古民家

あべせい

古民家

 


 東海地方のある大型スーパーの5階に、さまざまなゲーム機が置かれているゲームコートがある。

 ゲームコートといっても、広さがテニスコート1面分ほどもあるから、いろいろな使い方ができる。

 飲食可能な椅子とテーブルのほか、幼児が遊べるビニールクッション製の囲い、壁沿いにはベンチ、天井近くには大型のテレビも備えられている。

 いま、その壁沿いに並んだベンチの1つに、老人夫婦が腰掛け、コインゲームをするかしないかで、もめている。

「ちょっと遊ぶだけだ」

 と、夫の鶴吉。

「なに言ってンだ。あんなもの、やっても1円の得にもならないンだよ。あんなのやるくらいなら、パチンコをやったほうがお金になる」

 と女房のカメ。

「だったら、パチンコをやらせろッ!」

「なに言ってンだい。あんた、パチンコで勝ったことあるかい?」

「ある」

 鶴吉は、昔を思い出すように天井を見る。

「何度さ」

「一度だけ……」

「それは、わたしが、あんたの勝っているところに行って、無理やりやめさせたからじゃないか。最後までやっていたら、絶対損をしていたね」

「そんなことは……」

「あんたは玉がなくなるまでやめないから、ダメなンだ。自分で自分が制御できない。そういう人間なンだ」

 カメは鶴吉がしおれている様子をみて、少しかわいそうになる。

「わかったよ。行ってきな」

 カメは、そう言い、財布からお金を出して鶴吉に握らせる。

「これだけか」

 鶴吉は手の中の500円玉を見て、肩を落とす。

「それだけあれば、1時間は遊べる。遊べなきゃ、あんたがバカだ」

 鶴吉、それでも、うれしそうに含み笑いをもらしながら、メダルゲーム機のほうに歩いて行った。

 そこへ、

「ここ、あいていますか?」

 カメが見ると、30前後の男性がぼんやりした表情で立っている。スーツを着て、薄い鞄を脇に。営業の途中なのだろう。

「どうぞ。しばらく、戻らないから……」

「ありがとうございます」

 男性はちょっと会釈してから、カメの横に腰掛ける。

 ベンチは3人掛けだから、カメは左端にずれたが、その拍子に、男性は鶴吉が坐っていた所から、カメのほうに動く。

 カメと男性は、右端に1人分の席を空けて坐っているように見える。知らない者が見たら、2人は親子か、祖母と孫かと思うだろう。

 カメはイヤな感じがして、ほかのベンチを見る。

 壁を背にして、7脚のベンチがあるが、生憎、全部ふさがっている。

 カメは試しに数センチ、左にずれてみる。すると、男性もすかさず、その分、左にずれてくる。カメ、思いきって立ち上がり、2歩前に行った。と、男性は空いたカメの後にすぐさま移動した。

