第四話:紫の尋問

 意識は、深い霧の中を漂っているようだった。


 ごとり、ごとりと、規則的な揺れを感じる。馬車の車輪が、土の道を転がる音。背中には、硬いが清潔な布の感触。鼻をつくのは、消毒薬のような、少しだけ苦い薬草の匂い。


 俺は、生きている。


 その事実だけが、朧げな思考の中で、唯一確かなことだった。


 夢うつつの中、誰かの話し声が聞こえる。


「…あのような魔法は、見たことも聞いたこともありません。詠唱も…魔力の輝きすらも無かった…。まるで、ただの『無』が…」


しわがれた、男の声。あの、手練れの護衛だろうか。その声には、困惑と、ほんの少しの恐怖が滲んでいた。


「姫様、あの者は…一体…。少し、不気味です…」


 若い、女の怯えを滲ませた声。オーガの襲撃の際に、馬車の中から聞こえた悲鳴の主だろうか。


 そして、凛とした、もう一人の女の、全てを支配するような声が、霧の中ではっきりと響いた。


「…ええ。だからこそ、価値があるのです。この件は、決して他言無用。分かりましたね?」


 その声に引かれるように、俺の意識は、ゆっくりと覚醒へと向かっていく。


 重い瞼を、こじ開ける。


 最初に視界に映ったのは、揺れる馬車の天井だった。


 どうやら俺は、馬車の長椅子に寝かされていたらしい。そして、すぐそばから、俺を覗き込む、一対の瞳。


 深い、深い、紫の瞳。


 気を失う直前に見た、あの氷のように冷静な光を宿した、あの女性の瞳だった。


「…目が覚めましたか、イッシキ・トオル」


 穏やかな、しかし有無を言わせぬ響きを持つ声だった。俺は混乱する頭で、その言葉を反芻する。


 ――イッシキ、トオル。


 (待て。俺はまだ、名乗っていない。なぜ、この人は俺の名前を…?)


 俺の警戒を察したのか、紫の瞳の女性は、その美しい唇の端に、ほんの僅かな笑みを浮かべた。それは、まるでこちらの思考を全て見透かしたかのような、底知れない笑みだった。


 視界の隅で、馬車の隅に座る若い侍女が、息を殺して縮こまっているのが見えた。扉の脇には、あの手練れの護衛が、微動だにせず直立している。まるで、絶対的な主人に仕えるかのように。


 (なんだこの人…? ただの金持ちのお嬢様か? いや、それにしちゃ、態度がデカすぎる。俺が読んできた物語の知識で言えば、これは『貴族』とか、そういう立場の人間が見せる雰囲気だ…)


「…ここは、私の馬車の中です。貴方は、丸一日眠っていました」


 彼女は俺の疑問には答えず、淡々と事実だけを告げた。


「あの…護衛の人たちは…」


「ええ。貴方のおかげで、全員、命だけは取り留めました。今は、後続の馬車で休んでいます」


 後続の馬車。やはり、一台だけではなかったのか。そして、彼女が平然としているところを見ると、この襲撃すら、彼女にとっては想定の範囲内だったのかもしれない。


 得体の知れない恐怖が、背筋を這い上がってくる。


「さて」と、彼女は本題に入った。


「いくつか、お聞きしたいことがあります。貴方は、何者です? どこから来たのですか?」


 尋問だった。穏やかな口調だが、有無を言わせぬ圧力が、馬車の中の空気を支配する。


「お、俺は…一色、トオルです。東の、その…人里離れた村の…」


 まずい。咄嗟に、使い古されたテンプレの言い訳が口をついて出た。我ながら、あまりに稚拙な嘘だ。俺の脳内データベースが、「記憶喪失」か「辺境の村出身」の二択しかないと告げていた。自分でも顔が熱くなるのが分かった。


 彼女は、俺の嘘を追及するでもなく、ただ静かに、次の問いを投げかける。


「あの力は…一体何です? あれは、この世界のどの魔法の体系にも属さない、異質なものでした」


(異質…? なんだその、化け物を見るような言い方は。やっぱり俺の力は、何かヤバいものなのか…?)


「さあ…。自分でも、何が何だか…。ただ、夢中で…。火事場の馬鹿力、みたいなものだと、思います…」


 声が、上ずる。額に、嫌な汗が滲んだ。


 彼女は、俺の答えに、何の反応も示さなかった。ただ、その紫の瞳で、俺の心の奥底までを見透かそうとするかのように、じっと見つめ続ける。


 沈黙が、重くのしかかる。


 もうダメだ。全て、見抜かれている。


 そう観念した、その時だった。


「…そうですか」


 彼女は、ただ静かにそう呟くと、ふいと俺から視線を外し、馬車の窓の外へと向けた。


「私のことは、『イラ』とお呼びなさい」


 尋問は、終わったらしい。彼女が俺の嘘を信じたとは、到底思えなかった。


「…着きましたよ」


 その声に促され、俺も窓の外を見る。


 そして、息を呑んだ。


 眼下に広がるのは、城壁に囲まれ、ひしめき合うように建てられた、活気のある街。石造りの建物が並ぶ、美しい街並み。


 しかし、その街の向こう側。


 まるで世界の墓標のように、巨大で、静かで、そして全てが灰白色に染まった、もう一つの「街」が広がっていた。

 

 その中心には、巨大な「廃墟」が、天を突くようにそびえ立っていた。


 生きている街と、死んだ街。生と死が、隣り合って存在している。


そのあまりに異様な光景が、一つのフレームの中に収まっている。


「あれが、黄金と混沌の街、ヴェスピアです」


 彼女の声は、どこまでも静かだった。


 俺の、本当の異世界生活が、今、この瞬間から始まろうとしていた。

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