1.2 デバックレベル7

 アールシュの研究室はメサDCの上層フロアに設けられている。他の区画は全てエミュレータ用のサーバやストレージ機器が配置されている。DC特有の緩衝性能や不燃性が高いスチール製床材を歩く。メラミン樹脂で表面が加工されたスチール製床材の乾いた金属音が誰もいない廊下に鳴り響く。


 メサDCの廊下は回廊そのものだ。中央のサーバルームを取り囲むように廊下が作られている。外壁面は強化ガラスのクリアソーラーパネルでできている。荒野の彼方にメサの街が眺望できる。クリアソーラーパネルは透過モードと映像モードがあるが、今どちらのモードでメサの街の夕映えを見ているのか判別できない。そして、外壁面の支柱は下部から上部にかけて徐々に細くなるエンタシスという古代の神殿の柱にも使われている技法を取り入れている。その重厚な支柱はまるで神殿のような荘厳さを感じさせた。


 アールシュは誰もいない夜の回廊を、星空を眺めながら散歩するのが好きだった。メサDCはハードウェアも含めて運用作業の大部分はオートメーション化されている。17時を過ぎればDCにはアールシュ以外に人間は誰もいなくなる。アールシュにはメサ市内にもDCの別棟にも個室が用意されているが研究室で寝泊まりしていた。


 コーヒーポーションをセットしながら今日見た光景を思い出していた。デスクの正面の壁には無機質な研究室に似つかわしくないオリエンタルな作風のヴィシュヌ神のポスターが無造作に貼ってあった。それはアールシュがフェニックスの市街で見つけて購入したものだった。


 エミュレータの名前はアールシュの提案で「ヴィシュヌ」と名付けられた。アールシュのルーツである南アジアの大国では、宗教信仰の最高神としてヴィシュヌを崇拝している一派があった。ヴィシュヌは「世界を維持する神」であり、地球史のエミュレータに命名する名前としてこれ以上にふさわしいものはないとアールシュは考えた。


 ヴィシュヌは現在、世界で最も再現性が高いエミュレータだった。だが、その再現性の高さに比べて注目度はあまりにも低かった。専門チャネル以外ではエコノミックかマーケットチャネルで稼働当日に少し話題に上がった程度だった。そして、ヴィシュヌの正式稼働はUCLの株価にはほとんど影響を与えなかった。アールシュはそれを知ると、いつも通りの反応だと力なく笑った。アールシュは、これが何を意味するのか一般人には理解されていないし、もしかしたらこれからも一生理解されることはないのではないかと考え始めていた。


 ヴィシュヌプロジェクトは表向き「地球史の再現とその観測」を目的とした研究だと発表されていた。しかし、本来の研究目的は「未来予測」と「仮想空間への移住」の2つだった。エミュレータの精度が上がれば上がるほどこの世界が仮想空間上にあることの確証につながる。エミュレータへの移住はこの世界が仮想空間上に存在することを前提とした計画だ。すでに数十年も前から人類は仮想空間上に存在している可能性が高いと言われ続けてきた。これは当初、テクノロジーとは縁遠い一般層には共感が得られなかったが、VRSの利用が一般層に普及した現在では直感的にイメージできるようになり、仮想空間論の支持者は増加している。


 VRS(Virtual Reality Space)は20世紀最後の10年に考案されたオンラインゲームとその延長線上の仮想空間で「メタバース」と呼ばれた概念が元となったコミュニュケーションプラットフォームのことだった。VRSを使ったサービスは2030年代に本格的に商業利用が広まった。


 当初、民間の教育分野から利用が始まり、ビジネス用途のオンライン会議ソフトとの置き換えにより利用者が爆発的に増えていった。それまでのオンライン会議ソフトはその役割上、会議以外の恣意的なコミュニュケーションを計ることに不向きだった。例えば、業務に直結しない突発的に始まる同僚との気軽な会話や、その同僚の会話を聞きながら気ままに参加するなど、必要性や目的を定義することが難しく、まして、あらかじめ予期した時刻に行うことなどもできないコミュニュケーションだ。それはリモートワークに慣れたユーザが抱いていた大きな不満でもあった。また、経営者たちはコミュニュケーション不足が生産性やクリエイティビティ、さらにはエンゲージメントの低下を招いていると判断し、リモートワークを制限することが常態化していった。


 そういったコミュニュケーションの不満や懸念にVRSはユーザのシンボル化、常時音声コネクション、コミュニティ範囲の制御といったプラットフォーム機能で応えた。会議以外の業務時間内の自然な会話を行うためのコミュニュケーションソフトとしてVRSが活用され、大きな効果を生んだ。そしてそれが一時低迷していたリモートワークの再加速を促していった。


 若年層はよりスムーズにVRSを使いこなしていった。アールシュの両親がティーンの頃、すでに友人や恋人と音声通話アプリケーションを常時起動してお互いの存在を端末越しに感じたり、GPSで位置を共有し、近くの友人と効率的にコミュニュケーションをとったりしていと聞いたことがある。それを祖父に知られたときに「お前たちにはプライバシーの概念がないのか」と奇異の目で見られたものだ、と笑っていた。


 VRSはその延長線上であり、エミュレータは帰結だ。アールシュからみればエミュレータへの移住は必然だった。制御の方法が解らない「現実」という名のエミュレータの中よりも制御可能なエミュレータの中の方がどれだけ安心できるか。そしてどれだけ自由になれるかを考えただけで世界が無限に広がるような高揚感を覚えた。


