Monoligia(モノロギア)

砂尽(さじん)

第1話 実像のエピローグと虚像のプロローグ

 大きな音が鳴り響く。

 頭上を見上げると、滅多に開くことのない天蓋が開かれている。僅かに見える外の壁に立てかけられた、小さな松明の頼りない灯りがこちらへと差し込んでいた。


 松明の横にはその瞳を閉じ、胸の前で手を組んだ少女が一人。

「いつもここを訪れる少女だ」

 彼女の全身を見たのは初めてだったが、一目見ただけで彼にはそれがわかった。天蓋の鍵穴から覗いた時に見えた白い肌、繊細で光をきらきらと反射する長い髪の毛、閉じられていてもわかる大きな瞳、小さく形の良い鼻。そして、か細く、けれども透き通るような声を鳴らす口。


 しかし様子はいつもと異なっていた。言葉を投げかける口はきゅっと閉じられ、いかなる言葉も出てきそうになかった。組んだ手元をよく見てみると、何かの鍵を持っているようだった。その手も強く握られ、決して開きそうにはなかった。あらゆるものを拒むように、あるいは逃がさないように、彼女は堅く閉ざされているようだった。


 声ぐらいは届くのではないかと思い、声をかけようと口を開いたその時。

 彼女の体がふらりと身を揺らしたかと思うと、


 落ちてきた。


 反射的に落下してくる彼女を受け止めようと手を伸ばす。

 この位置であれば受けとめられる。遠く小さく見えていた彼女が徐々に大きくなる。見える大きさが変わろうとも華奢な体躯はかわらない。受けとめることなど造作もない。

 彼女が接触するまであと僅か。彼は両手をより広げ受けとめようとした。

 落下。

 接近。

 そして接触。


 その瞬間、

 彼の体は脆く崩れ、

 彼女は体の形をしていたものの残骸を通過してそのまま落下していった。



 両の手は左右に離れてゆき、体は千切れ漂った。ころりと転がった目だけが落ちてゆく彼女を追いかける。彼女はただまっすぐに下へ下へと遠ざかり、あんなに大きく見えていた体は小さく小さくなって、ついには視界から消えていった。

 彼はただ茫然とその様を眺めていることしかできなかった。


 ああ、なんて脆い身体だろうか。

 人の形だけを真似、有り合わせのもので造った虚構の身体など、その程度のものだったのだ。もっとわたしが希薄でなかったら。そう考えると自身の状態を恨まざるを得なかった。

 崩れた体を戻すこともなくただそこを漂っていた。体をまた作ったところでなんになろう。訪れる者など彼女以外いないのに。見る者も、聞く声も、降る涙も、もう訪れ得ないというのに。


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 しばらくして、崩れ切らずに漂っていた右手の中にわずかな重みを感じた。そっと開いてみると、その掌には小さな雫が溜まっていた。これはきっと彼女の涙だ。ここに存在する液体など、彼女の涙くらいしか無いのだから。

 私の意識を目覚めさせた雨。

 そしてこの脆い身体をつくるきっかけを作った水滴。

 たったこれだけしか受けとめることができなかった。けれどもわずかにも彼女を受けとめることができた。もういない彼女の小さな小さな欠片。彼は零さないよう、そっと手を閉じた。そうして自分の身体を再構築し始めた。なんだか彼女がまだいるような気がしたのだ。こんな姿で彼女の前に出ることなどできない。


 身体の再構築を行っていると、一頭の蝶が現れた。こんなところにいるはずのない蒼く光る不思議な蝶。彼の周りをひらひらと、けれど素早く飛び回る。「一体どこから?何をしたのだろうか?」彼がそんなことを考えているうちにも蝶はせわしなく飛び回る。そして気が付くと、彼の身体はより身体になり、装飾までされていた。一体この蝶はなにものなのか?じっとその様子を眺めていると、手の周りをぐるぐると回り始めた。けれど手に変化は起きなかった。蝶は今度は頭の周りをうろうろと回ると、音と声が聞こえ始めた。微かだが凛とした鈴ような音と今まで聞いたこともない男性とも女性ともつかない柔らかな声だった。まだできていなかった耳を造ったようだ。