 カメはそれを見て、「左が好きなンだ」と思う。カメは安心したように、改めて、そのベンチの空いている右端に腰を下ろした。

 カメは読みかけだった週刊誌をとりだし、ページを繰る。ふと、気になって、左端の男性を見る。

 男性は、左右の腕を肩幅の間隔で前に突き出したまま、小刻みに上下に揺らしている。

 目は、と見ると、閉じている。夢想しているのだろうか。

「あんた、あんたッ」

 カメは声を掛けるが、男性は無反応だ。

「あんた!」

 カメは男性のほうにお尻をずらし、思わず、その頬をひっぱたいた。

「アッ!」

 男性は目を大きく開け、しばたたかせる。

「どうしたの? 夢を見ていたンじゃないの?」

 カメは、鶴吉には何十年も使ったことのない、やさしい口調で尋ねた。

 男性は、

「ぼくはいけないことをしてしまいました」

「まァ、ふつうじゃないから、相当なことをしたンだろうけれど、その前に、あんたの名前は?」

「多くの衣と書いて、多衣(たい)といいます」

「多衣さん、珍しい名前だね。仕事は?」

「農協に勤めています」

「役人のようなものか。で、ナニをしたンだい?」

「浮気をして、妊娠させてしまいました」

「よくある話じゃないか」

「でも、浮気をした相手は、妻の母……」

「ゲェッ! あんた、やるじゃないか。そんなおとなしい顔をして」

 多衣は、見るからに、金も力もなさそうなやさ男に思える。

「妻の母ですが、彼女は義父の内縁の妻なンです。もっと正確に言えば、彼女は妻のお父さんの愛人です」

「愛人? だったら、問題は……ないか」

「でも、彼女が妻の父と結婚すれば、妻のお母さんになります」

「そういう言い方もできるけど、そういうことはまずないね」

「妻のお父さんは、発展家で、30も年下の女性を愛人にしているわけです」

 カメは、不服そうに、

「そういう男は発展家と言うのじゃない。敢えて言うなら、艶福家だ。あんた、いくつだい?」

「31才」

「奥さんは?」

「29才」

「浮気女は?」

「妻と同い年です」

「というと、浮気女も29才か。で、どうするつもりなんだい?」

「それがわからないから。車にお母さんを乗せて、ドライブしようかと……」

 カメ、合点したかのように、

「それで運転する夢を見ていたってわけかい」

「夢じゃないです。運転の練習をしていたンです。ぼくはまだ運転免許を持っていません」

「免許もなくてドライブするって?」

「運転するのは、妻のお母さんです」

「だったら、どうして運転の練習なンか……あんたッ!」

 カンのいいカメは、気がついた。

「ハイ、車ごと、海にダイブしたら、全部解決する。それには、多少でも運転できないと……」

 カメは哀しくなるが、すぐに怒りがこみあげる。

「無理心中かい、あんた! あんたや浮気女はいいよ。お腹の赤ちゃんはどうなるンだ! 少子高齢化の時代だ。1人でも多くのこどもを育てないと、この国は終わりだよ。バカな政府のおかげでね」

 多衣、うな垂れて、

「すいません。でも、ぼくにはこどもを育てる能力も自信もありません」

「奥さんに全部正直に話して、育てることだね」

「いいえ、奥さんといっても、正確には元奥さんです。半年前に別れました」

「ゲェッ! あんたと前の奥さんとの間にこどもは?」

「いません。結婚生活は2年でしたから」

「2年もあったら、こどもは作れるよ。まァいい。それで、この秘密を知っているのは、だれとだれだい?」

「ぼくとお母さんと……」

「あんた、いつまで、お母さん、なんて言っているンだい。そんな女は、浮気女でたくさんだよ。で、ほかに知っているのは?」

「浮気オン、いえ彼女、沙葉(さは)といいますが、沙葉がだれかに話しているかもしれません……」

「そんなことは、滅多に話せるものじゃない。いくらバカでも、それくらいの分別はあるだろうよ」

「そうですか」

「2人しか知らないのだったら、口にチャック。黙っておけばいい」

「ということは……」

「その沙葉という浮気女を愛人にしている男のこどもにして、育ててもらうンだよ。あんたのこどもだって、決まったわけじゃないから」

「そんなにうまくいきますか?」

「いくもいかないも、それしか、いまのところしようがないだろう」

 カメは多衣の相手をしているのが嫌になってきた。他人の相談にのっている余裕なんか、ないのだ。

 今夜の宿も、まだ決めていない。決まらなければ、またまた、あの小さな車のなかで、老夫婦2人、押し合い蹴り合いして寝なければならない。

 農場経営者の家に住み込みで雇ってもらったのに、鶴吉が農薬入りの氷が使われている梅ジュースだと騒ぎ出したために、飛び出てしまったのだ。

 その鶴吉は、さきほどからメダルゲームに熱中しているようす。前後に動くテーブルにメダルを落として、すでにテーブルに載っているメダルを、シュートに落として手に入れる単純な遊びだ。

