第23話
レコの申し出に甘えたその日は、見事に丸一日休養日となった。
意外なことにというか、あるいは当然というべきか、少し休むと言い置いた途端アルドは寝入ってしまい、少女も同じく目をつむって横になっている。二人にとっては今日の雨は恵みの雨で、ここで得られた休息はありがたいものなのだろう。
一方の大洋もそれなりに疲労が溜まっている自覚はあったが、二人ほどではない。むしろあまりに休んではようやく旅に馴染んだ身体がまたそれを忘れてしまいそうな気すらする。それならばと、火の具合を見たり道具の修理をしたり、たまに雨漏りする屋根の様子を確かめに行ったりと雨にも関わらず細々動くレコに手伝いを申し出たのだが、一人で十分だと首を横に振られてしまって仕方なく暇を持て余していた。
昼どきを過ぎていまだ激しく降り続ける雨を、暇にあかせてただ眺めて時間をつぶす。これが贅沢だなどと、以前では考えもつかないことだろう。旅に出てから、いやこの世界に来てから初めてと思うくらいに穏やかな時間だった。
全員が思い思いに身を弛緩させているようなその中、例外はパウラのみ。部屋の反対側、少女の傍らで一人、置き物のようにじっと控えている。目はつむっているが背筋はしゃんと伸びているので、眠っているわけではないだろう。とはいえ暇つぶしの相手に自分など選ぶまい。それくらい大洋も分かっていたし、その方がお互いに良いとも思っていた。
いやしかし。もしかして、自分がいるから寛げないのだろうか。
ふとそんな考えに至ったのは、やはり多少なりとも心の余裕が出来たからかもしれない。
「エルシのところにいます」
雨音の合間、ちょうど聞こえた鳴き声を口実とも言えない口実にして大洋は立ち上がった。パウラが少しだけ頭を下げて、無言の了承を示す。外はまだ激しい雨だからか、またはここだからかか、目の届かない場所へ行くことに制止の声は上がらなかった。
一瞬だけ雨に打たれた先、家畜小屋にはエルシと、その世話をするレコがいた。エルシはその大きな体に力強く櫛を通してもらっている最中で、気持ちが良いのだろう、聞こえていたのは目を細めて鼻を鳴らす声だったらしい。
顔を上げたレコと目が合ったが、特に何も言われないのを良いことに大洋はエルシに近づいた。手を伸ばしても問題なしと判断してその頭を撫でてやると、すぐに擦り寄る懐っこさが大洋の心を和ませる。このエルシと触れあえばパウラだってあるいは、などとつい愚にもつかないことを考えてしまって、また知らずため息が漏れた。レコにも聞こえてしまっただろうか、ごまかすように、あの、と口を開く。
「ありがとうございます、色々。本当に」
ごまかす為だったが、言葉に偽りはない。しつこいかと思いながらも、やはり改めて伝えておきたかった。
大洋の目にすら、周辺の貧しさは明らかだった。四人もの余所者をもてなす余裕など本来はないだろう。少し前から立ち寄る街や集落はそんな様子ばかりだったのだ。ましてや一人きりの彼に、大した蓄えがあるとも思えない。
「こっちが言い出したことだ。大したことはしてねぇ」
作業の手はそのまま、レコが素っ気ない返事を返す。まだたった一日足らず、わずかなやり取りしかしていないが、その返事は半ば予想通りだった。であるからこそ尚更申し訳ない気持ちも、ある。
黙り込んだ大洋に何を思ったか、レコは更に言葉を重ねた。
「お前さんも、他も、何かよっぽど大事があってだろう。わざわざこんな所まで」
こんな所と聞いて、外を見やる。雨にけぶって浮かび上がる風景は、いっそ廃墟にも等しい。レコの寝起きする家も、この家畜小屋も、頼りなさでは大差ない。ひとたび嵐でも起きれば跡形もなく消し飛ばされるだろう。いや、きっとそうした被害は既に幾度となく受けてきたに違いなかった。どれもかつては誰かが暮らしていたはずと思えばなお、荒れ果てた周辺は寂しい。今はレコ一人きりだという事実も、また同じく。
そうですね、と寂しい気持ちがそのまま大洋の口からこぼれ落ちた。
「そうなんです。大事なことのために、ここまで来たんです。……でも、僕は、それが分からなくて」
「それはすごく、大事なことで、だから僕は、ここまで連れてきてもらって……」
それ以上は続かない。なんと続くのか、大洋自身にも分からない。間違いなく、続くものがあるはずなのに。
「嫌なのか」
寝惚けたようだった大洋は、レコの一言に驚いて顔を上げた。エルシの背をくしけずる手はそのまま、だがちらと投げられた視線と一瞬だけ目が合う。その目に大洋自身も気づいていない心中まで見透かされるような気がして、思わずぎくりと心臓が跳ねた。
「嫌……とか、なんて、そんなことは」
「やりたくねぇなら、そう言えば良い」
「それは……」
しどろもどろな大洋に、レコはフンと鼻を鳴らして言い捨てる。出来ません、と大洋が答えを絞り出せばすぐさま何故だと、これまた容赦ない追及が続く。
「僕にしか、出来ないことだから……?」
最後が疑問の形を取ったことはレコにも伝わっただろう。また何か言われるかと思うと、咄嗟に取り繕うような言葉が口をついて出た。
「僕には分からないんですけど、本当に。でもそうらしいんです。そう言われたし、それに他にも色々事情があって、」
だから、とにかくやめる訳にはいかないと、まるで自分に言い聞かせているようだと大洋自身も思った。一人勝手に気まずさを感じてうつむく。レコからのさらなる追及はなかった。代わりのようにエルシが鼻で大洋の腕をくすぐってくる。
「……お前がそれを決めたってんなら、最後までとにかくやってみろ」
濡れた地面に服が汚れるのも構わずうずくまり、縋りつくようにエルシの首を撫でた。手のひらに返ってくる温かさと耳をくすぐる鳴き声がじわりと大洋の腹底に熱をともす。
「やってみて駄目だったら、またその時考えろ」
それは大洋にとって、今まで思いもつかない予想外の言葉だった。そんな、と驚きをこぼし見上げた先のレコは、どこか不機嫌そうな呆れているような表情で大洋を見て、また続ける。
「しかたねぇだろう。失敗は誰にでもある」
任せたそいつらも揃って同じだ。
ぶっきらぼうにそう言い捨てて、レコはまた作業に戻った。エルシの隅々まで磨き上げた後、これで終わりとその尻を叩いて、名残惜しそうに首をふる彼女を軽くいなしながら寝床を整えてやる。その間、大洋はただぼんやりとするだけだったが、頭の中ではレコの言葉がぐるぐると駆け巡っていた。
目の奥からこめかみにかけてが熱い。心臓のような腹のような、名前も知らない臓器を骨ごとぎゅうぎゅうと締めつけられる感覚。胸の奥で逆巻く、今まで味わったことのない知らない感情に、なんと名前をつけるべきか分からない。それに飲み込まれないよう、ただ踏ん張る。作業をすべて終えたレコが戻るぞと声をかけるまで、大洋の目は開かれていたが何も映してはいなかった。
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