相合傘
ムラサキハルカ
ほうじゅき
通り雨を運んできたと思われた雲の群れは、強い雫をいくつも降りしきらせ、結局長く留まった。
この影響で現場が休みになり帰宅した
いざ、園に着けば、組の担任の若い女性の先生とどうということもない世間話をして足並みを揃えたあと、娘の
「ぴっちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん」
水色のスモックに青い長靴姿の娘は愉快そうに水たまりを蹴っている。蛇の目の傘じゃなくてごめんな、などと思いつつ、春輝は亜紀が濡れないようにとちょこまかとした動きに合わせて傘を動かしていく。持ってきた真っ黒な傘は、量産品かつ大きなものだったが、工事現場で鍛えられた春輝の体がはみ出るかはみ出ないかくらいのぎりぎりな大きさだったのもあり、どうしても肩が濡れた。とはいえ慣れたものであるので、まあ、いいか、などとも思う。
雨だからか、道路は不思議と閑散としていた。空から水の落ちる音と、亜紀の水遊びと歌、それに少し遠くから車の走る気配がするくらい。無音ではないが、程好い静けさだった。とりわけ、普段はうるさい工事現場に身を置いている春輝としては、なかなかいい日だと思う。
そうやって、さほど長くない帰り道を歩いていく。暗い鼠色の空に染まる空の下、帰宅途中の土手にさしかかった。そこで
「な~に?」
ちょうど娘の目にも止まったらしく、指さした先には薄い赤色の果実があった。春輝は亜紀とともに近付きながら、あれは鬼灯って言ってな、と教える。
「ほう、じゅき?」
「そうそう。綺麗だろ」
とは言っても、春輝にとってもあまり馴染みがある植物ではない。かつて、自らの母親から鬼灯市の話などを聞いたことはあったが、実際に市には行きもしなければ見てもいなかった。たまたま小説や歌で名前を聞いたり、ドラマや漫画でそれらしいものを見たくらいで、縁がなかった。だからこそ、こうして自生しているものをみつけたのは、大人である春輝にとっても新鮮である。
「たべられる?」
「ああ、どうだったかなぁ。たしか、毒があった気がする。食べると痛い痛いだったり、苦しい苦しいだったりするかも」
「そっかぁ」
おいしそうなのになぁ。亜紀は未練があるのか、興味深げに特徴的な果実を見つめている。多少のことであれば、経験だと割り切るべきかもしれないが、よく知りもしないもので調子が悪くなったりしたら大変だった。どうしたものか、とにぎにぎと細かに手を動かす娘の首元を軽く掴みつつ考える。
「あーちゃん」
言いながら、引きずるようにして後ろに下がる。たべないよぉ、と抵抗する娘に、ちょっとだけつきあって、と頼みながら、かの植物から距離をとる。やがて足を止めた春輝は、見てごらん、と告げた。
「ほうじゅき?」
「うん、そう。あーちゃんはあれを見て、どう思うかな」
「おいしそう」
元気良く答えたあと、はっとしたように口を抑え、上目遣いとともに、たべないよ、と言い訳をする。春輝は、あーちゃんは素直だね、と笑ったあと、
「お父さんはね、綺麗だなって思うんだ」
「きれい? きれいだね」
父の言を認めてから、それが? とでも尋ねるように見上げてくる。
「綺麗だから綺麗だって言ったんだよ。それだけだ」
「それが、どうしたの」
当たり前過ぎてピンときていないのだろうと察する。実のところ、春輝の中でも、綺麗という言葉と鬼灯が=にはなっていない。ただただ、そういうことにした。
「綺麗なものを、覚えておくといい」
瞬きをする娘を、首元を掴んでいた方の腕で抱えあげる。わっ、と声をあげる亜紀に、見てごらん、と口にする。
暗い空の下、土手に生えるいくつかの薄赤色の果実。ただただ、そこにあるものを見つめる。実のところ、生えているなという感想しかない。しかしながら、娘を抱きあげ眺めていると、気持ちが温かくなる。
できるだけ、こういう時間を増やしたいな。そんなことを思いつつ、きっと明日も仕事だしな、とうんざりもする。とはいえ梅雨時の雨が強くなり、休みが多くなったらなったで、給料が減って困りもするのだが。
「おとうさん、くるしいの?」
胸の内を気取られたのだろうか。おそるおそるといった娘の問いに、そんなことないよ、と応じる。
「あーちゃんといれて嬉しいよ」
亜紀と妻といられればいい。あとはたまに、昔の友人たちと遊べたり、遠方に住む家族を尋ねられれば言うことはないが、ここまで望むのは贅沢だろう。
娘は眉を顰め、疑わし気に春輝を見つめていたが、なにかを決意したようにギュッと腕を首元に回す。
「あーちゃん、おとうさんといっしょ」
「うん、そうだね」
何のことかわからずにオウム返しした春輝の前で、亜紀は頬を膨らまし、ちがうの、と強く口にした。それからしばらく、何か言おうととしているらしかったが、なにもでてこないらしく、もごもごしたあと、拳を作りこめかみの辺りを叩きはじめたので、止めなさい、と軽くたしなめた。いったい、なんなのだろう、と戸惑う春輝をよそに、ぱっと閃いたみたいに、顔をあげる。
「ずっと、いっしょ!」
気持ちとぴったりの言葉をみつけたのだろうか。嬉しそうにやや黄ばんだ歯を覗かせる亜紀の前で、今度は春輝が目を閉じ開く。少し間を置いて、じんわりと滲んでいく感覚が強く強く胸に残った。
「そうだね」
きっと叶わない。そう思っているはずなのに、できればあーちゃんの言葉通りになって欲しい。願いながら、傘の下から景色を眺める。
風雨の中で、水滴を纏う鬼灯はただただそこにあった。その景色とともに、抱き着いた小さな体の温かさが強く記憶に焼きついていく。
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