朕は怒っていない/悪運強し
◇
「で?」
ラルフ・リールは首を傾げた。
「なぜ彼は助けを求めてきたのだ? よりによって、この俺に」
「まともな医者……近代的な治療を施す医者がいないということです、イスケンデルには」
暗号解読官が返す。ラルフはむっとした
「呪術か加持祈祷で充分だろうが、ユベール将軍には!」
「それでは間に合わないそうです」
「……ふむ。怪我の容態は?」
ようやくラルフは本筋に触れた。暗号解読官が通信文に目を落とす。
「背中から肩へかけて狙撃された模様です。心臓を傷つけられた可能性がある、と」
ラルフは息を呑んだ。
「意識はあるのか?」
「はい」
「なら、護衛をつけてマワジへ送れ。ユートパクス軍には、民間の優れた外科医がいる。腕は、
暗号解読官が目を上げた。ためらいがちにラルフを見つめる。
「いいんですか、リール代将?」
「何が?」
「彼は、フェリシン大佐と一緒です。通信は、大佐の名前で送られています」
沖へ停泊中のリオン号に向けて、港から狼煙が上がった。アンゲル軍の救援要請に用いられる狼煙だ。
すぐに現地の小舟が、暗号文を運んできた。差出人はエドガルド・フェリシン大佐だったと、暗号解読技官は説明した。
ラルフは我を忘れた。
「それを先に言え! オハラ
この少し前のことだ。
アンゲルから帰って来たラルフ・リールは、ティオンへ行ったエドガルドがまだ帰って来ていないと聞いて、愕然とした。彼は、タルキアの皇帝に軍を解散させるよう、説得に行ったのだ。
だが、休戦に関する皇帝の内諾は、最初から得ている。皇帝の気質を、ラルフは良く知っていた。真っ直ぐで曲がったことの嫌いな皇帝は、一度結んだ約束は、必ず守る。
従って、エドガルドの交渉が難航する要素はどこにもない。
エドガルドがまだ帰って来ていないというのは、おかしい。
彼をティオンへ送っていったオシリス号は、非道にもエドガルドを置き去りにして帰って来てしまっていた。タルキア側が、帰路は自分たちが手配すると申し出て、オシリスを帰還させたらしい。
あまりに無責任ではないか。思わずラルフは、オシリスの船長、長年の友人であるヴィレルと喧嘩してしまった。
すぐにお互い謝罪して、仲直りをしたのだが。
その際、ヴィレルは、赤い石のペンダントをラルフに寄越した。あの憎たらしいユートパクスの将軍がエドガルドに押し付けたものだ。
貴重な文化財なんて嘘っぱちだと、ラルフは見抜いていた。あいつは、自分を思い出させるよすがを、エドガルドに託したかっただけなのだ。
タルキア宮殿へ赴くエドガルドから、ヴィレルはそのペンダントを取り上げた。代わりに青い目玉の魔除けを渡したという。もちろん、ラルフからの愛を囁くオウムの入った籠も。
やはり古くからの友は違う。ヴィレルは大切な親友だ、ラルフのことをよくわかっている。ケンカをしたことも忘れ、ラルフは彼を抱きしめたものだ。
いつまでたっても、エドガルドは帰って来ない。不安を募らせたラルフは、自らティオンへ赴き、皇帝に謁見を願い出た。
「休戦には最初から合意している。イスケンデルに集結した軍には、即座に解散するよう、遣いを出した」
玉座の上から皇帝が言った。
タルキアの流儀に従い、ラルフは深く平伏した。
「朕は、アンゲル大使の勧めを受け容れた」
すると、エドガルドは、任務を成功させたのだ。深く、ラルフは安堵した。やっぱり彼に任せて良かった。
けれど今の彼にとって、焦眉の急はそこではない。
「それで、私の大使はどうなりましたか?」
私のに力を込めて、ラルフは尋ねる。本当は「エドガルドをどこへ隠した?」と、直球で尋ねたいところだ。
「大使なら、とっくに帰路についた」
答えたのは皇帝ではなく、控えていた廷吏だった。
矢継ぎ早にラルフが問う。
「いつ? それは、船ですか、陸路ですか? 誰が同伴しましたか?」
「不明だ。あの少年は、皇帝の供応を辞退して、早々にティオンを後にしてしまったのでな」
廷吏が応じる。
「帰りはタルキア側で送るというこことになっていたではありませんか」
焦りまくってラルフは抗議した。
「陸路にしろ海路にしろ、彼には交通の手段がありません。なぜ、安全な護衛団をつけて下さらなかったのか!」
「誰と一緒に、どのようなルートで帰路についたか、こちらでは一切、把握していない」
「無責任が過ぎる! それは大使に対する扱いではありません!」
「無礼者! 皇帝の御前であるぞ」
浅黒い顔の廷吏から、厳しい叱責が飛んだ。
「しかし!」
「ありていに言えば、あの少年は、宮殿を抜け出し、勝手に帰ってしまったのだ」
ラルフは絶句した。
勝手に帰った? エドガルドが?
