で人体に定着し、プロセッサが機能するようになる。


 プロセッサが機能するようになるとワクチン生成時の製造シリアルをキーに外部へ通信可能状態を知らせるメッセージをポストし始める。シリアルキーを把握している本人はベースOSとPAをインストールすることができる。その後はPAのナビゲーションに従い外部ストレージや衛星通信のシグネチャと意思ジェスチャ用のハンドリングパターンを登録すれば、後はプロセッサを好きに使えるようになる。


 地質調査会社のマーティンが「接種していない」と言っていたのはワクチンのことだ。ワクチン接種は高額ということもあるが、そもそも自然に存在しない化合物を体内に生成することやナノマシンプロセッサのような人工物質を体内に取り込むことに嫌悪感を持つ人やためらう人も多かった。そのためプロセッサを持つ人間はまだ少数派に分類されていた。




 静寂の中でそのメッセージが告げられた。無機質で不自然な声だった。中性的でイントネーションがないその声は、無知を孕む純粋さと温かさがあるように聞こえ、なぜか安心してしまった。


「汝ラノ敬虔ナ姿勢ニヨリ人類ハ彼ノ地ヲ踏ムコトヲ赦サレマシタ。緩慢ナ享楽ハ望ムベクモナク、祝福ノ奇跡トトモニ下サレル啓示ヲ真摯ニ受ケ入レ歩ミ続ケルノデス。……」

 

 アールシュはどういうわけか「受け容れられた」という多幸感に包まれ、涙を流していた。これまでに虐げられ、自分自身を縛り付けていた抑圧から解放されたという思いで満たされていった。そして、この異常な状況と、安心と温かさで包まれた感情の大きな解離に疑問を持つことができる正常な意識が徐々に薄れていく中、アールシュはとっさにリセットをかけていたプロセッサが動作することを確認し、かろうじて自我を保つことができた。


 アールシュはPAがハングしたままであることを知ると、オキシトシンやセロトニンが過剰に分泌したことで崩れてしまった、ホルモンバランスをマニュアルで調整した。そして、気を失っているソフィアのプロセッサ上にあるオプシロン社のコード経由でソフィアのPAにゲストモードでアクセスした。


 アールシュが聞いているメッセージをローカルスタックの先頭部分からストリーミングでソフィアのPAに流し、デコードをかける。この声自体がすでに何らかの実行プログラムなのかもしれない。だとしたら元のコードはなんだというのだろうか。


「これは人類にとってあらかじめ準備された必然の出来事であり、エミュレータに実装する必須プログラムです。本プログラムの起動トリガーとなる条件は2つ。1つはエミュレーションを実装できるテクノロジーを獲得すること。もう1つは現実がエミュレーションであることを確信した上でエミュレータの外部へアクセスを試みること。この2つの条件を満たすことで、人類が第二段階に進むために本プログラムが動作します。このプログラムは人類の進歩・進展がない期間を短縮するための知識を提供します。また人類の保護のためにロックをかけていた自然法則の一部を解除します。人類史のアップデートはすでに開始されました。ジャーナル・レコードから必要なデータを取得して下さい。ジャーナル・レコードのアクセスは92d036b5033589de0e1dd58237b33a1ed715343642e090b6c17d65bed52e5602bfb7c62f22e80e25be1c01282e0154d38ec21f5da818e479e4b6b3d544f07325……」


 アールシュは冷静になり、ホルモンバランスを調整したことを後悔した。多幸感が治まってしまった後半部分は何らかの信号が発生していたようではあったが、言語として聞き取ることができなかった。言語化できなかったため当然、デコードもされていなかった。アールシュのPAは落ちたままでローカルスタックにすらこのメッセージは保存できていない。ソフィアのPAも同じだ。ストリーミングもデコードデータも何も残っていなかった。


 しばらくしてエヴァンズ教授が立ち上がり、ソフィアに声をかけているのが見えた。アールシュは膝をついたままただそれを見つめていた。

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