第三話:黒い点と亀裂

 目の前にいるのは、圧倒的な「死」の具現だった。


 オーガの咆哮が、森の空気を震わせる。頭が、理解を拒絶していた。物語の「テンプレ」は、安全な紙の上だから楽しめる。生々しい現実として目の前に突きつけられたそれは、ただの悪夢だ。


 俺は道の脇にある茂みに身を隠し、息を殺してその様子を窺っていた。


 街道の真ん中では、最後の護衛が一人、満身創痍で長剣を構えている。その革鎧は傷だらけで、装飾もない実用的なものだった。


(馬車…護衛…なろうで見た展開だ。でも、なんだ?護衛の腕は立つようだが、馬車はやけに質素で…)


「グルオオオオッ!」


 オーガの咆哮が、俺の分析的な思考を吹き飛ばした。


 護衛は手練れだった。彼は体をひねり、盾の角度で衝撃を流そうとした。だが、次の一撃は速さも重さも桁違いだった。盾ごと押し潰され、護衛の身体は紙屑のように吹き飛ばされる。


 ああ、もうダメだ。


 歯の根が、ガチガチと鳴る。


 オーガが、ゆっくりと半壊した馬車の扉に手をかける。中から、先程の女性のものと思しき、短い悲鳴が聞こえた。


 死ぬ。あの人たちが、死ぬ。


 そしたら、次はきっと俺の番だ。


 ミホの怒った顔、ユウトの冷たい声、サキの悲しそうな笑顔が、脳裏をよぎる。


 ごめん。


 ごめん、俺は、やっぱり、何もできなかったよ。


 ――嫌だ。


 脳の奥で、何かが叫んだ。


 ――ふざけるな。


 絶望が、心を黒く塗り潰していく。サークルを追放された夜の、あの無力感が蘇る。地球でも、この世界でも、俺は結局、何もできないのか。


 そうだ、魔法だ。火だ。赤は、火なんだろ!


「――ファイア!」


 俺は茂みから飛び出し、震える指先をオーガに向け、必死に念じた。


 しかし、現実は非情だ。指先に灯ったのは、やはりライターほどの、ちっぽけな炎だけ。それは、オーガの影に呑み込まれるように消えた。


 だが、その一瞬の閃きが、オーガの注意を引くには十分だった。その醜悪な顔が、血走った視線が、はっきりと俺を捕らえる。


 まずい。


 オーガは、馬車を無視してこちらへと地響きを立てて歩み寄ってくる。一歩、また一歩と、死が近づいてくる。


 オーガが、目の前で大木のような棍棒を振り上げた。


 もう、何も考えられなかった。


 ただ、心の底から、魂の全てで、叫んだ。


 ――来るな。


 ――俺に、触るな。


 ――消えろッ!


 それは、魔法の詠唱ではなかった。俺の魂が、この理不尽な現実に叩きつけた、純粋な「拒絶」の絶叫だった。


 その瞬間、世界から音が消えた。


 俺とオーガの間に、何もないはずの空間に、まるで真っ白な紙の上に一滴の黒いインクが落ちたかのように、漆黒の『点』が生まれた。


 それは瞬時に、空間そのものを裂く『亀裂』となり、振り下ろされた棍棒の軌道を飲み込んだ。


 光も、衝撃もない。


 ただ、静かに、オーガの右腕が。骨も、肉も、皮膚も。まるで絵の線を消しゴムで雑にこすり取ったかのように、するりと消滅した。


「グ……ギィ…?」


 オーガが、信じられない、というように、綺麗になくなった自らの右腕の断面を見つめている。痛みすら、理解できていないようだった。


 その、致命的な隙。


 世界に音が戻った。


「――貰ったァッ!!」


 吹き飛ばされていたはずの護衛が、血を吐きながらも立ち上がった。転がっていた自らの長剣を拾い上げ、一瞬の隙を逃さずオーガの懐に飛び込む。そして、がら空きになった首元へ、渾身の力でその刃を突き立てた。


 断末魔の叫びを上げる間もなく、巨体は地響きを立てて崩れ落ちた。


 静寂が、森を支配する。


 助かったんだ――そう理解した瞬間、俺の全身から、まるで魂ごと抜き取られるような、凄まじい虚脱感が襲ってきた。視界がぐにゃりと歪み、地面が、天井になった。


 何が起きたんだ? 俺は、何をした?


 霞む視界の中、半壊した馬車の扉が、ゆっくりと開くのが見えた。


 フード付きのマントを羽織った、一人の人影が、静かにこちらを見ている。フードの奥から覗く、美しい紫の瞳が、驚愕と――そして計量するような鋭さで俺を射抜いていた。


 その瞳に宿っていたのは、感謝や安堵ではない。未知の現象を目の当たりにし、その価値を値踏みするかのような、冷たい光だった。


 その瞳を見たのを最後に、俺の意識は、ぷつりと糸が切れるように途絶えた。

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