 カメは、その鶴吉のところに行こうと考え、立ちあがる。

「あのォ……」

 多衣が、カメのジャケットの裾を掴んだ。

 カメはその拍子に、落下するようにベンチにドスンと腰を落とす。

「痛いじゃないか!」

 カメは怒りを露わにした。

「腰が抜けたら、どうしてくれるンだい」

「すいません。でも、大事なことが……」

 カメは、他人の愛人を妊娠させた頓馬な男の目の中に、激しい炎を感じた。

「なんだい?」

「ぼく、彼女と結婚したいンです」

 カメは予想していた言葉に満足した。

「それがいい。丸く収まるやね」

「しかし、彼女は反対なンです。いまのままがいいと言って……」

「そんなものかも知れないね。だったら、諦めるしかないやね」

「元々は、沙葉はぼくの恋人だったンです。学生時代のことですが。彼女は、ぼくの元奥さんのともだちで、ぼくは、不謹慎にも元奥さんに乗り換えて結婚したわけです」

「彼女が愛人のままでいいと言ういちばんの理由はなんだい? やはり、お金かい?」

「お金というより、家です」

「家? 家がどうしたのさ」

 カメにはわからない。

「彼女が住んでいた家は、築300年の古民家なンです。借金のため10数年ほど前に、ひと手に渡っていたンですが、不動産業をしている元奥さんのお父さんが、愛人になる見返りに、その古民家を買い取ったうえ、リフォームして沙葉の住まいにしてくれたンです」

「彼女のご両親は健在なのかい?」

「父親は借金苦で亡くなっていますが、母親は元気です。母親は古民家を出たあと小さなアパートで暮らしていましたが、3年前、娘と同居すると同時に、昔の自分の家に戻ることが出来た、というわけです」

「じゃ、あんたの出る幕はないやね」

「そうでしょうか」

 多衣は不服そうだ。

「でも、その家には、彼女の夫、すなわち元奥さんのお父さん、大駒と言いますが、近頃彼は滅多にその古民家には来ないンです。彼は、本妻のいる本宅で、去年から住み込みで働いている若い家政婦とよろしくやっているらしいンです」

 カメは、家という言葉に鋭く反応した。

「内縁関係3年で、愛人にも飽きて、新しい女に手を付けたってわけかい。そういう話なら、やってやろうじゃないか」

「何を?……」

「あんたたちを一緒にさせてやる!」

「できるンですか?」

「あんた、わたしをなんだと思っているンだ」

「お婆さん、でしょ。年のわりには足腰のしっかりした。それと、行く当ての……」

 カメは全部を言わせず、

「昔は、損害保険会社の下請けの調査会社にいたンだ。大抵の調査、探索は経験しているよ。男と女は、別れさせるのは骨が折れるけれど、くっ付けるのは簡単なンだ」

「よろしくお願いします」

「わかった」

 カメ、決意の表情で立ちあがるが、ふと思い直して、

「あんた、持ち合わせ、あるかい?」

「いくらでしょうか?」

 ゲームに夢中になっている鶴吉のほうを見ながら、

「千円、いや2千円」

「それくらいなら……」

 多衣は財布から2千円を取り出し、カメに手渡す。

 カメ、財布に入れながら、

「それと、調査に必要な道具を用意して欲しいやね」

「なんでしょうか?」

 カメは、多衣の耳元に、やさしくささやいた。


 それから、10日後。

 カメと鶴吉夫婦は、豪壮な古民家の一室で、この日も朝から言い争っていた。

 多衣が妊娠させた沙葉は、不動産業の大駒と手を切ることができた。

 大駒と住み込み家政婦がキスしている現場を盗撮した写真がモノを言ったのだ。撮ったのは勿論、カメ。

 沙葉は手切れ金代わりに、母親の沙都(さと)と一緒に住んでいる古民家を手に入れた。

 古民家といっても、辺りは水田と畑ばかりのところだから、資産価値としては、土地家屋ともで5百万円程度。大駒は、すでに心は家政婦のほうに移っているのか、沙葉の要求をすんなりと受け入れた。

 カメと鶴吉は、沙葉の古民家所有に貢献したことから古民家の一室を借りることができた。

 仕事は、カメが古民家を取り囲む畑の世話、鶴吉は薪を割り、風呂を沸かし、井戸の水汲みだ。

 しかし、好事、魔多し。ここにきて、問題が発生した。

 農協職員の多衣は、沙葉との関係がばれないようにと、夜間だけ沙葉に会いに来ている。

 問題は、沙葉の母親、沙都だ。年齢は50代半ばにすぎず、美人の沙葉を生んだ母親を感じさせる美貌の持ち主のため、鶴吉が参ってしまった。

 カメと鶴吉のいさかいの原因は、ひとえにこの美し過ぎる沙都にある。

 沙都も、色目を使う鶴吉を無視すれば事は大きくならないのだが、どういう料簡か、鶴吉に満更でもないそぶりを見せる。

 しかし、今朝の争いは、少し事情が異なる。カメが近隣の年寄りから、妙な噂を聞いてきた。

 およそ10数年前、沙都はこの古民家の元の持ち主だった男のところに、当時高校生だった沙葉を連れて嫁いできたのだが、翌年、沙都の夫は急死した。雨漏りを直していて、屋根から転落した事故死だった。

