第一章

第1話





 遠き国、緑豊かな国があった。

 国を囲む森の上流からひく、美しい川が街を流れ、そのほとりに城を構えたその国は、森からとれる恵みを他国へ輸出することで栄え、穏やかな繁栄を続けていた。



 エゼキエルは国の王子として、その生を受けた。

 晴れやかな空が川に映り込んだような髪と、川底に木々の緑を溶かし込む澄んだ瞳。父の精悍さと母の美しさを譲り受けた彼は、立派な国王となるべく勉学に励み、研鑽を積んでいった。

 王と王妃に祝福され、よき臣下、よき国民、よき大地に恵まれたエゼキエル。彼はその環境へ日々感謝を忘れず、まっすぐな青年として成長を重ね、幸福な毎日を過ごしていた。


 しかしその日々は、たった一晩で文字通り、砂に沈んでしまったのだ。


 数人の臣下を連れて隣国の晩餐会に参加し、翌日。

 日が高くならないうちに帰国した、彼の目に飛び込んできたのは、巨大なだった。

 流れる川も、賑わいを見せる大通りも、美しくそびえていた城も見る影がなく。

 潤う全てが灼熱の日照りで渇いたかの如く、おびただしい量の砂の中へ消えていた。

 掠れた声で呼びかけても誰の返事もなく、それ以上に言葉もなく立ち尽くす彼らを嘲笑い、砂塵が風に舞って頬を汚す。

 あの時、涙が溢れたのかは、誰も覚えていない。

 エゼキエルの愛する故郷はその日、この世界から消え失せたのだと、それだけは確かな事実だった。



 ◆ ◆ ◆



 すっかり陽も落ちた夜。

 無事に村落の宿へ辿り着き、しかし流石に男女一部屋とするわけにいかず、それぞれ別に部屋を取ってから、二人は宿場の食堂で顔を合わせた。

 体の汚れを洗い落とし、身なりを整えたエレキゼルは改めて、助けに現れた女性──カスティに頭を下げる。


「先ほどは本当にありがとうございました、カスティさん」

「いいえ。ご無事で何よりです」


 柔和な表情でそう言い、彼女は身の丈以上ある杖を壁に立て掛けると、ほう、と一息ついてエゼキエルに視線を向けた。


「助けが間に合ってよかった。前の街であなたの事を聞き、急いで参りました。もっとはやく追いつければ良かったのですが……」

「そんな、しかし、なぜ……?」


 困惑するエゼキエルに、カスティは一つ瞬くと首を傾ける。


「創造主より、あなたが願いの泉を探していると聞きました」


 彼女の口から発せられたその言葉に、エゼキエルは軽く息を吸い込んで瞠目した。

 “願いの泉”。森の奥深くにあると言われるそれは、辿り着いた者に生命の息吹を与え、この世界の条理に適うことであれば、何でも一つ願いを叶えてくれると言われる場所だ。

 自国が退廃してからこの一年あまり、エゼキエルは臣下を同盟国に残し、その泉を探して旅をしている。泉の存在を教えてくれたのも、カスティを導いた、この世界の創造主であった。

 エゼキエルの願いは、国を再建するための力を授かること。過ぎ去った時間が戻らないのであれば、元の場所を整備し、再び緑豊かな大地と国を取り戻す礎として、大きな力が欲しかった。泉という不確かな目標でも、それが今の彼を動かす原動力となっている。


「わたしも、その泉を探しているのです」


 片手で自身の胸に当て、カスティは僅かに目蓋を伏せた。髪の隙間から見える朝焼けの瞳に、影が落ちる。


「わたしはこれでも、偉大な王に仕える騎士でした。しかし戦で負傷し目が覚めると、国も、王も、どこにもなくて……。……どうしても見つけられないのです。わたしはあの方に、再び会いまみえたい。鬼籍でも良い。故郷の跡地に訪れ、墓石に手を合わせるだけでいい。……泉にただ、そう願いたくて」