あり得ない。もし事実だとしたら、考えられる原因は、ひとつしかない。つまり、ラルフが案じていたことが現実となったわけだ。エドガルドは、タルキア皇帝に気に入られてしまった……。
責任感の強い彼のことだから、皇帝の好意を拒絶することで、せっかくの休戦同意が反古になることを恐れたに違いない。
しかし彼が、皇帝の寵愛を受け容れるわけがない。
こっそりティオンを後にするしか、エドガルドには道はなかったのだ。
全てがラルフの中で合理的に結びついた。
「お怒りかな、アンゲルの代将」
穏やかな声が玉座から降りてきた。
「御意」
ぷんすか怒りながらラルフが答える。
「黙れ、異人※めが!」
「よい」
腰に佩びた剣に手をやる廷吏を、皇帝が抑えた。
「だが、彼は君に会ってくれるかな。再び、アンゲル艦に帰って来るだろうか」
「……は?」
虚を突かれた。礼儀を忘れ、ラルフはあんぐりと口を開いた。
「愛する者を騙したらダメだろう。無知や忘却に付け込むのは、なおさらだ。それは、洋の東西を問わないはずだ」
呆気に取られているラルフを前に、高らかに皇帝は笑った。
「彼に会ったら伝えてほしい。またティオンへ来るように。断りを入れずにいなくなったことを、朕は少しも怒っていないから、と」
悄然として、ラルフはイスケンデル港に帰ってきた。
エドガルドが出発したとされる日から、随分日数が経っていた。それなのに、彼から何の連絡も入らない。エドガルドの姿は、杳として砂漠の
皇帝の言った言葉が、頭から離れない。確かに自分は、ジウに転移したエドガルドを騙し続けてきた……。
それをなぜ、皇帝は知っているのか。
ティオンの宮殿に滞在中、エドガルドに何が起きたというのか。
……ひょっとして、前世の記憶を取り戻したのか?
ぎくりとした。それこそラルフが一番恐れていたことだ。
彼は、前世の恋人がシャルワーヌだったことを思い出したのかもしれない。ラルフのことなど愛していなかったことを再認識してしまった……。
ウテナの王子に転移したエドガルドに、ラルフは、自分こそが前世からの恋人だと信じ込ませた。彼の誤解を利用して。
ラルフは、エドガルドの恋人を装い続けた。知っていながら、シャルワーヌが彼の本当の恋人であったことは隠し通した。
その嘘が、ついに露見してしまったのではあるまいか……。
そこへ救援要請が入った。
イスケンデルの市街地で、ユートパクス軍のユベール将軍が負傷したというのだ。
暗号技官の話では、通信文は、エドガルド・フェリシンの名で作成されているという。同行者にはもう一人、シャルワーヌの副官、サリの名が記されていた。
ティオンから消えたエドガルドが、なぜ、シャルワーヌと一緒にいるのか。
ラルフの心に、暗い疑惑が灯った。
そして、全てが露見した予感に震えた。
手配した軍医と一緒に上陸することを、ラルフは避けた。もし、本当にすべてが露見してしまったのなら、エドガルドに会う自信がなかった。
……。
「患者の具合はどうでしたか?」
船へ帰って来たオハラ医師に、ラルフは尋ねた。
オハラは、リオン号の軍医だ。
戦場で彼は、大抵の傷はブランデーで消毒し、余った分は自分が飲み干している。
「貫通してたね」
イスケンデルの宿屋で、既に軽く聞こし召してきたらしいオハラは、上機嫌で答えた。
「低い位置からの発砲だったのだろう。彼の背中を撃った弾は、そのまま右肩へかけて通り抜けていた」
「そりゃ、弾を抜く手間がかからなくてよかったですね」
軽くラルフは応じたが、オハラが手を下さないで済んだということは、シャルワーヌにとって僥倖だった。撃たれた時は意識があり、敵を罵るほど元気だった兵士が、オハラが弾を抜く手術をした後に、急激に悪化し死んでしまうということが、わりとよくあるのだ。
「素早い応急処置がよかったのだ。止血が完璧だったから、往診がぎりぎり間に合った。これがもし、ユートパクス軍の駐屯地まで運び込まれていたら、彼は絶命していただろう」
「そうだと思った! あいつはそういうやつなんだ!」
ラルフは絶叫し、髪を掻き毟る。
シャルワーヌが助かったことに安堵し、彼への憎しみが一気に噴き出したのだ。前世で先にエドガルドに会って手を出し、そしてラルフがちょっと留守をした間に、彼をかっさらっていったシャルワーヌへの、激しい妬心だ。
嫉妬に身悶えるラルフに対し、患者を死の淵から救ったばかりの医者は、得意の絶頂だった。
「それもこれも、派遣されたこの俺が、有能だったからこそだ」
「……先生。いつものヤブ医者ぶりを発揮してもよかったんですよ?」
「なんか言ったか?」
「いいえ」
「なにより、あの患者は、運がよかった。弾は、肺などの臓器をよけて、骨の一本も折ることなくきれいに抜けていきおった」
