隣の芝生は青い

抹茶味のきび団子

隣の芝生は青い

他人が持っているものは、どうしてあんなにも輝いて見えるのだろう。

 おもちゃも、恋人も、才能も。何もかもが輝いて見える。そしてそれらを羨ましがって、やっと手に入れたかどうかというころで気づくのだ。


 ――――自分の手に存在する『それ』は、輝いてなんかいないことに。


 『一』


 東京都内のあるビル街を、一人の男が歩いていた。スーツを纏い、いかにもサラリーマン風な男は、一目見ただけで高級品と分かる時計で時間を確認した後、ひときわ高いビルの前で誰かを探すように頭を振った。

「ったく、あいつ……普通の始業時間ならまだしも、商談の開始時間なら十分前には到着しておけよなぁ……」

 愚痴をこぼした男はせわしなくスマホをいじり始める。まだ若い、ハリのある肌とは対照的に、眉間にはしわが深く刻まれていた。

「おはようございます、優希先輩」

「――うわぁっ⁉ びっくりした……。って、それよりもっと早く来いよ。遅くても集合時間の十分前には来いって言っておいただろ?」

 後ろから突然現れた後輩――公介に驚き、情けない声をあげてしまう。ただ、やっと来た待ち人の姿を確認するとすぐに、脳は仕事モードに切り替わる。

「すみません……電車が遅れてしまって……」

「ん……それならしょうがないが……それよりもう時間がない。行くぞ、ほら」

「はい」

 急いで来たとは言うものの、部下の公介の服装に乱れはない。そのことに少し感心しながらも、二人はビルに入っていった。

「ところで、今日の商談の準備はしてきたか?」

「ええ、一応」

「それなら公介、お前が主導でやってみろ。経験を積むいいチャンスだ。ちゃんとサポートはしてやるから」

「わ、分かりました……」

 露骨に慌てる部下を眺めながら、お前もいつかこの立場になるんだぞ、という気分になる。まぁその時まではまだまだ時間があるだろうが。

 腕に付けた時計を見て、ちょうどいい時間になっていることを確認する。

「よし、じゃあ行くか」

「はい!」


  ◇◇◇


「ふぅ……何とかうまくいきましたね……」

「ホント、一時はどうなることかと思ったけどな」

 商談を終えて少し後、二人は近くの公園のベンチに腰を下ろしながらお昼ご飯を食べていた。優希はサンドイッチとサラダチキン、公介はおにぎりと、とても簡素な食事だ。

「先輩、そのエビカツサンドうまそうですね」

「だろ? 来る途中のコンビニに一個だけ残ってたんだよ。好物だから迷わず買っちまった」

「いいっすね。それに時計も新しくなってますし」

「お、気づいたか。これ結構高かったんだぞ。つけてみるか?」

 そう言って優希は時計を顔のあたりに掲げる。太陽の反射を受けて、地面の芝生にきらりと光った。

「ちょっと、まぶしいです」

 そう言いながら顔をそらす公介の声はなんだか楽しそうだ。大事な商談を無事に終えた後だからだろうか。微笑ましく、まぶしく思えたそれに、優希はとっさに目をそらした。

「ふふっ」

「? 先輩、どうしたんすか?」

「なに、いい後輩を持ったなぁ、と思ってな」

 その言葉に公介は首を傾げる。その様すら微笑ましく思えてきた優希は、続けて口を開く。

「今回お前は、しっかり商談で結果を出してくれた。しかも俺の担当で。そんな後輩を見て、いい後輩を持ったなぁと思わない方がおかしいだろ?」

 少し得意げに言う優希だが、公介はあまりピンと来ていないようだ。食べかけのおにぎりを手に、なんとなく腑に落ちないという顔をしていた。

「いい後輩、ですか……」

 そうして公介は少し考え込む。すると突然にっこりと笑顔になる。

「自分、あまりいい後輩に巡り合ったことがないので、嬉しいですね!」

「…………まぁ、そうか。それはよかった」

 なんだか意味が違うような気がする。…………まぁ、今はそれでもいいか。かわいい後輩の最高の笑顔を、こんなつまらないことで壊そうとも思えない。

「ホントよかったですよ。先輩にとっても嬉しいんじゃないですか?」

 なんだろう、この違和感は。上司に褒められて調子に乗っているだけだろうか。

「あぁ、そうだな。本当に嬉しいよ。そうだ、なんなら今度、今回の商談の祝いで酒を飲みに行かないか? おいしいテネシー・クーラーを出す店があるんだ」

