婚約者が怪我した猫と私を置いていきましたが、王子様が助けてくれました
歌月碧威
第1話 怪我した猫と共に置いて行かれました
「はぁ? さっき聞こえた猫の鳴き声がおかしい? 猫なんかどうでもいいだろ、放っておけよ」
そう吐き捨てるように言ったのは、私の隣に立つ婚約者だった。
婚約者のワンダー様は侯爵家の嫡男であり、私・アンジュールが通う王立学園の同級生でもある。
ワンダー様は、新緑を思わせるエメラルドグリーンの瞳をつり上げて私を見ている。中性的な綺麗な顔立ちのため、感じる怖さがより深い。
瞳と同じ色の髪は肩下まであるけど、綺麗に一つに束ねて右肩に流されていた。
彼は皺一つない学園の制服に身を包み、腕を組んでめんどくさそうに溜息を吐き出す。
私達は婚約者と言っても、侯爵家と伯爵家同士の結束を強めるための政略結婚。
だからお互い恋愛感情はない。
それでも、せめてお互い良き友人同士のような関係になれればいい。そう思って、ずっと彼と歩み寄るために頑張ってきた。
政略結婚でもこの先ずっと彼と一緒にいなければならないから――
「アンジュール。お前が王立植物園に行きたいって言ったから、わざわざ俺が時間を作って連れて来てやったんだぞ? 猫より植物だろ。ほんとめんどくさいよな、お前って」
「申し訳ありません。ですが、本当にさっき聞こえた猫の鳴き声がおかしかったんです。あんな猫の鳴き声今まで一度も聞いた事がありません」
私がそう言えば、ワンダー様が舌打ちをした。
今、私達がいるのは王立植物園の片隅。
閉園前ともあってか周りには他に人がいない。
そのため、私達の足音に混じり猫の鳴き声がはっきりと聞こえた。
まるで掠れた悲鳴のような鳴き声。
生まれて十八年。そんな猫の鳴き声なんて聞いたことがない。
猫を飼ったことがない私でも「ちょっとおかしい」って思い、たまらずに足を止めてしまうくらいに……
「ワンダー様。私、少し見てきます」
私は彼の返事を聞かずに通路から外れて茂みを手で払うように分けて覗けば、猫が横たわっているのを発見。
きっと元々は雪のように白い綺麗な猫だったと思うんだけど、今は灰にまみれたように汚れて毛もバサバサだ。
しかも、なんか痩せているような気がするし、右足に怪我をしている。
「やっぱりいたわ。猫……」
私は驚かせないようにゆっくり近づいたんだけれども、猫は私が近づいても逃げずにぎゅっと苦しそうに目を瞑っていて辛そう。
「野良かよ。せめて貴族の飼い猫ならなぁ」
いつの間にかワンダー様が私の横に来ていたみたいで、猫を見ながらそう言った。
「放っておけ」
「ですが……」
「お前、さっき俺が言った言葉も忘れたのか? 俺は猫なんて放っておけって言ったんだ。何度も言わせるな。俺の言葉に従え」
「……」
私は彼の言葉に反論するのを辞めた。
元々良好ではない間柄だけれども、今回の件で歩み寄ることはできないと悟ったからだ。
(きっと、私が体調悪くてもワンダー様は心配してくれないんだろうなぁ)
彼は「人と猫は違うだろ」って言いそうだけど、同じだって思う。だって、私と彼が十五才の頃に婚約してからはや三年。
今までの出来事でわかる。
しかも、彼は男爵子女・シルビアと親しいみたいだし。
私とワンダー様は貴族達が通う王立学園の生徒なんだけど、最近校内でシルビアとワンダー様が恋人同士のように寄り添っているのを見かける。
あまりにも甘い雰囲気と近い距離だから、皆の噂になっているので、そのうち私の家やワンダー様の家にも耳に入るだろう。
「おい、さっさと行くぞ。俺も暇じゃないんだ」
ワンダー様が腕を組みながら不機嫌そうに私を見る。
いつもなら、彼の機嫌を取るために言う通りにするけど今回は無理。
この猫を助ける方が先決。
私には見捨てることはできない。
きっと家に帰っても猫のことが気になってしまうし……
「ワンダー様。この猫は怪我をしています。このままではこの猫の命がどうなるかわかりません……」
「野良だろ。なおさら放っておけよ。ノミでもいたらどうするんだ? うちの馬車には乗せないからな」
その言葉を聞き、私は唇を噛みしめる。
(……困ったわ。今日は侯爵家の馬車で来ているから、乗せて貰えないと病院に連れて行けない。しかも、ここは王都の郊外にあるから徒歩では時間がかかってしまう!)
