第21話

 荷運びの脚を失って、旅はそれまでより更に難儀した。単純に歩みが遅くなったのはもちろん、獣とは言えそれまで旅を共にした仲間を欠いたことに皆大なり小なり辛さを感じていた。ロバもどきは言葉を解さないが、いや解さないからこそ、誰の肩も持たない公平性があったように大洋は思う。だから皆が自分なりにロバもどきを大事にしていた。

 その公平性がどれほど緩衝材の役割を果たしていたか、失って初めて分かる。パウラは旅の当初から今もなお大洋に親しみを持たないままだし、大洋は幾分ましになったとはいえいまだ旅のお荷物であり負担をかけている事実に苛まれていた。アルドは守り人たちを無事聖地へ届けるため最前で周囲を警戒し剣を振るう。少女は不安定な希素、魔素に振り回されながら日々清めの祈りを捧げる。皆が疲弊し、他を気遣う余裕を失いつつあった。

 そんな中ようようたどり着いたのは、もはや街でも集落でもない、崩れかけた一軒の家だった。

 一軒の家はなにも、それだけでポツンと建っていたわけではない。元は数世帯が暮らしていただろう家屋の跡はある。ただどれも荒れ果てて人の住んでいる気配はなく、その一軒にだけ一人の老爺が暮らしていた。


「ここから先はなにもねぇよ。引き返した方がいい」


 大洋たちの訪れに老爺は少しだけ目を見張った後、嗄れた声でそう言った。長らく喉を使っていなかったのだろう、声はひどく掠れて聞き取りにくかった。

 レコと名乗った老爺は、無口で、草臥れていたが、大洋たちのことを彼なりにもてなしてくれた。自身の住む家に招き入れて、火を起こし湯を入れ、女たちはそこで寝ろと自分の寝床を譲ってくれさえした。無論少女たちもそこまでしてもらうわけにはと遠慮したが、他にないのだと家主が強く言えば逆らうのも気が引ける。もちろんそれはレコの気遣いに違いなく、男連中にも埃っぽくはあるが別の部屋が提供された。

 レコは牛によく似た、乳を出す獣を一頭飼っていた。温めた乳は匂いは強くクセもあるが、よく体を温めてくれる。大洋たちの夕食にとわざわざ採ってくれた心遣いが尚更ありがたく身にしみる思いだった。少女の白い白い肌にも赤みが差し、パウラでさえそれを認めていつもよりは頬の強張りを緩めている。


「ごちそうさまでした」


 大洋の礼にもレコはただうなずくだけだったが、それで十分だった。

 無口で草臥れ、貧しく、表情も乏しくて、身の上を証明するものなども当然持っていない。こんな荒れ果てた場所でたった一人暮らす老爺を疑う余地はいくらでもある。だが不思議と不信を感じさせないものが、レコにはあった。アルドも密かに肩の力を抜いている。それとなく促せば普段ないほどあっという間に眠りに落ちていき、驚きながらも大洋の方こそほっと息をついた。

 昼夜を問わず剣となり盾となるアルドの献身は、もはやそれなしでこの旅を進めることは敵わないと重々承知しているけれど、やはり息が詰まる思いもいまだ根強い。彼が怪我をしたり疲れていれば尚更。

 他に部屋がないため反対側の片隅で横になるレコに、大洋は自身も横になりながら改めて心中で感謝を告げ、目を閉じた。

 翌朝、四人の内で一番早く目を覚ましたのは大洋だった。ほとんどないことに驚きながら、音を立てないよう慎重に外へと出る。朝日は昇ってはいても、立ち込める雲のような濃い霧に姿を隠しているためその光は弱い。視覚よりも先に耳が周辺の気配を感じ取った。少しおぼつかない足元に気をつけながら音のする方へ向かうと、家主、レコは既に家の裏にある小さな畑で仕事を始めていた。


「おはようございます」


 大洋の挨拶にレコが顔を上げる。


「眠れたか」

「はい。ありがとうございます。皆まだ、寝ています」

「寝かせといてやれ。なにもねぇが、朝飯もすぐ出来る」


 レコはやはり嗄れた声で言って、仕事に戻った。


「……あの、なにかお手伝いしたいんですが」


 大洋が言うと、少し考えてからレコは家畜小屋を指さした。


「エルシに餌を」


 牛によく似た獣の名前は、エルシというらしい。

 驚かさないよう名前を呼びながら小屋の屋根をくぐると、気配に敏いのか、エルシは既に大洋を見つけていた。鼻をぶるぶるいわせながら餌をねだる様子が可愛らしい。警戒心が薄いのか、主人と違って愛想が良いのか。

 よく乾燥した草を目の前に盛ってやる。首が下ると、丸く黒い目が長いまつ毛に覆われていることがよく分かる。大洋はその首にそっと手を伸ばした。柔らかな毛と肉の感触、そして生きているものの気配。失ってしまったロバもどきを連想するには簡単だった。そう言えば長く一緒にいたのに、名前も知らなかった。あったのかなかったのか、それすらも大洋は知らない。当たり前にそこにあるものだと、思い込んでいたのは大洋の罪だ。この世界は、そして今の大洋たちは皆、確約された明日など持たない。

 胸を刺す痛みをそのままに、エルシ、と大洋は口の中だけでつぶやいた。耳が良い彼女は、しかし餌を食むことに忙しいらしい。濃いまつ毛をふさふさと動かすだけで返事を済ます。こちらの心中を慮ることなど思いもしない獣の本能が、どこか大洋には及びもつかない崇高さをたたえているような気がした。

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