「カクテル……ですかね? 楽しみです! 約束ですよ」

「おう! 先輩としておごってやる!」

「ありがとうございます!」

 真昼の公園に、酒の約束を交わす会社員二人の声が響いたのだった。



 『二』



 ある住宅街の中の、明かりが灯った一軒。その家は優しい明りで満たされていたが、それと反比例するように室内の空気は重たいものになっていた。

「理沙、今……なんて言ったの?」

「別れよう、って言ったの」

 沈黙が再び訪れたリビングルーム。中央に置かれた机では男女が向かい合って話している。机の上に置かれたギブソンのカクテルが、照明の柔らかなオレンジ色を反射して、協力してあたたかそうな空間が作り上げられていた。

「澤本くんには申し訳ないと思ってるけど……それでも別れたいと思ってる」

 理沙は改めて自分の思いを声にして彼に伝えた。眼前の彼には動揺の表情が色濃く見て取れる。その顔を見て申し訳ないな、と思いつつも、自分から切り出した別れを今更止めることなどできはしなかった。

「それって嘘……とかではないか、理沙が嘘を言うことなんてまずないし」

 自分で言っておいてダメージを受けたのか、再び彼は落胆する。何度か「そっかぁ……」と呟いていた。

「どこか自分に悪いところがあったなら、言ってほしい。改善してみせるから」

 真剣に問う彼を見てけなげだな、と思う。もう少し言いたいこともあるだろうに。

――でも、私はそんな彼を振って別の男のもとへ行く。その事実が今更ながらチクリと胸を刺した。

「全然、そういうのじゃないんだ。ただ……私にとって、新しい人の方がいいと感じただけで」

「そう……か……」

 再び、沈黙が場を支配した。私から話し出すのも違うだろうか、という思いから口を開くことができない。

「分かった。理沙がそう思うのなら、自分としては身を引くよ」

 その瞬間、身体中に安堵が押し寄せてきた。もし認められず暴れられでもしたら……などと考えなかったわけではないが、どうやら杞憂に終わったようだ。

「ただ――」

「なに?」

「理沙の口からでいいから、その男の人がどういう人なのかを聞かせてほしい。自分としては身を引くけど、それでも理沙にふさわしい男かどうかは知っておきたいんだ」

「澤本くん……」

 彼は本当に自分のことを愛してくれていたのだなと、何度も感じさせられる。まずい、このままでは振る側の私が泣いてしまう。今まで付き合ってきた彼氏に別れを切り出して、しかもその別れは他の男によるもの。だというのに私が泣くなんて……あり得ない。

 ここで楽しそうに話をして、少しでも彼を安心させる。それだけが、私に許された唯一のことなのだから。

「その人はね、最初に出会った時から何かが違ったの。運命の出会い……って言うとダサいかもしれないけど、本当にそんな感じで。一目見たときから、他の人とは違う何かを感じていたの。もちろん、澤本君とも違う」

 その一言で、それまでこちらをしっかり見据えてくれていた彼が少し視線を泳がせた。直視できない彼の気持ちも分かる、が、理沙にとってはやめてほしいという思いもあった。

 そんな顔をされてしまうと、私の心は更につぶれてしまう。それを避けて、なおかつ彼と別れるには、新しい彼氏の話をするしかないのだ。

「それで、ご飯も食べに行ったの。食べ方も上品なんだけど、ちょっとそそっかしいところもあって。あっ、でもそこがかわいいんだけど……」

 思いつくままに、今の彼の特徴をつらつらと述べていく。まだ何度か遊びに行ったことしかないけれど、思い出せる限りは全部楽しかった記憶だ。

「他にもね、一緒に遊園地に行った時の話なんだけど……」

 目の前の彼は黙って話を聞いてくれている。その態度が私への優しさによるものなのか、それとももう手に入らない彼女との時間を思い出してのものなのか分からないけれど。

 そうしてまだ少ない思い出をひねり出し、時には誇張してまで話すこと数十分。もう搾りかすさえも出しきって、机の上に置かれていたギブソンのグラスが汗をかいていた。

「…………分かった。理沙の気持ちは痛いほど」

 澤本君は何度もうなずきながら言う。彼は何を思って、今私の前にいるのだろう。私には分からない。いや、分かれない。分かろうとすること自体がおこがましい。カクテルに口をつけて、彼の言葉を待った。

