長尾蘭 第八話 幸福者の誇り
エンジンの音がこんなに煩いなんて、思いもしなかった。
私の家の車は、もっと静かで、穏やかだった。
タクシーに乗り込んで、初めて思ったのは、そういうことだった。
世間知らず、とは言われたくないけど、世間と私の間にある溝は悩ましい位に深く大きくて。
生まれて初めて抱いた望みは、笑える程に呆気なく砕け散った。
でも本当の望みは、望んだ全てが自然と叶うような恵まれ過ぎた人間じゃない、ということを証明するようなことだったと思う。
ともすれば、結局私の望みは叶ってしまったということになるのだろうか。
いや、でも本当に心の底から綾部さんのことが好きだったのは確かで。
結局私は何がしたかったのだろうか、と。
悶々と悩み続けていたら、いつの間にか年の瀬になってしまった。
何事も無かったかのように綾部さんは変わらず接してくれている。
それだけが救いで、それ故に悩んで。
クリスマスムードが正月ムードに変わった年末に、私は衝動的にタクシーに乗り込んで海にまでやってきていた。
恵まれた家庭に生まれたこと自体が後ろめたくて、努力してまで叶えたい夢が無いくせに、何となく好きだった程度で国際コンクールで金賞を取ってしまう自分が嫌いで。
もっと自分を好きになれる、もっと私を肯定できる。
そんな奇跡が欲しくて堪らなくて。
「もし、今の環境を全部捨ててでも傍に居たい、と言えば綾部さんも納得してくれるんでしょうか」
なんて、他愛もないことを考えてみたりして。
それでも、どんなに可能性をこねくり回したとしても。
私の恋は、終わってしまった。
無惨に、無慈悲に、救い難い程に。
彼女が終わらせてくれた。
優しく、柔らかく、愛おしい程に。
それなら私はどうすれば良いのだろう。
なんて、もう決まりきっていることを自問自答してみる。
「ああ、恋して本当に良かった」
彼女を好きになって本当に良かった。
頬を伝うのは、冬だというのにとても暖かい。
こんなにも、熱くて悲しい気持ちになれた。
私には得られないと思っていた、強い感情。
結局何を成しても、それは恵まれているのだから、と諦めてしまっていた、とても大きな感情。
それを、初めて綾部さんは私にくれた。
「綾部さんの馬鹿。本当に、本当に、私は貴方のことを、好きだったのに……っ!」
ああ、恋をして本当に良かった。
悔しい思いも、腹立たしい思いも、どうしようもないほどに悲しい気持ちも。
私に差し出してくれた。
「……さようなら、私の初恋」
多分、これからは少しだけ、自分自身のことを好きになれそうな気がして。
私は思い切り、海に向かって大声を出した。
なんて叫んだのかは、帰る頃にはもう覚えていなかった。
◇
「もしもし、美涼?」
「ん?急に珍しいね、どうしたん?」
家に帰り、色々なことを両親と話した後、私は美涼に電話した。
少し悲しいけど、それでも、私は多くのことを彼女に助けられたから、伝える必要がある。
「いえ、少し話さなければならないことがあって」
「……えー?なになに?なんか嫌な話?」
私の神妙な声に、美涼はおどけて見せながらも、少し声のトーンを落とした。
そういう気遣いが羨ましく思ったし、私なんかには真似できない人付き合いの術の様にも思えた。
「……私、ウィーンに留学することに、したんです」
息を呑む音が、電話越しに聞こえる。
そういう反応をしてくれるほどには、一年にも満たない期間の中で築けてきたのだと思うと少しばかり手放し難い。
「あー、ヴァイオリンの?」
「ええ。本当は、国内の音大に行こうと思ってたんですけど、少し親に甘えてみようと、音楽に本気を出してみようと、思って」
どんなに才能があっても、経済状況がその才能を活かすことを許さないことなんていくらでもある。
とりわけ、ヴァイオリンなんて楽器はそもそもとしてある程度の経済に余裕がないと触れる機会すら無い。
だから、私はヴァイオリンがあまり好きじゃ無かった。どんなに結果を残しても、親のおかげ、という影がちらつくからだ。
でも、それでも、周囲にあるもの、与えられたもの、叶えられたもの。
それら全てを——我儘に、自分勝手に、惜しみなく使い果たして上を目指すことが。
きっとそういう姿が。
「それが、私に綾部さんに与えられる唯一のエール、ですから」
与えられなかった者が持つ物は、反骨の精神しかない。それだけが唯一、持つべき者に持たざる者が勝てる手段だ。
恵まれている者が、その予定調和通りに成功する姿を彼女が見たら。
きっと奮起する。
多分私がこの世界で初恋の人に出来ることと言えば、その位なんだろう。
それでも、彼女がどんな人生を歩もうと。
きっと私は誇らしく思う。
綾部純香の人生に大きな影響を与えたのは、私なのだ、と。
そうやって誇らしく思えば少しは、失恋の悲しみは薄らいでくれるだろう。
「だから、年が明けたら、私、居ないから」
美涼は少し悲しむ様な、それでも私を応援してくれる様な。
絶妙な返事をした。
もしもう一度恋に落ちることがあったのなら。
その時は、彼女の様に少しくらいは人付き合いの術を磨いておこう。
そんなことを思っていたりした。
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