ケモミミのサーガ

楠井飾人

Episode I:逆境の勇者

序幕:別れ

※前書き

『第7話‐変身の大精霊・後編』で『第一章・精霊契約編』が終了します。

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 閑々とした鈍色の空に不気味な雲が漂っていた。

 邪神ウルが作り出したあの空の光景に一体どれだけの人が恐怖したのだろう?


 はてさて。それは最早だれも知る事が出来ない数字だ。

 ただ。『その数字は途方もなく、そして数える事すら億劫だった』——そんな認識だけは、邪神ウルへの畏敬を表す為に、未来永劫、引用され続ける事だろう。

 無慈悲に、不条理に。

 しかし、万人へ平等に死を与えて来た邪神ウルの恐ろしさは、それ程までに強大であったのだ。


 「——あぁ、全く。何たる事であろうか……」


 だが、そんな邪神ウルが起こした悲劇も今日で幕を閉じる。


 「……よもや臆病な神々が、これ程の手駒を持っていようとは……。あぁ、全く口惜くちおしい……実に口惜しき結末だ……」


 黄昏たそがれたように空を仰ぐ『襤褸切ぼれきれれを羽織はおった黒い男』——世界に狂気と混沌と破壊の限りを撒き散らした邪神ウルは、ボロボロと体が崩れ虚空へと消えて行く。


 そう、大精霊シーと大英雄ベオウルフ——つまり、オレ達は・・・・

 見事あの邪悪の化身を討ち倒したのだ。


 「天狼族てんろうぞくの英雄よ、そして神々が創りし精霊よ……今はただ讃えよう……その偉業と、その栄光を……。だが・・……これで終わりではない。まだ何も終わってはいない……」


 尊大な言葉の羅列とは裏腹に、悔し気にオレ達を睨むその姿は今際の際の戯言でしかないのだろう。まるで負け犬の遠吠えにも似た捨て台詞を吐き捨てるウルは、最期にオレ達を睨みつけながら口を開いた。


 「——呪いあれ、災いあれ……その血脈の一切に・・・・・・・・非業あれ・・・・


 そして、そう言い残した邪神ウルヤツは灰となって消えていった。

 同時に鈍色にびいろの空の向こうから一筋の陽光が射し込む。散り散りになって行く雲間から太陽が顔を出し、温かな光が降り注いで行く。


 『おい……ベオ……起きろよ、ベオ……っ!』

 「……あぁ、聞こえてるぜ」


 なのに。なのに大英雄は。

 オレの相棒であるベオウルフは冷たいままだった。


 雄々しく輝く緋色の髪——天狼族最大の特徴であるその誇り高き髪は、生来せいらいつややかな緋色ではなく、赤黒く変色した血の色で汚れている。

 崩れた建物の瓦礫に寄り掛かり、ベオは今にも光が失われてしまいそうな緋色の瞳を虚ろに揺らがせながら、呆然と虚空を見つめていた。

 全身には無数の傷が刻まれ、その傷からはおびただしい量の血。

 まだ生きているのが不思議な程にベオの肉体は傷つき過ぎている。


 その瀕死の大英雄の名を呼ぶ声が一つ。

 彼と契約した神々が創りし最強の大精霊シー……そう、オレだ。


 「……シー。そこにいる……のか?」

 『あぁ、いる……っ。ここにいるぞ……!』


 もうベオの目にはオレの姿さえ映っていないようだった。

 瀕死のベオにはもう視力さえも残されていないのだろうか——いや、きっと違う。

 見えていない・・・・・・のではなく、見る事が出来ない・・・・・・・・のだ。


 何故ならオレは、神々の霊体アニマを寄り集めて造られた精霊。

 完全なる霊的波動体であると同時に、決まった姿と肉体を持たない精霊は、実体化するのに人間との『霊体アニマ』——この世に存在する生命全てに宿る魂の力——へ融合し、霊力マナを供給して貰う必要がある。