 集落一の働き者だった夫を亡くし、沙都は仕方なく、売り食いを決意した。

 夫が先祖代々受け継いできた山や田畑を、不動産屋と相談して、少しづつ売り始めた。その不動産屋が、大駒だった。

 沙都は。めぼしい不動産がなくなると、最後は住んでいた古民家を売り払って、アパートに移った。

 大駒は、まず沙都に引かれた。次に、社会人になってから家を出て1人暮らしを始めていた沙葉が、沙都に会いに帰ってくると、その度に言い寄った。

 大駒は娘の沙葉と同居する前に、母親の沙都とも関係があったというのが、近隣の噂だった。

 沙都、沙葉の母娘は、体を売って生きていると陰口をたたく者もいる。

 カメは、この古民家に居続けていると、鶴吉が腑抜けになると考える。沙都という女には、働こうという意欲がまるでない。人に頼って生きるというのが、彼女の人生訓だと考えている。

 沙都は周囲を見回し、使える者がいないか、常に目を凝らして探している。鶴吉は、いまその網に掛かっている。

 沙都は、自分の力が足りなければ、娘の沙葉に頼るだろう。いずれ沙葉は、多衣と、生まれてくるこどもと3人で暮らすため、古民家を出ていく。

 そのとき、鶴吉は沙都から逃れられなくなる。そうすると、カメはどうなる……。

 カメは、1日も早く、この古民家を出ようというが、鶴吉にはそれがわからない。

 鶴吉の考えは違った。沙都はいい女だ。ちょっとだけつまみ食いをすればいい。そうして、ここにいる間に、新しい家と食い扶持を見つける。

 その展望が開けつつある。それは、大駒の本妻がいる屋敷だ。街の中心部にあり、生活には便利だ。

 鶴吉は昨日、沙都からその住所を聞いて、出かけてみた。沙都はその大駒の女房・政未(まさみ)に同情を寄せていた。

 政未は、大駒より6つ年上の65才。脳梗塞を患い、20年近く車椅子の生活を強いられている。

 政未は夫の女道楽を黙認している。いつの頃からか、政未と沙都の間で、手紙のやりとりが始まった。

 いまはメールに形を変えて続いている。政未は食べたいものがあると、商店の名前と住所を添えて沙都に知らせる。沙都は自分で品物を吟味して買い入れると、自身が届けることは気が引けるので、業者に依頼していた。代金は業者が仲介した。

 昨日、鶴吉は、静岡・掛川産の高級メロンを持って出かけた。沙都がデパートで買い求めて来たものだ。

 予め、沙都がメールしていたらしく、出迎えた家政婦は、鶴吉を政未の寝室に案内した。

 家政婦は大駒が入れ込んでいるだけあって、若くて肉感的な女性だった。鶴吉さえ、身震いするほどだった。

 政未はベッド脇の車椅子に腰掛け、庭の百日紅を眺めていた。

 鶴吉は沙都から命じられていた通り、メロンを舟型に切り分け、食べさせた。依頼はそれだけだった。

 ところが、政未は、問題の家政婦を遠ざけたあと、鶴吉をそばに引き寄せ、封筒を手渡した。

 鶴吉が屋敷を辞してから封筒を空けると、中に5万円が入っていた。そのお金が今朝、カメに見つかった。これが、きょうの言い争いのもとだった。

 あとでこっそり使うつもりだった鶴吉は、「拾った」とか「借りた」とか言ったが、カメの目はごまかせない。

 洗い浚いゲロさせられたうえに、5万円は没収された。

 カメは考えた。車椅子の夫人は小金を持っている。しかも、気前がいい。むしろ、よすぎる。

 すると、鶴吉が自慢するように言った。

「帰りがけ、その色っぽい家政婦さんに聞いたンだが、大駒は養子だそうだ。彼は町の小さな不動産屋だったが、元々、数万坪という土地持ちだった大駒家に婿入りして、その土地をうまく転がして不動産屋を大きくした。しかし、肝心な資産はいまも政未さんの所有になっているそうだ」