 微かに言葉尻が揺れるその声が、空気を振動させた。

 いつの間にか彼女の指は赤いマントを鷲掴み、小刻みに震えている。どれほど王を尊び敬愛していたか、その深さを窺わせた。

 息をのむエゼキエルに再び視線を戻したカスティは、真摯な眼差しをしている。そのまま深く頭を垂れた。


「泉を探す旅に、同行させて欲しいのです。道中、わたしがあなたをお守りします。どうか、……どうか、あなたの旅に、わたしをお連れください、王子」


 迷いのない声に胸を打たれ、たまらず椅子を蹴って立ち上がる。

 カスティの両手を握りしめれば、驚いた様子で顔を上げた彼女の双眸を見つめ、息を吸い込んだ。


「共に参りましょう」


 同じだと、そう思えた。

 どちらも故郷を無くし、愛する人を想い、途方もない噂でも、藁にもすがる思いで歯を食いしばる。そんな境遇が同じだと思えた。

 同じだと思うことで、自分を保とうとしているのかもしれない。それでも今は十分だった。


「二人で協力して、泉を目指しましょう。女性の前で大変恥ずかしいですが、私は武芸が達者ではなく、この先も一人では不安だったのです。先ほど助けて頂いたお礼もしたい。私もどうか、貴女の力にならせてください」


 未来に光を感じる興奮からか、声も明るく張りを取り戻すようだ。

 カスティは気押された様子であったが、すぐに笑みを深めて目尻を下げる。

 柔和で優しい、爽やかな朝を告げる日差しのような、笑顔だった。


「ええ、もちろんです。……創造主から、お人柄を聞いていましたが、……本当にエゼキエル王子は、その名の通りな人ですね。あなたの言葉は、闇を切り開き導く矢のように、胸へ飛んできます」


 冗談交じりに笑う彼女に重なり、父と母の声が頭へ響く。

 生まれてから死に別れるまで、愛情を込めて幾度となく呼ばれた己の名前だ。

 伸びやかな軌道を描き、まっすぐに世界を進むように。そんな願いが込められ代々受け継がれてきた、『導き』を冠する、誇らしい言葉。

 透明な雫が一つ、目尻から零れ落ちた。


「っ、王子?」

「も、申し訳ない。随分久しぶりに、名前を呼ばれたことに気がついたら、感傷的になってしまって」


 片手の甲で濡れた頬を拭い、眉尻を下げて笑みを返す。

 一人旅をしていれば当然かもしれないが、自分の名前を他者の声で聞く機会など、ほとんど無かったのだ。そも事実に気がついてしまえば、心細く寂しい胸の内を、まざまざと感じさせられる。

 自分の心が弱っていることを、ただひたすらに、痛感したのだった。


「ありがとうございます、カスティさん。この道中、どうかよろしくお願いします」


 再び手を取って礼を言うと、カスティは一度瞬いて、ゆっくりと頷いた。



 ◇ ◇ ◇



 寝静まる街の様子をカーテンの隙間から見つめ、カスティは目を細める。

 一つ、また一つと消えていく灯りで、自分も体を休めねばと思うのだが、いかんせん、目が冴えてしまって眠りが訪れない。

 対するエゼキエルは、安心しきっているのだろう。就寝の挨拶を終えた後、彼はまっすぐに部屋へ戻り眠ったようだ。

 去り際、やや青白く疲れの色濃い顔が、今も目に浮かぶ。

 この世界の神、もしくは創造主と呼ばれる存在から耳にした、彼の境遇とこれまでの苦悩を物語っていた。

 冷めた双眸で空を見上げると、真っ白な満月が、ますます手の届かない場所へ昇ろうとしている。暗い夜空にぽっかりと穴が空いたような、この無様な心を見透かすような、不愉快な空だった。

 カーテンを閉めてマントを脱ぎ、宿のベッドへ横になった。

 目蓋を閉じれば自ずと眠りも訪れるだろう。ロガモールの女性体にしては長身であるが故に、足が少々飛び出てしまうが、一晩の辛抱だ。

 壁を向いて身を縮こまらせ、自分を抱きしめる。

 砂で出来た髪が、ざらりとシーツに広がった。







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