「僕としてはさ」

 視線を下に落として、私のカクテルのあたりを見ながら彼は言う。

「君が少しでも不信感を抱いているだとか、我慢をしながらその人と付き合うって言うんなら、すぐにでも止めようと思ったんだ」

 この期に及んで、まだ私のことを考えてくれていたらしい。もはや私が呆れてしまう。こんな身勝手な女、普通は相手にしないだろうに。澤本君はきっと馬鹿で、愚直で、それでいて純粋なんだろう。その純粋さは今の私にはまぶしすぎて、到底直視できなかったけれど。

「でも、良かった。理沙がそんな――運命の相手みたいに思ってるんだったら、僕が口を出す隙はないかな」

にっこりとしたその表情は、それこそ夫が妻に向けるそれのように穏やかだ。ここまで来るともはや怖い。間違いなく、何の疑いようもなく澤本君はいい人なのだ。それはこの状況においてだけでなく、今までの生活においてもそうだ。

だが、だからこそ、怖い。どのような生き方をすれば、このような聖人君子になれるのだろうか。

「良かったけど……ちょっと妬けちゃうな。理沙が運命の人と出会うなんて。僕の運命の人は理沙だと思ってたのに」

 少なくとも表情の上では悲しんでいるようだ。とはいえ、私の考えが正しいかは分からないけれど。

「こんなこと言うのもキモいかもしれないけど……羨ましいよ、ちょっと」

「そうかな? もしよかったら応援してくれると嬉しいな」

 どの口が言うんだろう。自分から振った彼氏に応援してくれだなんて。

「ほら、他にも運命の人はいるかもしれないし、私も運命の人探しは手伝うからさ!」

 私にできる罪滅ぼし。残されたできることはこれくらいだろうか。でもきっと澤本君なら、すぐにいい人を見つけられることだろう。

 そこまで言うと、澤本君はやっと小さくはにかんだ。

「そっか、ありがとう。もしかしたら理沙以上の出会いが待ってるかもしれないもんね」

 その言葉を聞いて、私はようやく一息ついた。勝手かもしれないが、ようやく正式に認められたように感じたのだ。

「良かった。一応でも、納得してくれて」

「運命の人……とまで言われたらね。なんだか僕も欲しくなっちゃった。運命の人」

 和やかな笑みで、彼はギブソンに口をつけた。



 『三』



 夜も更けた、騒がしい繁華街。条例違反のキャッチの声が飛び交う中、その一切を気にせず、二人の男が歩いていた。

 よく見ると二人はそれぞれ違う酒の缶を手に持っている。

「なぁサー公、なんで他の呼び込みの声が無視されてんのに健気に声をかけ続けるんだ?」

「それが仕事だからだろ。あとそのサー公って呼び方をそろそろやめろ。ヤクザみたいに思われそうだ」

 二人ともスーツ姿のサラリーマン然とした格好をしているが、その表情は対照的だった。サー公と呼ばれた男は表情に疲労をにじませているが、呼んだ側の男は楽しそうにケラケラと笑っていた。

