明日休めたら

「あーちゃん」

 畳の上に正座しうつむく亜紀。その前に立つクリーム色のエプロンをかけた妻は、腕を組んで仁王立ちをしている。両目に宿る怒りの色に、職場から帰ってきたばかりの春輝は気圧されながらも、事の成り行きを見守るべく妻の少し後ろに立った。

「あれは、なに」

 妻が指さしたのは、ベランダ前の窓にかかるカーテンレール。そこに釣り下がるテルテル坊主だった。

「テルテル坊主」

 亜紀は素っ気なく答える。ただただそれだけだったら梅雨時だし、で済むだろう。ただ、普通のテルテル坊主と違ったのは、

「なんで、逆さなの?」

 逆さ吊りだったこと。意味合いは逆転する。

「……雨が、ふって、ほしかった、から」

 ぽつりぽつりと紡ぎだされた言葉を聞くに、娘は意味をわかってやっていたらしい。とはいえ、雨が降ってほしいこともあるだろう。ましてや、今年の梅雨後半は例年よりも晴れが多いのだし、恋しくなったりもするかもしれない。正直なところ、妻がここまで怒る理由がこれっぽっちもわからなかった。

 妻は亜紀のすぐ前までずいっと歩みよってから、顔を上げなさい、と口にする。娘は今、父が帰ってきていたのに気付いたらしく、あからさまに目を泳がせた。

「なんで、雨が降って欲しかったのか、言ってみて」

 亜紀の顔に怯えがあらわれる。元々、大きくなるにつれて臆病なところが見えるようになっていたが、それにしてもここまでは珍しい。そんな娘の反応から、春輝は自らがこの逆さ吊り坊主の遠因であると察する。では、その遠因とはなんなのか? わからないまま、立ち尽くす春輝の前で、亜紀は、目をあちこちに行ったり来たりさせたり、にじり寄る母親の圧力に怯えたりしている。

「よく、わからないけど、その辺にしておかないか」

 反射的に助け舟を出した。すぐさま振り向いた妻が目を尖らせる。

「あーちゃんを甘やかさないで」

「って言ってもなぁ」

 頭を掻く。事情はわからない。おそらく、妻の逆鱗に触れることであり、亜紀は自らの行動によって父である春輝に対して後ろめたさを抱えているのだろう。細かいところが気にならないかといえば嘘になるが、それ以上に娘が苦しむのをあまり見ていたくはない。だったら、自分にとって多少不都合なことがあろうと飲みこんでしまってもいい、と春輝は考えていた。

「ダメなことはダメってちゃんと教えてあげるべきでしょ」

「そうかもしれないけど」

 というよりも、ここまで熱くなるようなことが、テルテル坊主を逆さに吊るしたくらいで起こるのか? 疑問を膨らませる春輝に、だからあなたの口からも厳しく言ってあげてよ、などとろくに事情もわからないうちに娘への叱責を求めてくる妻。少しうんざりしつつ、風呂か夕食を促し時間を置いてから仕切り直すべきか、と考えはじめた矢先、

「お父さんに、家にいてほしかったの」

 ぽつり、となにかをふり絞るように、亜紀が口にする。途端に、諸々のことが腑に落ちる。

「いっしょうけんめい、はたらいてくれてるのに、ジャマしようとして、ごめんなさい」

 頭を下げてから、おどおどとした上目遣い。今にも涙がこぼれそうな大きな眼。

 妻の方に視線をやれば、さあ言ってやって、と無言で促してくる。その気持ちもわかる。ここのところの晴れ続きになる前は豪雨が多く、結果としていくらか入る予定の給金が減っていた。懐はすっからかんなどと言えば大袈裟であるが、やや心もとなく、妻と夜中に話し合いもした。である以上、娘の短絡的な思い付きに苛立つのも無理はないと配偶者というか共生関係上の理解を示す。とはいえ、だ。

「あーちゃん」

 呼びかける。不安に揺れる目で縋るように見上げながら再び、ごめんなさい、と声を絞りだす亜紀。春輝は無言で膝立ちになって目線を合わせてから、

「ごめんな」

 小さく頭を下げた。

「なにやってるの、あなた」

 わけがわからない、というように困惑する妻の方を一瞥する。

「そもそもの原因は、あーちゃんや君を寂しがらせてしまったことだろう。だったら、まず、謝るべきは俺だよ」

 お母さんもごめんな。振り向いたあと、小さく頭を下げる。

「そんなことしないでよ」

「って言っても、心配させたのは俺だしな」

 頭を掻く。もう少し稼ぎが良ければ、逆さ吊りのテルテル坊主くらいで妻の苛立ちを亜紀に向けさせることもなかっただろう。妻としても、決して好き好んで娘を叱っているわけではないはずだ。

 どこか唖然とする妻から再び亜紀へと目を向ける。

「あーちゃん」

「うん」

「明日、もしも雨が降って、仕事が休みになったら、遊び行こうか」

「ちょっと、あなた」

 戸惑う妻と目を瞬かせる娘を見つめながら春輝は、

「ねえ、母さん。あーちゃんを幼稚園に迎えに行ってた頃に通ってた土手を覚えてる?」

 そんなことを尋ねる。

「ええ」

「あそこに鬼灯があるのを知ってるか? そろそろ、見頃だと思うんだよ」

 こういう時は綺麗な物を見た方がいい。今を以てしても綺麗という概念がいまいちピンと来ていないままではあったが、なんとなくそうした方がいいと思う。

「なっ、みんなで行こう」

 妻は再び、ええ、とどこか不本意そうに口にする。その後ろで顔を上げた亜紀も、なぜだか不満げだったことに、春輝は首を捻った。

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