 エミュレータへの移住は火星移住と真逆だ。火星移住プロジェクトは四半期ごとに課題リストが積みあがるだけで進展のない、辛くて過酷なものだ。それに比べてエミュレータへの移住はリーズナブルで希望があり、そして現実的だ。課題があるとすれば祖父が理解できなかった音声通話アプリケーションの常時起動とGPSの共有と同じ種類のことだ。便利に使えるものを過去の価値観に縛られずに受け入れられるかどうかということだけだ。今では祖父もVRSで私に会いに来る。テクノロジーの利便性を知れば人はどこまでも価値観をアップデートすることが可能なことはすでに証明されている。ヴィシュヌプロジェクトでやろうとしていることもそれと同じだ。そうアールシュは確信し、そしてその有用性を世界に知らしめたいと思っていた。


 だが、ようやくエミュレータの初期プロダクトが稼働し始めたというのに、エミュレータに対する世間の理解はもう何年も変わっていないように見えていた。アールシュはその原因の一端は、UCLの慎重すぎる広報の姿勢にあるのではないかと考えていた。しかし、一介の究員でしかないアールシュが広報に口を挟むなど到底できなかった。憤りを感じる度にもう少し研究が進めば状況が激変すると言い聞かせて自分をなだめることしかできなかった。


 アールシュは椅子に深く腰かけてコーヒーを一口飲んで息を付く。ふいに思いついて座り直し、ターミナルを操作する。検証用エミュレータの一部の区画のデバックレベルを7にあげて、トレースログを全てダンプする設定に変更する。モニタリングビューにトレースログが高速で流れる。無意識に出た舌打ちが部屋に響いた。夜の研究室はとても静かだった。目視できるように標準出力にトレースログを流していたターミナルを強制終了し、別のターミナルから接続し直した。


 エミュレーションを実行する際、通常はプロダクトモードとして起動する。プロダクトモードのデバックレベルは0で、トレースログにエラー以上がダンプされる。シグナリングなどのインフォメーションは出力されない。それはモニタリング処理を極力減らし、エミュレーション処理自体に影響を与えないようにするための仕様だった。


 ヴィシュヌのエミュレーションアーキテクチャは、区画ごとに演算装置が分かれている。そのため、エミュレーション対象のオブジェクトが区画間を移動する場合、演算装置の切り替わりが発生する。そしてそれは演算装置の切り替わりを円滑に行う機構が必要になるということを意味する。複数の演算装置が隣接する区画の演算も行っていれば切り替えも簡単になるがそれでは重複する無駄なリソースが莫大に必要となってしまう。実際には隣接する複数の実演算装置で構成される「仮想演算装置」を利用する。ヴィシュヌは区画の境界領域を境にどちらか片方の実演算装置が仮想演算装置上の処理を引き継ぐという機構を備えている。そして、対象のオブジェクトが移動する可能性がある区画は2つとは限らない。この機構は対象を数か所から数百か所で共有することができる。


 トレースログを全て吐き出す状態で検証用エミュレータを稼働し続け、1時間ほどが経過していた。高デバッグレベルに設定した区画では演算装置の25%ほどのリソースがダンプ処理に割かれている。ディティールを確認すると演算リソースのほとんどはI/O待ちに費やされていた。エミュレーション環境の物理現象を確認するために観測ビューを起動する。昼間に訪れたウィルコックス近郊の荒野が描画される。観測ビューに15%程度の低下がみられる。デバックレベル5以上では、低下した処理や過剰な処理が自動修正されない。その状況をあえて発生させたいことがあるからだ。


 トレースログを出力しているプロセスをマニュアルでKILLする。しばらくするとプロセスは自動で起動してしまったのでトレースログを出力する実行プログラムを少し変更する。ログ出力処理自体は変更せずにログのダンプ先を/dev/nullに捨てるように変更した。処理は動き続けているがダンプによるI/Oは発生しない。疑似的にダンプ処理をスタックさせた状態を再現させ、再度プロセスをKILLした。新しい実行プログラムから生成されたプロセスはデバックレベル7のままだが、起動した後に処理を行っているものの、トレースログは出力されていない。観測ビューを見ると今度は25%ほど過剰に処理が行われていた。そしてアールシュは観測ビュー用にフォーマットされたセグメントの一片のブロックにゼロ埋めしたデータを流し込み論理破損を発生させる。アールシュが見ている観測ビューの一ブロックが描画されなくなり白い欠損箇所が現れた。アールシュはトレースログを表示しているターミナルをモニター越しに見みる。ログ出力が止まったままでブロック破損を示すエラーログは出力されていないターミナルはプロンプトが点滅し続けていた。


 オプシロン社の社内機密用のオフラインエージェントAIに接続してDC建設予定地で見聞きしたボイスメモ、一連の動画、着目した静止画像、ボーリングの地質データをアールシュのPA(Personal Agent AI)経由で整形せずにローデータのままアップロードした。次に今さっき取得した通常運用時とデバック時の検証エミュレータのデータを入れ、アールシュの抱いていた直感をPAに言語化させ、オプシロン社のオフラインエージェントAIのプロンプトに入力した。


 PAもオフラインエージェントAIもおおよそ同じ結果を示していた。そして、この事態が修正されないということは、デバックされているにも関わらず、異常を検知する仕組みがない、または検知した異常を確認する観測者がいない、あるいはその両方ということになると丁寧に付け加えられていた。


 アールシュの見解と同じだった。そして管理者がお守もせずにエミュレータを放置すればどんな悲惨なことになるのかアールシュは十分理解していた。いずれ大きな問題が発生するという恐怖と、この世界がエミュレータであるという仮説を検証するための手掛かりをついに得たという喜びで、背筋から首筋に抜ける震えを何度も感じていた。

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