「悪運の強いやつめ」
口の中でラルフは嘯いたが、オハラには聞き取れなかったようだ。盛大なげっぷをした。
「あの男は背中の右側を撃たれたが、これが左でなくてよかったのだ。左側にあの角度で打ち込まれたら、心臓まで一直線だからな。恐らく彼のハートは粉々に砕かれてしまったことだろう」
自分が口にしたハートという言葉に、オハラはくすくす笑った。彼は、酔っていた。
「そうですね」
砕けた方がいいのだ、シャルワーヌのハートなんて。
ラルフの心の声が伝わったのだろうか。オハラが首を傾げた。
「あ? その方がよかったか? 何なら、今から切り刻んできてもいいぞ。あの男は、ユートパクスの将軍らしいじゃないか」
嬉々として港町へと戻っていきそうだった。ラルフは慌てて首と手を同時に横に振った。
「いいえ。彼は私の……つまりその、知り合いですから」
「知り合い?」
「エ=アリュ条約を締結させたときの、ユートパクスの大使ですよ」
「なんだ、そうだったのか」
今にも医療用のメスを手に取りそうだったオハラは残念そうだった。
「俺が切り刻むまでもない。彼は、ひどく弱っている。何しろ出血がひどかったからな。その上、ここの気候は過酷だ。衛生状態も最悪だし。しばらくの間、ソンブル大陸から出して、どこかで療養させた方がいい」
「それは、ユートパクスに返せということですか?」
シャルワーヌをオーディンのいる祖国へ帰らせる。嫌な予感しかしない。首席大臣となったオーディンは、軍を再編し、再び世界を戦禍にたたき込もうとしている。
「別にユートパクスでなくても……ここからなら、クルスが一番近いんじゃないか? ウアロジア大陸の国の中では」
クルスは、メドレオン海に突き出た半島の国だ。都市国家として独立していたが、ユートパクスに蹂躙され、アンゲルに接近してきている。
しかしクルスは、オーディンの故郷だ。彼はクルス占領に執念を燃やしている。
「シャルワーヌ将軍の療養先については、私に一任ください」
「急いだほうがいい。さもなければ、あの男は死ぬぞ」
物騒な脅しにラルフは首を竦めた。いや、脅しなんかではない。オハラの手に罹れば、死は確実に近づいてくるだろう。
「それはさておき、オハラ先生。彼には会いましたか?」
いつまでも経ってもエドガルドの様子が聞けないので、しびれを切らせ、ラルフは尋ねた。
再びオハラ医師が盛大なげっぷをした。
「彼?」
「エドガルド・フェリシン大佐です。救援要請は、彼からのものでした」
オハラの目に理解が灯った。
「ああ! 彼ね! ウテナの王子に転移したという……あの少年がフェリシン大佐だということは、未だに俺には受け入れがたいけどな」
医学の徒であるオハラは、ジウへの転移など、端から信じていない。もしかしたら、ラルフが年若いウテナ人をかどわかしてきたのだと疑っているのかもしれなかった。
もどかしさに、叫び出したい気持ちを抑え、用心深くラルフは問いを重ねる。
「彼は、私のことを、気にしていましたか?」
「なんで君のことなんか?」
「なんでって……ほら、私はリオン号の責任者だし? 先生を手配したのも私ですよ?」
「手配とは失礼な! そういえば、そうだな。君はもうリオン号に帰ってきたかと聞かれたよ」
……気にしててくれたんだ。
幽かな希望が、ラルフの胸に灯った。少なくともタルキアの皇帝が言ったようにラルフに会いたがっていないわけではない。
「それで、先生はなんと?」
「帰ってきたと答えた」
「……なるほど。で、彼の反応は? ひょっとして、先生と一緒に私が上陸しなかったのを気にしてたとか?」
胸がときめいた。なんといっても、エドガルドは自分を頼ってきたのだ。狼煙で危機を知らせ、暗号文を送って来た。
実際には彼はラルフの帰還を知らなかったのだから、頼られたのはラルフではなく、リオン号そのものだったわけだが。
オハラ医師が顔を顰めた。
「なんだね、君は。何をわくわくしてるんだ? あの子は君が来なくてもへっちゃらだったよ。怪我人がいて、それどころじゃなかったし」
「そうですか……」
がっかりした。エドガルドは、怪我人に気を取られていたという。もちろん、シャルワーヌのことだ。
……くそう、シャルワーヌめ。
「それはそうと、彼から伝言を預かって来た」
ラルフは飛び上がった。
「伝言!」
「君に会いたいそうだ。彼は、イスケンデルの宿で待っている」
________________
※「異人」は差別語と解釈できますが、ここでは、タルキアの誇り高さを表現したく、あえて使用致しました。
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