第25話 想い出の丘にて・後編

 クリスタがおもむろに太陽を指で示した。

 

「ところで……もうすぐお昼くらい、だよね?」

「だと思うのです」

 

 太陽が輝いているのは青空のちょうど真ん中くらいだ。

 

「さて! ここで問題です!」

 

 いきなり隣で大声を出すものだからアリアは肩を跳ねさせた。

 

「きゃっ、びっくりしたのです!」

「お昼と言えば、なんでしょう?」

「信者さんがあまり来ない、ホッとできる時間?」

 

 即答するアリアに、クリスタがかわいそうな人へ向ける視線になった。

 

「その答えだけで最近のアーちゃんがどんな気持ちで導きをしてたかわかった気がする」

「他になにかあるのですか?」

「あるよ! お昼といえばお昼ごはんでしょ! あのアーちゃんが……っ! どうしちゃったの? 熱でもあるの? それとも病気?」

「ひとを食いしん坊みたいに言わないでもらいたいのですよ。聖女はお昼ごはんを食べないから思いつかなかっただけなのです」

「あ……そうだった」クリスタの表情が悲しみに染まる。「聖女ってお昼は食べないんだ」

「クーちゃんこそどうしたのです? はしゃいだかと思ったら今度は泣きそうになったりして。情緒不安定すぎるのですよ」

「楽しみにしてたことが崩れたら誰だって落ち込むよ……」

「どうしてわたしがお昼ごはんを食べないとクーちゃんが落ち込むのです?」

「アーちゃんの鈍ちん!」クリスタが半泣きで叫ぶ。「アーちゃんのためにお弁当作ってきたからに決まってるじゃない!」

「お弁当? クーちゃんが? わたしのために、なのです?」

「そうだよ! アーちゃんと食べようと思って早起きして作ってきたのに……ぐすっ」

 

 クリスタが可愛すぎて胸のあたりがキュンキュンした。自分が男だったら彼女を押し倒していたかもしれない。

 

「クーちゃん、ありがとうなのです。ほんとうにうれしいのですよ」

「なんだよお……どうせ食べてくれないんでしょ」

「そんないじけたこと言わないのです。食べるに決まってるのですよ。だってクーちゃんがわたしのために作ってくれたのですよ? 食べないわけがないのです!」

「ホントに?」

「当たり前なのです!」

 

 聖女で鍛えられた完璧なアリアの笑顔。

 それで、ようやくクリスタは機嫌を直した。

 

「じゃ、ちょっと待っててね! すぐ用意するから!」

 

 よほど楽しみにしていたのだろう。そこからのクリスタは行動が早回しのようだった。

 背負袋の紐を一瞬で解いて中から包みを取り出す。その時点でアリアはお弁当の中身を即座に察知した。

「こ、この匂いは……っ!」

 

 熱せられた動物性の脂が醸し出す、魅惑的な香り。

 間違いない。

 

「あはっ、さすがはアーちゃんだね」

 

 クリスタが包んでいた布を草花の上で広げ、お弁当箱の蓋を開ける。

 予想していたとはいえ、こんがりと焼き色のついた表面に囲まれた視覚的にも鮮やかな朱色を目にしたとたん、アリアは生唾を飲み下して叫んだ。

 

「お肉っ! これはお肉なのです! まさかお昼からお肉に出会えるだなんて! 感謝するのです! 女神カノンと、そして我が親友クーちゃんに! 感謝するのですよ!」

「いいかげんアーちゃんのそういう反応にも慣れたけどね。それでも少し怖いよ。お肉を前にしたら変わりすぎだから」

 

 呆れるクリスタを睨みつけるアリアは、食べられるのを今か今かとお弁当箱の中で整列して待っているステーキを何度も指で示しながら声を大きくして訴えた。

 

「だってお肉なのですよ! お肉を前にすればどんなに仲の悪い夫婦だって愛を囁き合うし、お肉のためなら人だって殺すのです! そんなお肉様が、こんなにおいしそうな御姿でご降臨されたというのに平常心を保っていられるわけないのです!」

「怖い! 今日のアーちゃんは本気で怖いよ! お肉があるだけで愛を囁くとかどこの世界の話よ!」

「今、このお肉様がおわす世界なのです! いくらクーちゃんでもわたしのステーキを奪うつもりなら容赦しないのですよ!」

「ちょ、それ作ってきたのあたしだから! しかもお肉に《様》とかつけだすし、あんたはお肉教の聖女か!」

「お肉教……なんて素晴らしい響きなのです! クーちゃんは天才なのですよ!」

「アーちゃんならいつかホントにお肉教とか開いちゃいそうだね……」

「さて冗談はこのくらいにして、そろそろお弁当を食べてもいいのですか?」

「……どこからが冗談で、どこまでが本気だったの?」

「想像に任せるのですよ」

 

