スピット

もずくのもくず

第1話

暖かな記憶だ。

カメラの後ろで心配そうに見守っていた母に駆け寄る私、抱きしめられた時の温もり、頭を撫でられた時の誇らしさ。

しかし、ストロボのように移り変わる柔らかい記憶の最後は、母の悲しげな顔だ。

「雅紀ならいつかできる、ちょっと無理しすぎただけだよ」


ぐっしょりと濡れた背中の不快感で目が覚める。寝汗のせいだけではない重さを感じつつ、なんとか体を起こし風呂場へと向かう。

最悪な朝が今日も始まった。

シャワーを浴び、着替えを済ませ、足早に家を出る。


もう、15年以上前のことだ。22歳にもなって、なお思い出してしまうのだから、いかに私が当時に呪われているのかを感じる。ただ、その呪いは体をきつく締め付けるだけでなく、確かな多幸感も植え付けてくるから厄介なのだ。元子役として売れたは良いものの、中学に上がった途端に演技ができなくなり表舞台に出ることはなくなった。中学では騒がれたものの、高校は地元から少し遠い所に変えたのもあり、そこまで騒がれるようなこともなかった。

そして大学生になった今、私は誰しもの目に映る日常の風景に溶け込んだ。溶け込んだはずだったのだが、過剰な自意識から友人を積極的に作ったりはしなかった。

少し過去のことに思考を巡らせながら1日の講義を終え、そのままの足でバイト先のパチンコ屋へと急ぐ。

いつも通り制服に着替え、ホールを回る。時給が良くなければ、やりたがる人間の少ない仕事だと思う。インカムから私の休憩を告げるマネージャーの声が聞こえる。更衣室に戻り、煙草とライター、携帯灰皿を持って外の非常階段に行き、少し登ったところに腰をかけ、一息ついてから煙草に火をつける。また、今朝の夢について考えていた。