「変わんねぇなその返しも。高校時代とそっくりじゃねぇか」

「そんなことないだろ。蓮太だってそうだけど、あの頃よりはいくらか大人になったさ」

「大人に、ねぇ……」

 蓮太は顎に手を当てて訝しんだ。少し前まで飲んでいた酒が回っているせいか、しぐさが少々大げさだ。こういうところを見ると子どもっぽく感じる。

「大人と言えば大人だな、確かに」

「だろ?」

「あぁ、昔は俺が口を開く前にサー公が話し始めてた」

「そうだったか? あまり記憶にないな」

「――都合が悪くなるとそうやってごまかすところは変わってない」

 そう言うと蓮太は気持ちよさそうに笑った。サー公も図星を突かれたからか、困ったように笑っていた。

「しかし、本当に大人になったって言えるのか?」

「言えるだろ。こないだ商談を成立させたぐらいにはもう立派に働いてるし、こうして酒を飲み交わせるようにもなった」

 サー公は手に持ったビール缶を煽りながら笑った。こちらも酒が回っているせいか、やや子供っぽく感じられる。

「そりゃ偉い。頑張ったじゃないか」

「だろ? もっと褒めてくれ」

 蓮太はその言葉を華麗にスルーして、自らの本題を語り始めた。

「まぁ大人にはなったのかもしれないが……サー公がなったのは『ただの大人』だろ?」

 一瞬、サー公の表情が険しくなった。違和感を覚えた瞬間にはいつもの表情に戻っている。

「……?」

「どうかした? 蓮太の話続けないの?」

「いや……続けるけど」

 指摘しようとした違和感はすぐに消えてしまい、戸惑いだけが蓮太の思考を支配する。

「話を戻すけど、サー公はそれでいいのかよ?」

「…………と言うと?」

「分かってるだろ。都合が悪いからってごまかすな」

 蓮太の言葉にサー公は肩を震わせた。確証は持てていなかったが、どうやら当たりだったらしい。

「昔はあれだけ芸人になるって二人で息巻いてたろ? なのに今じゃしょうもない宴会芸で笑いを取るだけか?」

 その瞬間、露骨にサー公の視線が険しくなった。今までそう何度も感じたことはない圧力を前に少しだけひるむ。

 しかし蓮太は頭を振ると、何もなかったかのように再び口を開いた。

「サー公がなりたかった大人って、本当にそんなもんかよ?」

 片手にチューハイを持ちながら真面目に語る様は、はたから見れば何とも滑稽に映ることだろう。それでもサー公は笑わずに、ただじっと

こちらを見つめていた。

 しばらくは圧力のこもった瞳でこちらを見つめていたサー公だが、数分ほどにらみ合って諦めたのか、手持ちのビールに口をつけた。それを大学生の一気飲みよろしく盛大に缶を傾け、ビールのコマーシャルにでも起用されそうな吐息を漏らす。

