携帯電話とオッサンと
VENUS
第1話52才 独身 無職
目の前には、森。
右を見たら、森。
左を見たら、森。
後ろには、自宅の裏玄関。
「ここ、どこ?」
口から本音が出た。
人間は予想外の事が起こると思考停止するらしいが、まさか自分が思考停止する時が来るとは思わなかった。
「落ち着け・・・落ち着け・・・落ち着け・・・」
俺の家の裏には家庭菜園のトマト畑が有ったハズだ。
俺の記憶がオカシイのか?
俺の名前は・・・ 良田吉雄。
大丈夫。思い出せる。
中学校の同級生の名前・・・ 3人とも全員思い出せる。
俺の記憶は、たぶん大丈夫だ。
だが、目の前にある森はなんだ?
俺は夢を見ているのか? わからない・・・
放心状態から数分。俺の出した結論は
「まずは・・・家に入ろう・・・」
考えても解らない事は、考えない! 俺は目の前で起きた異変を、棚上げした。
裏玄関のドアを開けて家に入る。
「俺の家・・・だよな?」
今は一人暮らしだ。誰からも返事は無い。
家の中を見て回るが、いつもと変わらない。
いつも通り、床板がキシむ音が聞こえる。
いつも通り、ソファーに脱ぎ捨てた上着がある。
いつも通り、台所に置きっぱなしのコップがある。いつもと変わらない日常だ。
落ち着きを取り戻した俺は心の中で、さっき見た光景を"見なかった"事にした。
「じゃぁ。仕事に言って来る」
仏壇に線香をつけ、亡き父親に挨拶をする。
先週、父の一周忌法要を行った。母は、俺が物心ついた時には居なかった。俺に残されたのは、築80年のボロい家だけだ。
10年程前に父がリフォームを言い出した。自分の退職金を使う予定だったが、建築業者からの見積は「リフォームするより建て替えた方が安いです」だった。
結局、築70年のボロい家は改装される事なく、築80年のボロい家として俺に引き継がれた。
自宅から車で10分。近いようで遠い。ここが俺の職場だ。入口の自動ドアをくぐるとチャイムの音が自動で鳴る。
「おはようございます」店内にはいつも通り、お客はいない。
「おはよう。吉雄君」店長がいつも通りの挨拶をしてくる。が、この日は違った。
「吉雄君、今、良いかい?」
「はい・・・」
俺は店長の顔を見て、なんとなく察した。
「実はネ。お店・・・ たたむ事にしたよ」
「・・・」
予想はしていた。限界集落のコンビニだ。1日の客数が10人では商売が成り立たない。高卒の俺にでも解る。
「吉雄君。40年も働いてくれたのに・・・申し訳ない」
「中学生たっだ俺を働かせてくれて、感謝してます」
経済的に貧しかった俺は、中学生の頃からこのコンビニでバイトをしていた。当時から限界集落ではあったが、新幹線の沿線工事や風力発電施設の建設と工事関係者が良く来ていた。だが、建設ラッシュが終わった今では、近所の人しか来ない。
「店長、今までありがとうございました。店長も、もう良い歳なんですからゆっくり休んで下さい」
店長は90才を越えてるハズだ。この年齢まで現役で働いてた事の方が驚きだ。
店長はゆっくりと1枚の紙を俺に渡しながら「貼って」と言い、そのままバックヤードから自宅へ帰った。
渡された紙を見て途惑う。
「え? これ、今貼るの?」
紙には達筆な字で、簡潔に書いてあった。
《 閉店しました -店主- 》
この瞬間、俺は ”52才 独身 無職”になった。
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