 クリスタの探るような視線をアリアは満面の笑みで受け止める。

 どこからが冗談で、どこまでが本気だったのか。それはアリア本人にもよくわかっていなかった。

 

 まったく、とクリスタが諦めたように息を吐き出す。

 

「アーちゃんと一緒だと飽きないよ」

「それより早く! お肉! お・に・く! なのですよ!」

「はいはい。あ、でもちょっと待って」

 

 そう言ってクリスタが新たに背負袋から包みを取り出す。

 包みには掌大のパンが四つ入っていた。

 

 クリスタは慣れた手つきでパンの側面にナイフで切れ込みを入れると、その隙間にステーキを挟んだ。

 

「じゃーん! 名付けてお肉パンだよ!」クリスタが得意顔で言う。「修道院ではこういう食べ方しないんじゃない?」

 

 受け取ったお肉パンをまじまじと見つめながらアリアは衝撃に打ち震えた。

 なんという物を作り出してくれたのだ。

 

「普段はお肉自体が出ないのです。だからこんな食べ方……考えもしなかったのですよ」

「まあ、おいしいから食べてみ……ってもう食べてるし」

 

 アリアは待ちきれずにかぶりついていた。

 パンに挟まったお肉を、お肉が挟まったパンを一心不乱に味わう。

 食べた瞬間――いや、食べる前からわかっていた。

 お肉の挟まったパンがおいしくないわけがない。なんといってもお肉が挟まっているのだ。

 パンのふんわりとした柔らかな食感と、お肉の歯ごたえある食感は見事なほど相性がいい。肉汁とクリスタお手製のソースがパン生地に染み込んで、パンがまるで柔らかなお肉のようだ。

 

 驚きと呆れと笑いが入り混じった複雑な表情のクリスタに見守られながらアリアは最後のひと欠片を口に入れた。

 

「ふわあああ……」

 

 至福の喜びに思わず吐息が漏れる。

 そこで重大な事実に気がついた。

 

(あ……食事の前に感謝を捧げるのを忘れたのです)

 

 すべてはお肉のせいだ。

 お肉は人間から理性を奪う。

 思考を低下させる。

 そのせいだ。

 

(……やっぱり、そんなの言い訳にならないのですよね)

 

 なら、こういうのはどうだろうか。

 これは食事ではない。

 あくまで間食だ。

 おやつだから感謝を捧げなくても――、

 

(いいわけないのです! もうっ、こんな思考してる時点で聖女失格なのですよ。あれ? でも、食べるちょっと前に感謝って言った気がするような……そうなのです! 言ったのですよ! 女神カノンと、クーちゃんに!)

 

 よし。これでいこう。

 大切なのは決められた所作ではない。

 大事なのは、そこに込められる気持ちだ。

 自分はしっかりと感謝した。それで良いということにはならないかもしれないけれど、今日のところは良かったことにしておこう。

 

「アーちゃん、さっきからなに一人で百面相してるの?」

 

 と、クリスタが不安げな表情で覗き込んでくる。

 

「やめてなのです……っ! そんな《頭おかしいんじゃない?》みたいな目でわたしを見ないでなのですよーっ!」

「アーちゃん……それ、なんだかお兄ちゃんっぽいよ」

 

 その一言はアリアを本気で落ち込ませるには十分すぎる破壊力だった。

 

「まさか……わたしが、あの変態みたいだなんて……」

 

 今にも倒れそうなセリフ。

 だけど真におぞましかったのは、その次の言葉だった。

 

「きっとあれじゃない? 一緒にいるとバカがうつるって言うでしょ?」

「やめてほしいのです!」アリアは体全体で拒絶した。「それだとわたしがもう変態になっちゃったみたいなのです! それに、その理屈だとクーちゃんが一番に変態がうつると思うのですよ!」

「あたしはお兄ちゃん菌に対して生まれつき耐性があるから」

「お兄ちゃん菌とか、カルロスが聞いたら涙を流して喜びそうなのです」

「うん。言ったら泣きながら震えてた。なんだろうね、あれ。外でもああいうこと普通にやってるのかな」

「してるから国中に《カルロスは変態》って常識が根付いちゃってるのです」

「今ではそこに《聖女アリアは無慈悲》って常識が加わりつつあるけどね」

「うー……いやなこと思い出させないでほしいのですよ。クーちゃんのいじわるう」

「あはっ、ごめんごめん。お詫びに、もう一個お肉パンを作ってあげるから許してよ」

 