「はぁ……そんなことを言うけど、お前はどうなんだよ? 偉そうなこと言ってるけど、さっき飲んでた間、お前が芸人になったって話はしなかったよなぁ?」

 図星を突かれた怒りを晴らすかの如くまくしたてる。酒を一気に入れたのも、少しでも理性を飛ばすためだろうか。

「まぁ、そうだな。確かに俺もテレビに出るような芸人になんかなれちゃいないさ」

 蓮太はそこでいったん口を閉じ、ポケットからスマホを取り出す。少し操作すると、画面がサー公に見えるようにスマホを突き出した。

「ん? なんだよこれ。動画か?」

「いいから、見てみろ」

 訝しげな表情をするサー公。まぁそれもそうだろう。いきなりきつい言葉をかけられたと思ったら、今度は黙って動画を見ろというのだ、

その表情にならない方がおかしい。

 ――しかし、すぐにその表情は別のものへと変わる。最初は疑問の顔だったものが困惑に変わり、最終的には驚きへと変わる。

「なんだよ……これ……」

 おそらく分かってはいるのだろう。この動画を見せた意図も、それが何を意味するのかも。

「多分間違っていないとは思うが、一応聞いていいか?」

「いいぞ」

「これは蓮太で間違いないよな?」

「ああ、酒が回ったとはいえ、高校時代の親友の顔も分かんなくなったか?」

 その言葉を受け止めたサー公は、画面と目の前の蓮太の顔を見比べる。三度ほど交互に見た後に、酒精の混じった吐息を漏らした。

「そりゃこんな風にも言えるわな。ネット界隈では人気者ってか?」

 やや棘のある言い方には感じられるが、間違いではないので言い返すこともできない。

先ほど見せた一分弱の動画は数百万再生を記録した動画だ。その再生数は今もなお伸び続けており、動画のコメント欄には爆笑しているこ

とを伝えるコメントや、動画の投稿者を称賛するコメントが大量に並んでいた。

「良かったな。形は違うけど、みんなを笑わせられる芸人みたいにはなれたじゃねぇか」

「それはそうなんだが……サー公はこうなりたいと思わないのかよ⁉」

 柄にもなく大声を出してしまう。周囲の視線が二人に集中し、サー公はバツが悪そうに肩をすくめた。

「……話の続きはどこかバーにでも入ってやらないか?」

「それがいい。ごめんな、大声を出して」

 一時休戦して、二人は近くのバーに向けて歩き出した。周囲の人の視線はすでに別の場所へと移り、何人かの「なにあれ? ヤクザの言い

間違え?」という声がちらほらと響いていた。


  ◇◇◇


 少し歩いた先の、落ち着いた雰囲気のバー。客の少ないカウンター席に、二人は神妙な面持ちでカクテルに口をつけていた。

「それで、サー公はそうなりたいとは思わなかったのかよ?」

「思わないと言ったら嘘になるよ。それでも実際になろうとは思えなかった」

「なんでだよ? サー公は俺より人を笑わせる力に長けてたし、絶対いい線行けてただろ? 高校の文化祭だってそうだったじゃねぇか」

 そうだ、高校の文化祭で二人の漫才コンビを組んだ際はサー公のおかげで成功したようなものだ。才能があるのは間違いなくサー公の方

だ。

「それを成功体験のよりどころにするにはいくら何でも頼りないさ」

「それだけで突っ走ってきたやつの前で言うセリフじゃないな」

 軽く笑いながらグラスに口をつける。「それもそうだな」と言うサー公の声に、氷とグラスがぶつかる音が重なった。

「良いことじゃないか。それもある種の才能だし、羨ましいと思うよ」

 聞きなれているはずの、サー公の返答。しかし蓮太にはそれがいつもより無気力なものに感じられた。

「諦めてんなよ。サー公にだってやれることはあるさ」

「無理だよ。俺にはお前が輝いて見えてる。その輝きは俺には手に入らないものだ」

「俺にできてサー公にできないことはねぇだろ! もう一回やろうと思えばやれるだろサー公なら!」

 諦めきったサー公に嫌気がさして、思わず大声を出してしまった。店の他の客や店主が、先ほどの通行人と同じような視線を向けてくる。

 

――もう帰ろう。これ以上は無意味だ。


 そんな思考が、ふと頭をよぎった。今日二人で飲んだのだって、元をたどればサー公をこっちの道に連れ込もうと思ったからだ。まぁ、ここまで拒否されてはもうどうしようもないのだけれど。

「わり、また――――」

「――いいのか?」

「へ?」

「一度諦めた俺を、それでも救おうと思ってくれるのか?」

 間抜けな声を出してしまったあとに垂れてきた一筋の蜘蛛の糸。これをどうして掴まないことがあるだろうか。

「い、いいのか?」

「さすがにあそこまで言われたらな……昔を思い出しちまったよ。文化祭のときもそうやって、蓮太に誘われたよな」

「ハッ、そう言えばそうだったな。よく覚えてるよホント」

 先ほどよりかなり柔らかくなった雰囲気に、蓮太も笑いながらグラスを傾ける。

「俺も蓮太みたいになれるようにいっぱい努力するからさ……これから、よろしくね?」

「おう!」

 そのまま二人でグラスを持ち、軽く合わせる。

 やっと得られたこの感覚。夢に向かって仲間と邁進できるのだ。そう思うと、喜びに浸らずにはいられなかった。

「じゃあ、活動前にやらなきゃいけないことがあるから、やっちゃおうか」

 あぁ、そうだ。コンビ名やネタの合わせなど、決めなきゃいけないこと、やらなきゃいけないことは山のようにある。

 これから迎える未来に思いをはせながら、蓮太はフォーリンエンジェルに口をつけた。



 『終』



 人の気配がしない工場で、男が座り込んで思索にふけっていた。

 おもちゃも、人脈も、恋人も、情熱も、才能も、他人が持っているものは、そのすべてが羨ましく見える。

 自分にはないなにか、あったとしてもそれよりさらに輝いているなにか。自分にない輝きを目の前で見せつけられたら、欲しがらずにはいられない。

「――でも、欲しがったって手に入らない。そんなこといい加減分かってる」

 後輩でも、運命の人でも、最高の友人でも、どんな自分になったとしても、身の回りの人間の方が輝いている。選ばれなかった端役に許されたのは、せいぜい嫉妬することだけだ。

 隣の芝生は青く見える。それは日々の生活で、どうあっても起こることだ。

 だとしてもそろそろ、欲しがるのにも疲れてきた。



「………じゃあ、全部燃やそう。僕の芝生も、君の芝生も、いったん全部」



 肺に通ってくる空気にむせ、一度大きくせき込んだ。

 それきり、男は立ち上がって考えることを止めた。

 出口に向かって歩くときに、一度だけ来た道を振り返る。


「欲しがっても手に入らないのなら、全部消しちゃえばいいんだ」

 

 男――澤本公介は、照らされた顔に笑顔を浮かべ、すぐに立ち去った。



『……臨時ニュースです。ここ一週間、東京都内で立て続けに起きていた連続失踪事件の被害者三名が今日の深夜、焼死体となった状態で発見されました』

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隣の芝生は青い 抹茶味のきび団子 @natunomisogi

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