　ぶるるぉぉ、と禍々しい嘶きをあげ後ろ足でいきり立つロバもどき。四つ足の時は少女の胸ほどくらいしかないものも、立ち上がればパウラも軽く上回る。

　重い荷物を載せているのにも関わらず、立ち上がった勢いのままパウラに背後から襲いかかった。間一髪、少女が飛びかかって突き飛ばさなければ、強靭な脚がパウラの頭蓋を踏み砕いていたに違いない。蹄が地面を叩き割る。

「下がって！」

　大洋もまたアルドに突き飛ばされるようにして後ろへ飛び退く。正気を失ったロバもどきは目を血走らせ口角から泡を吐き散らし、的、つまりパウラを見失ってなおも猛り狂って暴れ、正面のアルドに襲いかかった。剣を抜くが、一呼吸分間に合わない。辛うじて受け止めたが耐えきれず倒れ込む。繋いだ荷物に加えアルドをも優に上回る全体重が、勢いそのままに彼を押しつぶそうとしてくる。大洋は咄嗟に自分の持っていた荷を振りかぶった。

「アルドさん！」

　考えもなにもあったものではない。腰を入れてぶん回しただけだ。しかし渾身のそれはロバもどきの左横っ面へ見事にキマった。

　脳を思い切り揺さぶられて、ロバもどきは大洋から見て左へよろめく。浮足立った一瞬の隙に、アルドが下からその腹を蹴り上げた。けたたましい嘶きを上げて飛び退くロバもどき。すかさず立ち上がったアルドがその首へ剣を振り下ろした。

　いつもなら一刀でなんでも叩き落とすアルドの剛剣が、しかし途中で止まる。血しぶきが背後の大洋まで届いた。その首の半ばまで剣をめり込ませ、ロバもどきが断末魔の叫びを上げ暴れた。死に瀕しながら、なおもそれから逃れようとあらん限りの力でもがく。瞬時に剣の柄から手を離したアルドが今度は反対にロバもどきにのしかかった。四肢は宙を蹴り続ける。危ない、と思った次の瞬間、アルドの手にしたナイフが深々と胴体に突き刺さっていた。

　電流が流されたかのようにロバもどきの身体が一際大きく跳ねて震え、あとはゆっくりと、静かになった。

「……お怪我は、ございませんか」

　ぐいと顔を染める血を拭い、息を荒げたアルドが億劫そうに起き上がる。慌てて駆け寄り支えた大洋の手をアルドは拒まなかった。

「僕は大丈夫です、アルドさんこそ、」

「ご心配には及びません。聖女様、パウラ殿もご無事ですか？」

　少女とパウラも足元が覚束なかったが、支え合いながらなんとか立ち上がり無事を応える。大洋はほっと息を吐いた。

「それにしても、いきなりどうして」

　独り言のようにつぶやくと同時、アルドにぐいと服を引っ張られる。驚いたがその視線を追った先、ロバもどきの首と胴から火の粉のようなものが立ち上っているのが見て取れて息を呑んだ。魔素だ。

「知らぬ内に、魔素を取り込みすぎたのでしょう。これほどになるまで気づかなかったとは……。申し訳ございません」

　苦渋に満ちた顔をしたアルドが、大洋と少女に膝をついて詫びた。がっくりと肩を落とす姿はその言葉通り自分の失態を悔やんでいるのだろうが、同時に疲労も強いのだろう。大きく上下する肩に、旅の安全面を全て彼一人に任せきっていたのだという申し訳なさが今更ながら込み上がってくる。

「アルドさんのせいじゃ……」

「急なことでしたから、アルド様がお気に病まれることはありません」

　またしてもパウラが言葉を被せながら言った。言わんとしたことは同じことなのだが、その視線はアルドではなく少女に向けられていた。一方の少女も少女で再び地面に腰を下ろしてしまっている。

「魔素が急激に濃くなっているのです。休めるような場所ではありませんと、先程申し上げたとおりです」

　少女の具合をうかがいながら淡々とパウラは言う。いつもと変わりないことではある。だがどうにもその声色に自らの力をひけらかすような、優越の気配を感じ取って思わず大洋はカチンときてしまった。

「パウラさんっ」

　大洋の唐突な鋭い声に、パウラが顔を上げた。大洋も普段はどちらかと言えば温厚で、特にパウラのような強気な女性には及び腰になる質なのだと、既にパウラ自身も承知している。その大洋のらしからぬ様子に一瞬目を丸くして驚きを示したが、寄越される視線に非難の色が浮かんでいるのを感じ取ったらしい。それ以上に険しい表情が返ってきた。

「なにか」

　非難される謂れはなにもないと言わんばかりの態度は、しかし確かに事実でもある。そして大洋自身、やや感情的になっている自覚もあった。パウラの視線も自分の苛つきも、振り払うように一つ大きく頭を振る。

「……荷物、手分けして運びましょう」

　まだ流れ出る魔素に極力触れないよう、載せていた荷物を外しにかかる。努めてパウラの方は見ないように。