第2話 三途の川
ちゃぷん、ちゃぷんと水をかくような音が耳に入る。うっすら目を開けると、古びた小舟に乗っていることに気がついた。
灰色に濁った川を、顔の見えない船頭さんが漕いでいる。辺りは薄い霧がかかっており、遠くまで見据えることはおよそできなかった。
また、私の他にも船に同乗している人が数人いたが、皆どこか虚ろげな様子。そして全員が、模様もない一様な白い装束を身に纏っていた。
かく言う私も、まだ頭がぼんやりとしているし、着慣れた制服ではない白い装束を身につけていた。ここがどこなのか、彼らが誰なのか、どうしてこの小舟に乗っているのか、何もかもがまったく分からない状態だった。
それを探るために、もやのかかった記憶の森を探索し始めると、手元から「にゃー」という緊張感のない鳴き声が聞こえた。下を向くと、クロがそのつぶらな瞳で私のことを見つめていた。その小さな頭をそっと撫でていると、ふいに横から声をかけられた。
「おやまあ、可愛い子猫じゃのう」
しわがれた声を発するそのおばあさんは優しい眼を向けた。それに応えるように、クロも「にゃ~」と緩い声を上げる。
「あの、どうしてこの舟に乗っているのでしょうか?」
「どうしてって、三途の川を渡るために決まっておろう」
「三途の、川……」
どこかで聞いたことのあるその言葉を引き金に、直前の記憶がおぼろげながら蘇ってきた。
(そうだ。クロを助けようとして、車に引かれたんだ。今、三途の川にいるっていうことは、私、死んじゃったんだね)
そこには、案外すんなりと死を受け入れている自分がいた。まだまだやり残したことや楽しみたいことがたくさんあったはずなのに、それらを憂うだけの気力がいまいち起きなかった。
もしかして、三途の川にいるせいなのかな?、と考えてみたものの、答えが出るより先に重い疲労感がどっとのしかかってきた。
考えることをやめてゆったり小舟に揺られていると、だんだん瞼が重くなってきた。意識が途切れる間際におばあさんが何かを呟いていたが、聞き取れるだけの元気は既に残っていなかった。
お腹を軽く小突かれる感触で意識が戻される。目を開けると、小さな黒ネコがそのか弱い肉球でペチペチしていた。私が起きたのに気づくと、屈託のない笑顔で「にゃ〜」と鳴き、膝元から降り立った。
そこでようやく、小舟が川辺に止まっていることに気がついた。岸から少し離れたところには鬱蒼とした森が広がり、その入り口らしきところに長蛇の列ができている。舟を漕いでいた船頭さんの姿はどこにもなかった。
先に降り立ったクロは、まるでついてこいと言わんばかりにじっと私の方を見つめている。
(何かあるのかな?)
転ばないようゆっくり腰を上げて舟を降り、クロのあとをついていった。人々の列の先には、神社の本堂のような木製の建物が鎮座している。その足元で、巫女らしき紅白の装束に身を包んだ女性たちが慌ただしい声を上げていた。
一番端の列の最後尾に座り込んだクロを抱き抱え、そのまま並び始めた。左前に着付けされた装束の襟元を整え直し、クロの背中を撫でながら自分の順番を待ち続ける。
風が吹くことも、日差しが差すこともない。生き物の気配は微塵も感じられず、ただ空虚な時間だけが過ぎ去っていった。
なんとなく、列の左側に広がる森の方に視線を移す。霧の立ちこめる陰鬱な雰囲気に包まれたその空間も例に漏れず、生気というものがまったく無いように思われた。木の根元で咲き誇る彼岸花も、まるで時が止まったかのように固まったまま佇んでいる。これでは造花の方がよっぽど生き生きとしていそうだ。
味気のない殺風景に見飽きたので顔を逸らそうとしたその時、思わず息をのんだ。
私の両目は確実にひとりの人影を捉えていた。輪郭線のはっきりしないその人影は森の中で微動だにせずに突っ立っている。それに心なしか、私のことを見ているような気がしてならなかった。
一瞬だけ、霧が薄くなる瞬間があった。その時に、人影の表情がほんの少しだけ垣間見えた。ほほやおでこに刻まれた深いしわに、どこか安心する朗らかな表情には見覚えがあった。
(おばあさん?)
そう思った矢先、後ろからトントンと肩を叩かれた。反射的に振り向くと、幸薄そうな女性がじっと指を差していた。どうやら「前に進め」ということらしい。「すみません」とひと言告げ、合間を詰める。その最中、ちらっと森の方を見たが、すでに人影はどこにも見当たらなかった。
再び虚無な時間を過ごしていると、やがて私の番がやってきた。巫女さんは私の顔を見るや否や辞書のように分厚い本を開き、私の顔と本を交互に見比べた。
「中村結衣さんでお間違いないですか?」
「は、はい、そうです」
「ありがとうございます。ここからいろいろと確認をさせていただきますね。えーっと、年齢は16歳。死因は自動車による交通事故。これまでに犯した大罪は特になし。魂の清濁度は――」
さまざまな項目が半ば事務的に読み上げられる。抑揚のない言葉の羅列に眠気がこみ上げてきたところで、もう一度名前を呼ばれた。
「中村結衣さん」
「ふぁい」
あくびを噛み殺しかねたせいで情けない返事になってしまった。頭がぼんやりしているせいであまり恥じらいを感じなかったのが救いだった。
「あなたのこれまでの人生や、現在のあなたの魂について見させていただきました。つきましては、中村さんには天界へと向かっていただきます」
「天界?」
「はい。現世では『天国』や『極楽浄土』などとも呼ばれている場所でございます。こちらの紙をお持ちになって、本堂の中へとお進みください」
そう言うと、巫女は白い紙を手渡してきた。それを受け取ると、いつの間にか本堂の入り口に立っていた。
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