「黄昏てんなぁ、元天才子役さんよぉ〜」

声のする方に目を向けると、その声の主は何かを投げつけてきた。

「俺ブラック飲めないんですけど。てか、源さんまたサボりっすか?マネージャーにチクりますよ?」

「またそんなこと言って〜、俺クビになったら皺寄せいくの雅紀だぜ?」

そう言うと源さんは、私のライターを勝手に使って煙草に火をつけた。

「んで?なに黄昏れてんのよ」

「なんでもないっすよ」

「んなこと言わずによ。ほら夕陽をバックに人生の先輩として黄昏れてる青年に金言を授ける、どうよ〜絵になるだろ?」

咥え煙草をした源さんが片目を閉じ、両手でレンズを作って覗き込んできた。

「その大人が37歳でパチンコ屋のバイトしてる人間じゃなかったらね。じゃ休憩終わるんで」

そう言い放って非常階段を降りる。

背中に感じる夏の斜陽に押し込まれ、重たい鉄の扉を開けた。


「お疲れ様でした!お先失礼します!」

「お疲れっしたぁ〜」

先に上がる私達を羨ましそうに見るマネージャーを後にし、重たい扉を閉める。

「お疲れ様でしたぁ!お先失礼しますぅ!」

私の言葉を小馬鹿にしながら階段を降りる源さんを無視し、咥えた煙草に火をつける。

「んっ」

煙草を吸う私に手を伸ばしながら、源さんはライターをつけるふりをする。

「律儀な後輩バカにするような人間に貸すライターはないですよ」

「わーたよ、すまんすまん」

ポケットに入れかけたライターを投げ渡す。

「雅紀、次のドラマの脚本代わりに書いてくれ」

「ふざけないでください、締切守らないと町田さんに怒られますよ」

「最近ピリピリしてるよなあいつ」

イタズラした子供みたいに笑う口元には咥え煙草と無精髭、そのアンバランスさに釣られて私も少し笑ってしまう。

「誰のせいなんすかほんとに」

「わりぃわりぃ。でもまぁ何とかするでしょ、俺は。」

『まぁ何とかするでしょ、俺は』というのは源さんの口癖で、なんとも無責任な言葉なのだが、事実何とかしてしまうこともあるから無責任とまで言い切れない。

「信じてますよ、監督」

「あらら、珍しく素直じゃない。おじさん嬉しくなっちゃったので飲み行くぞ!奢らねーけど」

「明日も大学なんで遠慮しときます」

そう言って百均の携帯灰皿に吸い殻を入れ、数回それを揉んでからポケットにしまった。

「んだよ、相変わらず連れねーなぁ」

「さーせん、お疲れした」


源さんと出会ったのは、半年前だ。

半ば強制的に入らされたバドミントンサークルの幽霊部員だったにも関わらず、新歓に無理やり参加させられた日のこと。久しぶりに飲んだ酒のせいか、大勢を相手にした人疲れからか、1次会を何とか抜け出した後、私は路地に座り込んでいた。

「兄ちゃん、大丈夫かぁ?」

そう言うと、その男は無遠慮に顔を覗き込んできた。声にならない声で大丈夫ですと伝え、その男も立ち去ろうとしていたのだが、再びその男は私の顔を覗き込んできたのだ。

「おいおい、消えた天才子役、篠宮楓じゃねぇか!」

久しぶりに聞く篠宮楓という名前に意識が引き戻され、瞬間その場を立ち去らなければいけないという気持ちで脳が占領された。しかし、すぐに立ち上がり、走り出したと思っていたのは私の意識だけだった。体は意識についていかず、地面がやけに近く感じたと思った次に私が認識したのは、見知らぬ天井だった。


頭と鼻に痛みを感じながら立ち上がり、襖の奥に見える光を頼りに戸を開けた。

「お、目覚ましたか。それにしても随分と派手に転んだなぁ」

換気扇の下で煙草を吸っている男が話しかけてくる。

「どちら様ですか?」

「おいおい、恩人に向かって失礼じゃねぇか。兄ちゃんをここまで運んできたのは俺だぜ?ったく、37歳の体力舐めんなよ?」

「それは本当にすいません。ご迷惑をおかけしました」

「それで?消えた天才子役の篠宮楓くん、いや内村雅紀くん。君はあんなところで何してたんだい?」

そこまで話されて全てが繋がった。

私は、この男から逃げようとしていただ。

「なんで本名まで知ってるんですか」

「ってことは、元天才子役ってことは否定しねぇのな」

その一言で、私は目の前にいる男に対しての警戒を強めた。

「そんなおっかない顔すんなよ。何かあった時のためにちょろっと保険証見ただけだから安心しな」

「ついでに、俺はこういうもんだ」

その男はレシートまみれの財布から一枚の紙を取り出し、2本の指で挟んでこちらに渡してきた。

「梶澤 源、劇団スピット監督?」

「その通り、俺はYouTube上で劇団をやってんだ。ま、劇団って言ってもメンバーは4人しかいないけどな。んで、その監督・脚本が俺ってこと。ここはその事務所な」

今なお、私の子役時代を覚えている人間は、業界関係者か当時の熱狂的なファンかのどちらかしか考えられないため、後者でないことに少し安堵する。

「それでさ、すっ転んで意識の飛んじまった雅紀くんを、這う這うの体でここまで運んで傷の手当てまでしてあげたお礼にさ」

「すいませんがそれはできません」

「まだ何も言ってないじゃない」

「絶対この変な劇団に入れって言うじゃないですか」

「お、正解。鋭いね。」

「誰でもわかりますよ」

「流石に無理かぁ。でもな、俺らが変かどうかは見てみなきゃわからねーだろ?その名刺の裏にQRコードがあるからさ、気が向いたら見てくれ」

そう言われ渋々その名刺をポケットに入れ、軽くお礼を言った後、その事務所から立ち去った。


平和台駅から徒歩8分、築25年のアパートに帰り、一息つくためにベランダに出て煙草を吸う。ふとポケットの名刺を思い出し、何気なくQRを読み込んだ。開いた先はYouTubeのチャンネルページ。1番再生数の高い動画を開いた。

そして、その動画を見終えた時。

それまで幼少期で止まっていた私の時間が急激に動き出したのだった。

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