「手を開いてごらん」

 そう蝶が耳元でささやく。彼は左の手を開いて見せた。

「違う違う、そっちじゃない。反対の方だ。」

 彼はそれを拒むようにさっと右手を後ろに隠した。

「その手の中にあるものも、君がそれを大事にしていることも知っているとも。けれども、ずっと手に持っていては手が空かず不便だろう。その雫を君の然るべき場所に飾ろうと思うんだ。僕は耳に飾るのが良いと思うのだが、どうかな?」

 彼は少しだけ考えてしぶしぶと右手を差し出し、広げて見せた。蝶がその周りをくるりと舞い、耳元へと寄っていく。蝶の後を追うように、手のひらから雫が離れていく。すると耳元に少しだけ、重みがかかるのを感じた。今さっき右手から出て行ったものと同じ重み。少し触れてみる。先ほどまで手にあった感触。触れてみても雫が散ることはなく、耳元で留まるようになっているようだった。彼はそれが大層気に入ったようだった。というのも、彼女の存在を感じることができたし、何より何となく彼女の声がまた聞こえてきそうな気がしたからだった。

 彼はしばらくの間、新しい耳飾りに耳を傾けた。何かが聞こえるわけではなかったけれど、耳を澄ませて声を待つ時間が、彼女の来訪を待ち遠しく思っていた時のことを思い出させたのだ。

 気が付くと蝶は何処へなりと消えてしまったようだった。もう姿も音もどこにもない。


 彼はまた一人になってしまった。

 彼が存在し始めてから今までのことを考えると、彼が彼女と出会ってからの時間よりも彼がたった一人の状態であった時間の方がうんと長い。ただ元の状態に戻っただけ、ただそれだけ。それだけのはずなのに、今はひどく寂しく、悲しいものだと感じてしまい、その感覚を振り払うことができなかった。状況自体は元に戻っても、心だけは先に進んだまま戻ることができない。その差の分だけ、虚しさが満ちていく。


 どうして彼女は身を投げたのだろうか?

 きっと悲しみのため。この涙が何よりの証拠だ。

 彼女の悲しみはどこから来たのだろうか?

 彼女の涙と共に零れてきた言葉、そこに求められるだろう。同じ言葉が繰り返されていた。その意味は分からないが、そこに理由があるのだろう。そしてその言葉は名を示すもののようだった。彼女を追いこむような者に囲まれる環境下にあったのだろう。

 どうして彼女はそんな状況に置かれなければいけなかったのだろうか?

 こちら側のものは人の意識の集合により成り立つものである。則ち、人がそのように望んだために、彼女はあのような状況に置かれていたのだろう。

 では、なぜ人はそのように望んだのか。

 分からない。


 解らない。

 判らない。

 今のわたしでは理解できない。

 わたしはすでに多くのものを欠いてしまっている。

 理解するためには取り戻さなければ。

 わたしの領域、すなわち概念世界の全てを取り込めば、理解できるだけのものを取り戻すことができるだろうか?

 それすらもわからない。


 意識上では何もわかっていなかったけれど、もう体は動き始めていた。

 天蓋の外された大きな穴。そこから私の領域は世界を侵食し、分解し、取り込み始めていた。その動きと連動するように、澱みのわたしが物質世界を侵食していった。

 その浸食は、全てを飲み込むまで止まることはなかった。

 世界はその概念も実体も分解され、何の意味も持たないものだけで満たされた世界へと変わっていた。

 もともとのカオスの状態に戻ったようにも見えたが、少しだけ異なっていた。それはカオスの意識とその意識によって構築された虚構の身体。

 何にもなくなった世界でそれだけが残っていた。

 世界を飲み込むことはできても自身を飲み込みことはできず、ただそれだけがぽつねんと残ってしまった。


 全てを飲み込んだ彼が解を得られたか?

 結論から言うと、それだけでは解を得ることはできなかった。


 また世界を再構築して再現してみようとも思ったけれど、意識の部分しか持ち合わせていない彼にそんなことはできようはずもなかった。


「夢なら創れるだろう?」


 耳元で、あの蝶の声が囁いた。どこにもその姿はなかったのだけれど。

 そうだ、夢ならば、実体を伴わずとも創ることができる。

 彼女の理由を知るために、世界を創りその全てを理解する必要があるだろう。

 わたしはその世界の全てを見、聞き、感じ、そして理解するために、わたし自身そのものを夢として再構成することにした。


 瞳を閉じる。

 そして、内側に広がる夢に微睡み沈む。


 さあ、虚構の夢を紡ごう。




「Monologia」

 ここに開演いたします。


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