1 夜明け

 雪が止んだ翌朝のことだ。

「『精霊の棲む古城』には、かつてのアイヒベルガー家の亡霊が彷徨さまよっているんだ。だから絶対に近付いたらダメだからね。魂を吸われるよ」

 シュヴァルツェンベルク市の中央広場のすぐ脇にある道に面する小さな菓子屋を営んでいる老婆が、店にやってきた二人の少女たちに告げた。この老婆が少女たちにこんな話をしたのは、少女たちが、昨夜、アイヒベルガー城からの声を聞いたという話をしていたからだ。


 少女たちは老婆に告げる。

「でも、とっても綺麗な声だったんだよ? ね、マリー」

「うん。それに、歌を歌っていた。それも、とっても切なそうに」

 しかし、やはり老婆は少女たちに言うことを変えない。

「それはね、亡霊たちの声なんだよ。亡霊たちが、生き返らせてくれって、この街の住民にうているんだよ」

 少女たちは老婆の言葉を聞いて、顔を見合わせた。


 老婆はさらに続けた。

「それより、夜は早く寝ないといけないよ。夜更かしは身体に良くない。……ほら、一個ずつおまけしてあげるから、今日は早く寝るんだよ」

 老婆は十枚セットのミルククッキーの袋に、追加で二枚を入れて少女たちに手渡した。

「ありがとう。今日は早く寝るよ」

 少女たちは口を揃えて答えた。老婆は笑顔で彼女らを見送り、客足が途絶えた店の床をほうきで掃き始めた。


 そこへ、また別の客がやってきた。老婆はその客の身なりを見て目を丸くした。

 やってきた二人の男のうち、一人が告げる。

「ベッカー州警察です。ここ、シュヴァルツェンベルク市から王室に献上されているワインですが、どうやら異物が入っていたようで。ここにはワインも売っていますよね、何か被害の報告は聞いていませんか?」

 老婆が営むこの店では、菓子に合ったワインも数種類置いている。それに言及しているのだろう。


 それにしては、どうして警察がやってきたのか、と老婆は困った表情をしながら答える。

「いいえ、全く被害の報告は聞いていません。しかし、……シュヴァルツェンベルク市のワインの品質は皆さんご存知だと思います。それなのに、王室に献上しているワインに異物が入っていたなんて、……ちょっと、想像できません。つまり、……それは事実なのでしょうか?」

「そうですか、わかりました。状況は現在調査中なので、また進展があったらお伝えしますね」


 警察は老婆の質問には答える様子も見せず、忙しそうに店から出ていった。老婆はしばらく唖然として立ち尽くしていたが、やがてまた店内の掃除を始めた。


    ◇◆◇


 シュヴァルツェンベルク市は、リッチェル王国ベッカー州の州都から離れた南端に位置しており、市内の真ん中をクレマー川が横断し、市を綺麗に南北に分けている。

 クレマー川は、丘に挟まれたこの地を穏やかに流れる美しい川で、一日中この川を眺めながらただぼんやりと時間を過ごす人がいるほどだ。それほどシュヴァルツェンベルク市の市民には深く根付いている川であり、市民生活にも大きく影響している。


 ベッカー州にあるほとんどの市は小さい。ここシュヴァルツェンベルク市も例外ではなく、馬車に乗れば一時間程度で街全体を一周できる。

 そのように小さなこの場所では、工業はほとんど発展しておらず、主要産業はワインの製造だ。街に比べて広大な敷地のワイナリーが、クレマー川の南側、シェーンベルクと呼ばれる丘にいくつか点在しており、そこで製造されるワインは、リッチェル王国の王室に献上されているほど品質が良い。


 このような、王国内でも有数のワイナリーが点在する南のシェーンベルクを眺めるように、クレマー川北側にはアイヒベルガー城が建てられている。

 空高く昇りつつある陽の光に照らされるその城内で、艶のある綺麗なロングヘアである上に、生まれつきのものであろう毛先の揃った茶髪をしたその女性が、ようやく目を覚まそうとしていた。

 そして、その多少寝ぼけた顔ですら誰もが二度見してしまうほどの、端正に整った容姿を兼ね備えていた。


「あ、あぁ……、祈りを捧げてから寝てしまったとは……。こんなに寒いのに凍死しなかったのは、運が良かったのかもしれません。……あっ、あと一時間もすれば昼食の時間になってしまう……。急いで帰らないと…………」


 二十歳には到達していないだろうと見られるその女性は、ほとんど崩れてしまっている城の中でも、とりわけ綺麗に残っている小さな部屋に置かれたソファから立ち上がり、部屋の隅の焚き火の跡に目をやった。

「火を焚いておいてよかった……。あれがなければ、私は今頃間違いなく死んでいましたね……。……神様、——」


 彼女は両手を祈るように握り合わせ、陽の光が差し込む窓から空を眺めた。

「私、アレクシア・リヒテンベルクに、慈悲の心を向けていただき……、私の命を助けていただき、ありがとうございました……」

 陽の光は何も様子を変えない。ただアレクシアの頬や額に、冬を感じさせないぬくもりを届けるのみだ。

「さて、行きますか…………」


 ウールのコートに身を包んだアレクシアは、この小部屋の入り口にある壊れそうな木製の扉をゆっくりと両手で押し開いて外に出ては、今度は外側から両手でそっと扉を押し戻し、軋む音以外にはほとんど音を出さずに部屋から出てきた。

 彼女は、数分後にアイヒベルガー城から出てきては、懐中時計を確認しつつ、丘を足早に下っていった。彼女の眼下に広がる古典的で美しい街並みには、どこか不穏な空気が漂っていた。

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