ワンダー様に首を縦に振って貰うまで説得するには時間がかかるだろう。
そんな猶予はない。
園内で何人かの貴族にすれ違ったから、もしかしたら馬車止めに他の家の馬車が止まっている可能性がある。
その方にお願いした方が早いだろう。
「わかりました。私は猫を保護して病院に連れて行きますので、私を置いて先に戻って下さい」
「お前、偽善者だな」
「え?」
もしかして、責任も取れないのに助けるなということが言いたいのだろうか。
一理ある……
でも、私はちゃんと保護するからには責務を全うするつもりだ。
「猫に対しての責任は取ります。治療費や完治後の猫の面倒も見ますわ」
私は背筋を伸ばして宣言するように言う。
「王族の飼い猫ならまだわかる。恩がうれるからな。だが、この猫は野良猫だ。メリットがない。猫なんて助けて何になる?」
「えっ? そっちですか?」
まさか、そんな事を聞かれるなんて思っていなかったので目を見開いてしまう。
「私が猫を助けたいからやるだけです。勿論、先ほどもお伝えした通り、保護するからには責任を取ります」
「勝手にしろ。やっぱり、シルビアといた方がいい。お前と一緒ではつまらない。俺の時間を潰した謝罪は後でいい。お前といると気分が悪くなる」
ワンダー様はそう言うと、私を置いて通路に戻りそのまま私を放置して先に進んで行った。
それを見ながら、私はほっと安堵の息を漏らす。
(静かになったから、少し心に余裕ができたわ)
「ごめんね。いま、病院に連れて行くからね」
私はかがみ込んで猫を抱き上げようとして固まってしまう。
だって、手の平に感じたのは、思いのほか痩せた体だったから……
見た目で他の猫よりも痩せているなぁと思っていたけど、実際に触ってみると手の平にあたる感触に血の気が引いてしまう。
ついたまらず不安が口から出そうになるのをぐっと堪えたけど、代わりに指先が震え出した。
(大丈夫だろうか? この子。いや、そんな事を考えている場合じゃない。早く病院へ連れて行かなきゃ。お願い。馬車止めに誰か居て!)
私は祈りながら猫を抱き上げると、通路へと戻った。
その時だった。
「アンジュール嬢?」
という、声が聞こえたのは。
弾かれたように振り返れば、そこにいたのは王太子殿下のルークス様だった。
彼の耳上くらいの長さに切りそろえられた満月色の髪を風がさらさらと揺らしている。驚きによって極限まで見開かれた紅茶色の瞳は、私を映し出している。
ルークス様は上質な衣服の上からでもわかるくらいに筋肉質でたくましい。
その上、精かんな顔立ちをしているため、貴族令嬢達に人気だ。
突然の出来事に殿下がびっくりする理由もわかる。だって、急に通路外から人が現れたのだから……
「ルークス様! 申し訳ありません。緊急事態ですのでご挨拶を省かせて頂きます」
「緊急?」
ルークス様は私の手元を見ると、顔色を変えた。
「猫か。弱っているな」
「えぇ。怪我しているんです。ですから、今すぐ病院へ連れて――」
私はここではっと気づく。
(ルークス様に馬車をお願いすればいいのでは?)
「ルークス様。無礼を承知でお願いがあります。この猫を病院に連れて行くのに協力していただけませんか? 私、婚約者の馬車で来たのですが……」
「婚約者……?」
殿下は私の周りを見て、察してくれたらしい。
大きく頷くと、羽織っていた上着を脱ぎ軽く畳むと私に差し出した。
「猫を。ここは郊外だからあまり道がよくない。上着があれば馬車の揺れが少しでも和らぐかもしれない」
「で、ですがっ!」
病院まで運んで貰うだけじゃなく、王太子殿下の服まで借りるなんて恐れ多くて血の気が引く。
「急いで。素人目でも猫の状態がよくないのはわかる。早急に病院に連れて行った方がいい」
「は、はい!」
私は猫を殿下が用意してくれた上着に慎重に乗せれば、殿下が「行くぞ」とすぐさま出口の方向へ体を向け歩き出したので私も後を追った。
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