第7話 いざ出発
とても冷たい水に鳥肌が立ちながら一通りの手入れを終え、おばあさんの部屋の前に立った。すると、ノックをするまでもなく、ドアがひとりでに開いた。書斎と寝室が合体したかのような構造の部屋に気後れしながらも、そっと足を踏み入れた。
おばあさんは書斎机の上に布を広げ、腕を組んでいた。扉を閉めると、おばあさんはその場でゆっくり振り返った。
「そこで少しじっとしてな」
言われたとおりじっと立っていると突如、体中が白い光に包まれる。思わず目を腕で覆ってしまうほどまぶしい光がおさまると、正面に姿見鏡が立っていた。そこに映し出されたのは、今朝見た海のように透き通った青色の着物に身を包んだ私だった。後ろ髪はいつものバレッタ風の髪留めでゆるく留められており、背中に携えた純白の翼と相まって我ながらとても似合っているように感じた。
「あらかわいいじゃないか」
横を向くと、おばあさんがにこやかに微笑みかけていた。あまり褒められないのもあって、なんだか顔が熱くなってくる。
「ありがとうございます!こんな素敵な服を用意してくださって」
「いいんだよ礼なんて。さ、ぼちぼち出発の時間だ」
おばあさんが扉を開けると、姿見鏡はひとりでに棚の奥へと消えていった。少しづつ慣れてはきたものの、やっぱりまだ驚きを隠さずにはいられなかった。
1階に下りると、黒いローブに身を包んだリュノがソファに腰掛けていた。その下から僅かに覗いている紺色の和服がもったいないほど黒い上に、あの黒い翼が影も形も見えなくなっていた。疑問が募る中、ゆっくり腰を上げたリュノと目が合った。
「っ!」
リュノの表情が一瞬、固まったように見えた。しかし、すぐにいつもの冷静な表情に戻る。藍色の髪をかき上げながらテーブルの方に近づくと、置いてある小袋を懐にしまった。
ため息をついたおばあさんに背中を押され、テーブルへと近づく。そこには、小さな袋がひとつ置いてあった。
「それを持って行くんだ。袖口にポケットがあるだろ?」
「えっと、ここか。何が入っているんですか?」
「ちょっとしたお小遣いさ。大事に使うんだよ」
「あれ、おばあさんは行かないんですか?」
「わしはやることがあるのでな。ま、この子と一緒に幸運を祈ってるよ」
おばあさんはクロを抱き上げ、その小さな頭を優しく撫でた。クロはまんざらでもなさそうに「にゃ~」と甘い声を上げた。その声と表情に元気をもらった私は扉の取っ手に手をかけた。
「いってきます!」
「いってらっしゃい」
1人と1匹に見送られながら扉を開けると、森の新鮮な空気が入り込んできた。雨上がりの森は、土と木の葉の湿気った香りにまみれていた。
灰色の薄い雲が空を覆い始める中、リュノの先導で深緑の森の中を歩いていく。着物の割に普段と遜色ないくらい体を動かせることに少々驚いていた。
少し歩いたところで、リュノは小さく咳払いをした。
「ここからしばらく歩いたところに、
「うん。わかった」
そこからしばらくは、土を踏みしめる音だけが耳に入ってきた。いざ二人きりになると、何から話そうものかと迷いが生じる。それでも、不思議と居心地の良さを感じていた。
昔も、夜の時間にこうしてよく一緒に歩いたものだ。2人で花が咲き誇る山を上り、頂上でたくさんのきらめく星を眺めた思い出が蘇ってくる。リュノはそのこと覚えてるのかな?
「懐かしいな」
「え?」
「こうして一緒に森の中を歩くのが、なんだか懐かしくてさ。あの頃は俺にとっちゃ、冒険の日々だった。中でも、星を見に行ったのは、今でも大切な思い出だ」
「っ!覚えてるの?」
「ふっ。忘れられる訳ないだろ」
ふいに見せたその柔らかな笑顔は、昔と変わらずあどけなかった。そしてこの先、何度もその笑顔が思い起こされることになろうとは全く思いもしなかった。
そこそこ起伏のある道を歩き続け、足が棒になりかけたところでリュノは「おっ」と呟いた。
「見えてきた。あそこが葉落の入り口だ」
リュノが指をさした先には、木でできた簡易的な門が建っていた。そこをくぐると、木造の小さな日本家屋が建ち並ぶ姿が目に入った。店らしきのれんを構えているところが多く、はんてんや着物を身に纏った天使たちが活気の良い声で呼び込みを行っていた。そのそばを、小さな小袖に身を包んだ子どもたちが駆けていく。
まだ午前中だというにも関わらず、村の中はそれなりに賑わっていた。それらの光景を見ていると、なんだか時代劇の世界にタイムスリップしたかのような感覚に陥っていた。皆の背中に翼が生えていることを除けば、完全に一昔も二昔も前の光景だ。
半ば観光気分になり始めた私をよそに、リュノはどんどん前に進んでいく。はぐれてしまわないよう目と足で追いつつ、葉落の風景を堪能した。
青と白の市松模様ののれんが掛かっている店の前でリュノは足を止めた。店頭に近づくと、商品を並べていた店主らしきおじさんが振り向きながら立ち上がった。
「らっしゃい!、って、リュノじゃねーか!そちらさんは?」
「俺の古い友人だ」
「ほんとかぁ~?」
目尻を下げ、わざとらしい声を上げるおじさんの言葉を無視して、リュノは店へと入っていった。「つれないね~」と呟くおじさんの背中に思わず目が行ってしまった。
そのたくましい背中には翼のつの字すら見当たらなかった。見慣れた人間の姿に目を離せずにいると、振り向いたおじさんとちょうど目が合ってしまった。
「翼がないのが珍しいかい?」
店主はしゃがれた声でそう尋ねた。とっさに目をそらしたつもりだったが、どうやらバレていたようだ。
「す、すみません!じろじろ見てしまって」
「いいんだよ。その反応を見せるってことは、最近現世を離れたんだろ?」
「は、はい」
「そうかそうか。なら、聞いて驚くなよ」
腰をかがめて目線を合わせると、おじさんは左手を口元に添えた。
「おっちゃんな、実は数年前まで冥界の『地獄』っちゅうとこにいたんだ」
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