 だが、瀕死のベオの霊体アニマでは霊力マナの供給など不可能だろう。

 実体化できない今の状態のオレは、ただ声を届けること位しかできない。

 オレが実体化できずに青くボンヤリとした光——剥き出しになった霊体アニマの状態という事は、それだけベオの霊体アニマがボロボロであり、霊力マナの供給すらままならない状態である事の何よりもの証なのだろう。

 ——つまり、ベオはもう助からない・・・・・・・・・・という事だ。


 『なぁ、嘘だろ……こんな所で死んでどうするんだ……っ!』


 たが、それでも。それでもオレは諦められなかった。

 だって、オマエが死ぬわけないだろ? 

 最強の獣皇じゅうおうベオウルフが死ぬところなんてオレには想像できない。いつだって豪胆に笑って、どんなに危機的な状況であろうと何とかして来たオマエが、このまま終わるだなんて信じられない!


 これは何かの悪い夢だ——。

 目が覚めればベオは、何時もみたいに笑ってくれるんじゃないのか?

 どうしても、そんな子供染みた期待が捨てきれない。


 駄々をねた子供のように、オレはベオのすぐ横に寄り添った。


 『邪神を倒したらたくさんやりたい事があるって言ってたじゃないかよ……っ! デネ帝国はどうする……!? 皇帝のオマエが死んじまったら、誰があの国を纏めるんだ……っ!』

 「……あぁ……」

 『エリーちゃんだってそうだ……っ! 親父のオマエまで死んじまったらっ、あの子は一人じゃねぇかよ……っ! なぁっ、ベオ……!』

 「……そうだなぁ……」

 『……~~っ!』


 ベオに必死に呼び掛けるも、虚ろな反応しか返って来ない。

 もう息をする事さえ億劫な状態なのだろう。次の瞬間には事切れていてもなんらおかしくない。そんな相棒の姿を見ていられず、気付けばオレの声は涙ぐみ始めていた。


 「……はは、は……なに泣いてんだよ、シー。俺の心配なんてしてる場合か……? お前だって消えちまう寸前じゃねぇかよ……」

 『オレはいいんだっ、この為だけに生み出された! オレは邪神を討ち倒す為だけに造られた精霊だ! 使命を終えたオレが消えようがどうしようが、どうだっていんだ……! でも、オマエは……オマエは……っ——』


 ——“これからじゃねぇかよ……っ!” と。


 嗚咽おえつ交じりの声で叫んだオレとは対照的に、ベオの声から少しづつ生気が失せて行く。大量の出血で肌が病的な程に青白くなり始めたベオの目には、もう光の一筋も映っていないのだろう。


 大英雄の矜持きょうじゆえか、薄っすらと浮べられた笑みだけが勝気だ。

 だが、最期の瞬間まで豪胆ごうたんさを崩そうとしないその姿が、かえって取り返しのつかない現実を強調していて、オレの中の絶望感を余計にあおった。


 「……そんな事言うなよ、相棒……使命だか何だか知らねぇが……せっかく生まれたんだ……人生を謳歌しなきゃ、損だろ……?」

 『……。……あぁ、そうだな。オマエの言う通りだ……っ。オレは自分達が救った世界を見に行きたいっ。でも一人じゃダメだっ、オマエとじゃなきゃダメなんだ……! だから——これからも旅を続けようぜ……相棒……っ!』


 縋りつくように。オレはベオに言った。

 気配を感じ取ったのか、虚空を見つめたままのベオの顔が僅かに動いた。


 もう絶対に叶う事の無い夢を口にするオレの祈りは、最期の最後でベオに力を与えたのだろう。次の瞬間、ベオの口から出て来た言葉は、これまで共に旅をして来た相棒に対する感謝だった。


