サーカス
連喜
第1話
子どもの頃、親から言われて一番怖かったのは、「言うことを聞かないとサーカスに売るよ」という言葉でした。幼過ぎてサーカスがどんなところか知りませんでしたが、遠いところに連れていかれるというイメージだけは持っていました。
僕は親の言う通りにしないと本当にそうなってしまうと思って、親には一度も逆らったことがありませんでした。
兄という人がいましたが、僕とは対照的で、親にはよく反抗していました。ある時に、その兄が忽然と姿を消しました。兄がちょうど中学に上がる時期でした。もうすぐ小学校を卒業しようかという頃です。夕飯の時、いるはずの兄が食卓についていなかったのです。僕はお兄ちゃんはどうしたのかということを両親に聞くことができませんでした。僕の実家はテレビで見るような温かい家庭とは程遠く、殺伐としていました。食事をしながら喋ったりするのは行儀が悪いという考えがあったのかもしれませんが、無言で食べるのが普通でした。
僕は夕飯を食べて「ご馳走様」と言って、食器を台所のシンクに下げると、自室に戻りました。自室というのは、兄と二人で使っていた畳の部屋です。兄の机のところには、ランドセルが置かれていました。一度家に帰って来たことがわかりました。
布団を敷いて横になった後も、兄がそのうち帰って来るのではないかと思っていました。兄はとても意地悪な人でした。僕にいつも暴力を振るっていたから、兄がいると緊張しました。だから、兄が部屋にいないということに、ちょっとほっとしていました。
しかし、兄はその日以来、戻って来ませんでした。
***
兄がいなくなった次の日に学校に行くと、兄の友達が話しかけて来ました。
「正幸どこ行ったか知ってるか?」
「知らない」僕は答えました。
「知らないってことないだろ?家族なのに」
「本当に知らない」
僕は兄がサーカスに売られたんだと思いましたが、正直に言うことができませんでした。そんなのは家族の恥だからです。当時でもサーカスに子どもを売るなんていうことは異常でした。我が家のようにおかしな家庭でしか起きない発想です。
僕は問い詰められて泣いてしまいました。兄の友達は「何かわかったら教えろ」と言って去って行きました。
***
その日、僕はいつも通り家に帰りましたが、部屋にあった兄の物はそのままでした。僕が部屋に入ると、なぜか母がそこにいましたが、「これから使うかもしれないしね」と、言っていました。兄は本当にサーカスに売られてしまったんだ。僕は恐怖を感じました。次は僕の番かもしれないからです。
そういえば、兄がいなくなってからちょっとの間、夕飯のおかずが豪華でした。父が高そうなウイスキーを飲んだり、仏壇にフルーツの盛り合わせが置かれていました。それは多分、両親がサーカス団から受け取った謝礼で購入したもののようでした。
僕はその時から、家で唯一の子どもになりました。昔は家の手伝いをするのが普通でしたから、朝起きたら玄関の掃除をして、廊下に雑巾をして、庭を掃くように言われていました。
その後で学校に行きますが、帰りの時間も決められていました。門限は5時でした。僕は家に帰ると、部屋を整理整頓して、宿題をやって、翌日学校に行く準備をします。夕飯は7時と決められています。夕飯の後はお風呂です。お風呂に入って、8時に寝なくてはいけません。テレビを見たいのですが、まったく見せてもらえませんでした。こんな生活なので、学校に行っても友達とテレビの話ができませんでした。両親は僕が寝ている時間に二人で楽しそうにテレビを見ていました。
しかし、気がかりなのは兄のことです。サーカスというのはどんな場所なのか想像もつきません。小学校の図書館で、図書室の先生に聞きながら、サーカスについて書いた本を探しました。サーカスでは空中ブランコや綱渡りなど危険な芸をするというのを知りました。兄は今頃、そうした芸を仕込まれていて、失敗したら鞭で打たれているんだと想像しました。先日まで普通の小学生だったのに、さすがに気の毒になりました。
***
それから、数年後。僕が住んでいる地域に、サーカス団がやって来ることになりました。僕は兄が出ていると思って、どきどきしました。学校でサーカスの割引券をもらったので、そこに書かれていた電話番号に電話をかけてどうやって観覧券を買えばいいかを教えてもらいました。高かったですが、お年玉を貯めておいたものを使うことにしました。
僕は両親にサーカスを見に行きたいと言いましたが、一人で行ったらおかしいからと母が付いて来ました。
「お兄ちゃんが出てるの?」と、僕は聞きましたが、母は馬鹿にしたように「そんなわけないでしょ」と言っていました。僕はそれっきり何も聞けませんでした。