 カメの怒りはその話を聞くと、静まった。鶴吉の目のつけどころに感心したのだ。

 鶴吉にはその種の才能があるようだ。

「あんた、その政未さんの家の厄介になったほうがよさそうだね」

「しかし、カメ」

 カメは、鶴吉のいつにない真剣な顔付きに、居ずまいを正す。

「沙都さんは、政未さんの小金を当てにしているようだ。遺書に遺産を相続させると書いてもらいたくて、これからいろいろ工作するンじゃないのか。おれはそんな気がする」

 それはありうる。カメは、沙葉から聞いていた。沙葉は、半年たっても、いまのところは多衣と結婚する気持ちはない。生まれてくるこどもは、自分ひとりで育てる、と。

 沙葉はその理由を言わなかったが、カメが多衣の職場である農協の職員にそれとなく聞いたところ、多衣はかなりの額の公金を使い込んでいて、次の決算で露見するだろうという。

 公金の使い道は、すべて、沙葉と沙都だった。多衣が公金横領で捕まれば、沙葉は厄介者を抱えることになる。その前に結婚していれば、横領した金を返せと迫られる可能性すらある。沙葉は利口な女だ。

「あんた、そういうことなら、わたしたちが、政未さんを守ってやれないかね」

「そのためには大駒不動産と仲良くしなけりゃなァ。おまえ、大駒と沙葉さんの離縁に一役かっただろう」

「あれは、大駒さんにはバレちゃいないやね」

「そんなことはない。おれたちが政未さんに付いて、沙都さんの邪魔をすれば、沙葉さんは大駒にバラすンじゃないのか」

「そッか。じゃ、どうしたら……」

 カメが珍しく、天を仰いだ。


 さらに10日後。

 大駒が自ら車の運転を誤り、急死する事故が発生した。

 すると、沙葉は、おなかのこどもの父親は大駒だ、と言い出した。妊娠3ヵ月のため、まだなんとも言えないが、もし本当だとすると、相続権が発生する。

 一方、多衣は、沙葉から政未に心を移した。彼にとって政未は母親ほどの年齢なのだが、すべてはお金のためだった。

 政未がまともに相手にするはずがないにもかかわらずだ。そこまで、多衣は追い詰められていた。

 街では多衣が公金横領で明日にも逮捕されるという噂が飛び交っている。

 鶴吉とカメは、古民家を出て、大型スーバーのゲームコートにいた。全くの誤解なのだが、鶴吉が沙都の指示で政未に果物を持参した際、体に触れたといい、鶴吉は美人の家政婦によってその場から追い出された。

 車椅子に腰かけた政未の姿勢を直そうとして、脇から両手を差し入れただけなのだが、美人の家政婦がわざと騒ぎ出したのだ。

 家政婦からの報告で、沙都は古民家から出ていくよう鶴吉夫婦に命じた。政未の資産を狙って、さまざまな人間の思惑が錯綜している。

 もう、よそ者であるカメと鶴吉が手の出せる相手ではなかった。

 カメと鶴吉は、再び行く当てをなくし、困り果てている。

 鶴吉が、ベンチから立ちあがり3百円を持ってメダルゲーム機に行った。

 カメの前に人影が。カメが見上げると、多衣だ。

 多衣は、しょんぼりとして、

「いろいろお世話になりました。ぼくはしばらくいなくなります」

 そう言って、カギを差し出す。

「これ、ぼくのマンションのカギです。ぼくのいない間、自由に使ってください。掃除をしていただけると、ありがたいです」

 すると、不思議なことに、カメの胸の中に、熱いものがこみあげてきた。

 多衣には、最大級の不幸が訪れているというのにだ。それでも、カメは多衣をかわいそうだと思わない。

 彼は女を見誤って、人生を見誤った。しかし、取り返しがつく。刑務所を出てくれば、別の人生が待っている。まだ31才だ。

 鶴吉とカメは、そうはいかない。もうあとがないのだ。早く、腰を落ち着けたい。この年でお金の苦労を味あわなければいけないのは、いったいだれのせいだ。

 夫の働きが悪かったのか。わたしがぜいたくしたというのか。いや、政治が……。カメはいつも心の中で、こんな繰り言をしている。

                 (了)

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古民家 あべせい @abesei

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