 「——ありがとよ、相棒……楽しかったぜ」


 そして、大英雄ベオウルフは息を引き取った。


 虚ろな瞳に残っていた僅かな光が完全に色を失い、ゆっくりと呼吸で上下していた胸が完全に動かなくなる。心音は止まり、風に吹かれる髪から色味が消えた。

 静かな最期だった。

 あれだけ鮮烈な生き様をした大英雄にも関わらず。

 ——驚く程に、その表情は穏やかだった。


 『うぅ……うぅぁ……っ』


 こらえるようにすすり泣くオレの声だけが響く。

 一人旅立ってしまった相棒の真横で、オレは実体化もしていないのに全身の力が抜けて行く感覚を感じていた。

 相棒を失った絶望感ゆえにか。それとも——。

 目的を遂げたにも関わらず、自分が救った後の世界を見れないやるせなさ故にか。

 答えは、そのどちらでもない。


 ——文字通り消えているのだ・・・・・・・


 オレの身体である霊体アニマを構築している青い光——霊力マナの光が急速に輝きを失い、小さな燐光となって虚空に消えて行っている……だが、それもそのはずだ。

 オレは『邪神ウルを倒す為だけ・・・・・・・・・・・に産み出された精霊・・・・・・・・・』である。


 そのウルが倒れたのだ……オレが消えるのは当然の事だ。

 神々が自らの霊体アニマを切り分け、それを元に造り出された精霊であるオレの使命は、ようやく……ようやく終わってしまったのである。


 『ちくしょぉ……っ、こんなのって無いだろ……っ!』


 薄れゆく意識。暗くなって行く視界。

 全ての感覚が緩やかに世界に溶けて行く感覚を自覚しながら、オレは祈った。


 ——誰でもいい、助けてくれっ、何とかしてくれっ……、と。

 オレのことはいい、この男に未来を見せてやってくれ……っ、と。

 誰よりも多くのものを捧げて来たこの大英雄に、誰よりも世界の為に戦ってきたこの男に、せめてコイツの救った世界を見せてやってくれ……! と。


 オレはただ空を見上げて祈った。誰かに届くように。


 「——残念ですが……貴方の祈りを聞き届ける事は出来ません」


 まるで、そんな祈りが届いたように。だが、その祈りをへし折るかのように——。

 突如として降り注いだ声の主は、ただただ懺悔するような声音でそう言うと、しわくちゃの手でそっとオレに触れて来た。


 「赦して下さい……この期に及んで、まだ貴方を頼るしか出来ない……弱い神々わたしたちを——」


 薄っすらと開いたオレの目に最後に映ったのは四つの人影だった。見覚えのあるシルエットが伸ばして来た両手に抱かれたのを最後に、オレの意識は途切れて行く。


 ——“千年後にまた会いましょう……案内人は用意しておきます”、と。

 その言葉を最後にオレの意識は完全に掻き消えた。




 開拓暦一四八年。

 天狼族の大英雄ベオウルフと変身の大精霊シーを中心とする万夫不当ばんぷふとうの英雄達が、命に始まる全てを賭して、最悪の邪神ウルは討たれた。


 この大戦乱で人類が住んでいた世界は生き物が住むことのできない死の世界へと変貌し、全ての人類は『空間の悪魔トポス』の力により別の世界へと移住したという。

 後の世で『エピタピオスの領界りょうかい』と呼ばれるこの死の世界には、今もなお幾人もの英雄たちが埋葬さえされずに亡骸のまま眠っていると語り継がれる事となった。


 ——勿論。四大英雄と呼ばれた大英雄達でさえ、その例外ではない。


 カインの末裔史上最強の大魔導士『アベル』。

 神話に残る幾百千の魔具を産み出した死の職人『ボグ』。

 ——そして。

 天狼族の大英雄『ベオウルフ』と、変身の大精霊『シー』。


 あの死の世界に立った全ての英雄たちは皆、無念を胸に旅立った。

 得たもの以上に、失ったものが多すぎた邪神との戦いの後の世を知る英雄は、ただの一人としていない……。




 そのはずだった・・・・・・・——。

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