時間になると音楽が変わりました。いよいよサーカスの演目が始まりました。
キラキラした衣装を着た人たちが奥から出て来ました。みんな笑顔で手を振っています。白っぽいレオタードのような衣装でキラキラしたものがたくさんついています。
そんな大人に混じって一人だけ華奢な少年がいました。白塗りの化粧をして、顔には赤と黒のペイントを施していました。僕の目はその人に釘付けでした。
筋肉ムキムキの男性数人が、二つトランポリンを持ってくると地面に置きました。サーカスの人たちが次から次へとその上に飛び乗って華麗なバク転をしたり、体を捩じって跳ねたりしていました。目の前でみるとさすがに迫力があります。その人達の身軽さに感動しました。
しばらくすると、一人の男性がトランポリンから着地してみんなの前に両手を上げて立ちました。次は若い女性がトランポリンの周りを踊り始めました。二十代くらいの大人の女性です。レオタード姿で体の線がくっきり見えるので、ちょっとどきどきしました。その二人は夫婦か恋人同士なんじゃないかと直感で思いました。
その人がトランポリンでポンと勢いよく飛び跳ねたかと思うと、傍に立っている屈強な男の人の肩に両足で乗りました。観客から大歓声が沸き上がりました。飛び乗る女性も大変ですが、受け止める男性への衝撃もすごいのでしょう。男性はちょっと体をずらしながらバランスを取っていました。
さっきの男の子は大人たちに交じって、ずっと周囲で踊っていました。バク転をしたり、側転をしたりもしました。恐らく、年齢は小学生くらいでした。兄はもともと年齢にしては背が低かったのです。あれはお兄ちゃんだ。僕は確信しました。
やがて、小柄な少年がトランポリンの周りで一人で踊り始めました。何をするかはわかりました。二段になった大人たちの三段目に乗るのです。僕はドキドキしました。大柄で筋肉質な男の人の肩には、すでに豊満な大人の女性が乗っています。結構重そうです。高さもすでに三メートルはあるでしょう。仮にトランポリンを使ったとしても、上に乗るのは無理だと思いました。あまりにも高過ぎました。
少年は、空中ブランコに使う梯子に上りはじめました。意外なほど早く登って行きました。中間くらいの高さに板が渡してあり、それがちょうどトランポリンの上あたりに来ました。僕ははらはらしながら見ていました。多分、兄はトランポリンに飛び降りて、通常より高く跳ね上がった反動を利用して、女性の肩に乗るつもりなのでしょう。
みんなが緊張で息を止めて中、兄はトランポリンに飛び降りました。位置は正確でした。一瞬で飛び上がり、人間ピラミッドの女性の肩に向かっていきました。
「ああっ!」僕は悲鳴を上げました。
他の人も同時に叫びました。
兄の膝が女性の顔を強打して、血が吹き飛びました。それと同時に、ピラミッドが崩れ、女性が床に落下、その上に兄が重なって落ちて行きました。兄の首は後ろに捻じれていました。そして、手足はどれも変な方向に曲がっていました。
サーカスの客席のあちこちから悲鳴が聞こえました。バンっと一瞬で照明が消えました。
僕は頭を抱えました。お兄ちゃんが〇んでしまった。
母も狼狽えていました。自分の息子なんですから当然でしょう。
観客からは「なんだよあれ!」「あの子、〇しんじゃう!」と、叫び声が聞こえていました。
しかし、すぐにまた、サーカスのまばゆいばかりのまぶしいライトが付きました。床には少年が倒れていました。
すると、一段目にいた屈強な男性が、まるでぬいぐるみを扱うように、少年の腕をぐいと引き上げました。そして、肩の上まで持ち上げると、乱暴に振り回し始めました。僕はショックを受けていました。
よく見ると、それは人形でした。案山子みたいに、胴体にはぱっとみて膨んでいればいいくらいの綿しか入っておらず、関節は糸でつなげたように細くなっていました。髪も毛糸でできていました。なんとも言えず、適当でみすぼらしい姿をしていました。
「なんだよ!びっくりさせやがって!」観客は非難めいた声を上げました。
女の人は鼻血を流しながら、立ち上がって、観客に手を振っていました。あの少年だけがいなくなっていました。
「お兄ちゃん!」僕は叫びました。母はうんざりしたように僕を見て、「やめなさい」と促すように膝を叩きました。僕がその後も泣いていると、母に思い切り殴られました。僕はもうめちゃくちゃに泣いて、サーカスの演目をまともに見ることができませんでしたが、その後の演目にはあの少年はもう出て来ませんでした。
サーカスで子どもが亡くなったということは、結局ニュースにはなりませんでした。だから、兄は助かったのかもしれませんし、それとも、あれが最期だったのかもしれません。どちらなのか、知るすべはありませんでした。