 流れるような手つきで作った二個目のお肉パンを、はい、とクリスタが差し出してくる。

 お肉パンを両手で丁寧に迎え入れながらアリアは言った。

 

「クーちゃんは良いお嫁さんになれるのですよ」

 

 あはっ、とクリスタが今度は彼女自身のためのお肉パンを作りながら笑う。

 

「アーちゃんのお嫁さんだったら楽そうだけどね」

「どうしてなのです?」

「だってアーちゃんはお肉さえ食べさせとけば喜ぶでしょ? こんな楽な相手もいないよ」

「うー……」

 

 言葉に詰まるアリアを見てクリスタが愉快そうにお腹を抱えていた。

 

 

 それから二人で談笑しながらお弁当箱を空にした。

 結局、半分以上をアリアが平らげた。

 

「食べたのですー。お昼にこんな幸せ一杯になったのは初めてかもしれないのですよー」

 

 心とお腹が満たされてアリアはゴロンと草の絨毯に寝転がった。

 

「もうっ、アーちゃんってば。食べてすぐ横になるなんてはしたないよ」

 と、笑いながらクリスタが口を尖らせる。

 

「わたしたちしかいないんだし、大目にみてなのですよー」

 

 アリアはゴロゴロと寝返りで移動して空のお弁当箱を背負袋にしまうクリスタの太ももに頭を乗せた。

 

「あ! こらっ、アーちゃん!」

「今日だけ特別なのです。ね?」

「しょうがないなー。アーちゃんはときどき、すっごい甘えたさんになるからね」

「えへへ」

 

 それはクリスタが甘えさせてくれるからだ。

 昔からアリアが何も考えずに甘えられたのは彼女だけだった。

 そのたびにアリアは思う。

 

(母親に甘える子供の気持ちって、こんな感じなのかもなのです)

 

 両親との記憶は、うすぼんやりとしかない。まったくないわけではないけど、想い出と呼ぶには曖昧すぎる。

 

 後頭部に当たる太ももが、女性だけが持つ弾力でとても心地が良い。

 額から頭頂部を何度も撫でてくれる掌にも心が揉みほぐされてゆくようだ。

 優しげな瞳に見下ろされながらアリアは薄く瞳を閉じる。

 

(わたしは、やっぱり卑怯なのです)

 

 幼くして両親を亡くしたのはクリスタも同じだ。それなのに、いつも自分が一方的に甘えている。クリスタが受け入れて許してくれるのを言い訳にして、その役割を交代しようとしない自分は勝手だ。

 

 

 アリアが次に瞼を上げたのは、近くから落ちてきた声でだった。

 

「……ちゃん。アーちゃーーん。早く起きないとイタズラしちゃうぞー?」

「……クー、ちゃん?」

「おはよ」

「もしかして……わたし、寝てたのです?」

 

 降り注いでくる日差しが弱まっている。

 太陽の傾き加減から考えて夕暮れまで二時間くらいといったところだろうか。

 

 うん、とクリスタがまるで母親のような優しい表情で頷く。

 

「ぐっすりだったよ」

「ごめんなのです!」アリアは慌てて起き上がる。「もっと早く起こしてよかったのですよ」

「アーちゃんの寝顔が可愛かったから起こすのがもったいなくて」

「そのセリフ、わたしが男だったらイチコロなのです」

「あはっ、なにそれ。でも冗談は抜きにして、アーちゃんは疲れてたんだよ」

「そうかもしれないけど……ほんとうにごめんなのです。せっかく二人でいられる貴重なお休みだったのに」

 

 本当ならもっと話ができるはずだった。

 もっと遊べたはずだった。

 

 気を落とすアリアに、クリスタがわざと出したような明るい声で言った。

 

「なら今日の埋め合わせに、またあたしとお出かけしてくれる?」

 

 そんなの答えは決まっている。

 

「よろこんでなのです!」

「それじゃ、今日のところは帰ろっか。あんまり遅くなるとセレーナさまが心配するだろうし、お兄ちゃんも寂しがってると思うから」

「カルロスなんて気にするだけ損なのですよ。むしろ放っておいたほうが喜ぶのです」

 

 あのカルロスなら《オレを放置するとは、さすがは我が妹!》などと身悶えそうだ。

 けれど、やはりクリスタは実兄の趣向をいまいち理解していないようで、

 

「え? なんで寂しいと喜ぶの?」

 

 子供のように純真な疑問を投げ返してきた。

 

「……なんでもないのです」

「ヘンなアーちゃん」

「今のは忘れるのです! さあ、帰るのですよ!」

 と、アリアは話から逃げるように立ち上がった。


 事細かに説明などしたら、こちらまで変態だと思われかねない。

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