***
あれから四十年余りの月日が流れました。父も母も後期高齢者になり、今では僕が両親を支配するようになりました。二人とも介護が必要なので、僕がいないと生きていくことができません。二人はまだあの家に、築六十年も経つトタン張りのボロ屋に、今も住んでいます。
僕と両親二人はコタツに座っていました。三人とも無言でした。昔から不仲でしたし、僕は両親に対して何の思い入れもありません。
「お兄ちゃんをどこにやったの?」
僕は初めて両親に聞きました。
「急にいなくなったから」
二人は最初何も言いませんでした。気まずそうに下を向いていました。僕がさらに問い詰めると、母が言いました。
「子どものいない夫婦に養子に出した」
「どこの誰に?」
「忘れた」
「サーカスに売ったんだろ?」
僕は怒鳴りました。
「何の仕事してる人かはわからん」
僕は兄がサーカスの団員に売ったんだと確信しました。兄がいなくなった頃も、僕が住んでいたところにサーカス団が来ていたのです。図書館で当時の新聞を調べて知りました。言うことを聞かない兄を両親は厄介払いしたのです。
***
僕は今もサーカスのファンです。サーカスの上演があると地方までも見に行きます。
ある時、サーカスの出し物で、車椅子に乗ったピエロというのが出てきました。手も足も使えなくて、ただ、座っているだけなのです。それをレオタードを来た妖艶な女性たちが代わる代わる押していました。はっきり演目にはいらない気がしました。
そして、ダンスが終わると、美女がそのピエロの頭に赤い風船のついたヘルメットを乗せました。それをウイリアムテルよろしく、ナイフでパーンと割るのです。別の美女が見事な手さばきで風船を割って行きます。踊りながら、側転しながら、バク転しながら。もし、誤ってナイフが刺さったらとはらはらします。
そして、最後に目隠しをしました。このショーのクライマックスでしょう。
会場中が息を飲んでいます。そのナイフは本物で、さっき、リンゴを剥いていました。刺さったら大けがをしてしまうに違いありません。
女性が少し踊ってから、ナイフを投げた瞬間。
僕は気が付きました。ちょっと軌道がズレていると。
僕は悲鳴を上げました。横にいた奥さんがびっくりしていました。
やはり、そのナイフはピエロの顔面に飛んでいきました。それがピエロの顔の真ん中に刺さりました。血が一気に噴き出しました。
観客が悲鳴を上げた瞬間。
バンっと一瞬で照明が落ちました。
「お兄ちゃん!」僕は叫んでいました。
「怖いよ~」と、子供が泣き叫んでいます。
そこら中から、悲鳴があがります。
僕も悲劇を目の前にして、絶叫しました。
次に明るくなった時、車いすにはピエロの人形が置いてありました。🤡
ぐったりとして、頭が下に傾いていました。
「うそ!本当にさっき刺さってたよね!」
隣にいた妻が大声を上げました。
僕の子どもも妻の膝に突っ伏して泣いていました。
そうです。確かにナイフは顔に刺さっていました。
兄は無事なのでしょうか。
奥の方から救急車のサイレンが聞こえました。
ああ。よかった。救急車を呼んでもらえたんだ。
僕はほっとしました。
***
僕は一人頭の中で兄の人生を振り返りました。
サーカスというのは、華やかなショーの間はスポットライトを浴びていますが、大半の時間は埃っぽくて暗く、動物の悲鳴ばかりが聞こえるような、混とんとした場所です。そこには絶望しかありません。
旅から旅へ移動する毎日で、まるで浮草のような暮らしでしょう。傷ついた人たち同士で支え合い、慰め合って暮らしているのです。
もしかしたら、兄はナイフを投げた女性といい仲になっていて、浮気でもして懲らしめられたのかもしれません。女性たちも若い男がいたら放っておくわけがありませんから。兄も隅に置けません。
僕は今も兄の行方を追っています。次はもっとボロボロになって、僕の前に出て来るに違いありません。もはや原型をとどめていないでしょうが、それは絶対に兄なのです。僕は死ぬまでサーカスに行き続けるでしょう。
それは、自分だけが普通に生活させてもらえたという、兄への懺悔でもあります。いつか兄に声を掛けてみたいですが、きっと最期まで何も言えないでしょう。僕はいつもただ黙って見ているだけなのです。やはり、僕は常に傍観者で、主演は兄のままです。僕はずっと人生のわき役でした。自分の意識はありますが、いつも誰かの人生の片隅にいるだけなのです。
サーカス 連喜 @toushikibu
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