ハーマー家の客

※虫が出ます。ご注意ください

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 「テディ、お客さんよ」


 麗しのアメリアの膝の上で、甘い夢をむさぼっていたエドワードテディ・アップトックは、何度も揺り動かされ、渋い目を開いた。


「客? ここには誰も寄越すなと部下に言ってあったはずだ」

「軍の方ではなさそうよ」

「なら、無視しろ」

「そんなこと言わないで会ってあげて。とても可愛らしい方なの」

「やだね」

「そんなこと言わないの」

「俺はメルとこうしていたい」

「まあ嬉しい。でも、もう通すように言ってしまったわ」


 アメリアが言い終わらないうちに、部屋のドアが開けられた。召使に付き添われてはいってきたのは、まだ年端もいかない少年だった。

 美しい女性の膝枕をしたままのメドレオン海提督を、驚いたように見つめる。


「アップトック提督、こんにちは。ジョシュア・グローリー、士官学校初等科の生徒です」

おずおずと少年が挨拶した。顔が真っ赤になっている。


「カワイイ……」


アメリアの心の声が漏れ、アップトックは憮然とした。

愛人の膝枕に寝ころんだまま、アップトックは、じろりと少年を睥睨した。


「グローリー?」

聞いたことのない名前だった。

「それに、士官学校だ? ほらみろ。軍の関係者じゃないか……」

愛しいアメリアとの貴重な一時を邪魔され、アップトックはひどく不機嫌だった。


「それで、かわいい将校さん。何の御用があって来たの?」


アメリアが助け舟を出す。ジョシュアは直立した。


「お願いです、アップトック提督。僕の叔父さんを助けて下さい!」

「君の……叔父さんだって?」

「海軍士官のラルフ・リールです。提督が捕虜交換に反対していると聞きました。どうか、ユートパクスとの話し合いに応じて、叔父を解放してやって下さい」

「……ラルフ・リールが君をここに寄越したのか?」


 低い剣呑な声だった。ジョシュアの体がぴくりと震えた。それでも彼は、はっきりと否定した。


「違います!」

「子どもを使うなんざ、見下げはてたやつだ」

「信じて下さい、アップトック提督。僕が自分で考えてここに来ました」


 自分の行為が裏目に出てしまい、ジョシュアは必死だった。両手を前に差し出し、今にも跪かんばかりだ。

 見かねて、アメリアが口を出した。


「ねえテディ、信じて上げて」

「お前は黙ってろ」

「だってリール大尉はシテ塔に監禁されているんでしょ? 外との連絡は一切取れないって、大使館の人が言ってたじゃない」


 確かにその通りだった。大使館でさえ、ラルフ・リールと接触が取れていない。ましてや年端のいかない甥に、指示などの連絡が届くわけがない。

 むっとした顔のまま、アップトックは起き上がった。


「だがな、チビ。あの男に関しては、俺にできることはないよ」

「提督が一言、捕虜交換に応じると言って下されば……」

「そんなに簡単なことではない!」


言い募る幼い声を、ばっさりと切り捨てた。


「今、アンゲルの牢獄にいるのは、ユートパクスの将軍クラスの人間ばかりだ。大尉のリールの代わりに解放するには、大物すぎる」

「でも、リール叔父さんは立派な軍人です!」

「軍では階級がすべてなんだよ」


冷たくアップトックは言い放った。


「たとえ将軍になれなくても、叔父は勇敢で優しく、いつも弱い者の味方です!」

「君の叔父さんは小物過ぎるのだ。残念ながら彼には、ユートパクスの軍人ほどの価値はない」


 呆然とした顔を上げて、少年は、日に焼けた海の男の顔を見つめた。その彼に、アップトックは笑いかけた。

 ひどく冷酷な笑顔だった。

 がくんと、少年の肩が下がった。項垂れたままジョシュアは、ハーマー家の私室から出て行った。


 「ひどい人ね。言い過ぎよ」

丸まった小さな背中が見えなくなると、アメリアが非難する。

「事実を言ったまでだ」

 少しの慙愧もなく、平然とアップトックは言ってのけた。それから、ごろりと横になり、再び頭をアメリアの膝に乗せる。

「昼寝を邪魔された。俺は少し眠るよ、アメリア」



 エドワード・アップトックが目を覚ましたのは、それから小半時も過ぎた頃だった。既に夕食が準備され、二人は食堂に向かった。


 ハーマー家には数人の来客があり、食事は和やかに始まった。


 食前酒を嗜みつつ、キャビアを掬い上げたアップトックは、スプーンを口に運び、眉を顰めた。

 妙に固い。そして、泥臭い。


「なんだ、これは!」


 キャビアではなかった。それは、ダンゴムシ……子どもがよく集める、あの、悪気のない昆虫だった。それが、アップトックの皿一面に蠢いている。


「まあ、大変! お水を!」

「はい、奥様」

「自分で行く!」


 給仕を押しのけ、口元をナプキンで抑えたまま、アップトックは部屋を走り出た。

 廊下に出た途端、盛大に滑って転んだ。立ち上がろうとして、また滑った。


 「アップトック提督!」

走り寄って来た召使が、同じように滑って転んだ。

「床に蜜蝋が!」

「いったい誰の仕業だ!」

立ち上がりかけて再び足を滑らせ、アップトックは喚いた。

「さては、アメリアの夫だな!」

「まさか! 夫は貴方の親友でしょう?」


 賢くも腰を低くして近寄って来たアメリアが、アップトックを助け起こす。愛人に腕を取られ、アップトックは激昂した。


「使用人どもか!」

「いえ!」

滑りに滑り、もはや平伏してしまった召使が必死で否定する。

「滅相もないことです。我々ではありません!」


「では誰が、俺の皿に虫を山盛りにし、廊下に蜜蝋を塗った!」


「あっ!」

駆け付けた執事が叫んだ。

「あの子どもの仕業に違いありません!」

「あの子ども、だと?」

「今日、館に来た少年です。珍しいから家の中を見せてくれと……」

「見せたのか!」

「……はい。それと、外で待っていた友達二人にも」

「なんたる危機管理不足! お前ら、銃殺ものだぞ」

「お許しを! 必死で頼んでくる様子が、あまりに、そのう……」

「あまりになんだ!」


怒りに満ちた声に、執事は一層縮こまった。声が掠れる。


「あまりに……あの、可愛らしかったものですから。目をくりくりさせて嘆願する友達思いな様子に、ついほだされて」

「そんなの、芝居に決まってる! ええい、くそ! ラルフ・リールの甥が!」

声を限りに、アップトックは罵った。



 「ねえ、テディ。なぜあなたはそんなに、リール大尉が嫌いなの?」


 ようやくのこと、アップトック提督を椅子に連れ戻し、アメリアは尋ねた。

 アップトックの剣幕を恐れ、会食の客たちは既に皆、退散してしまっている。


「それはあいつがノーテンキでお気楽でのほほんとしているからだ!」

「……それだけじゃないわね」

「うむ」


 給仕長の持ってきたブランデーを一息で飲み干し、アップトックは唸った。口の中に残るダンゴムシのえぐみが少しは流れたのだろうか。彼は語り始めた。


「あいつとは、幼年学校から一緒だったのだ。昔からリールのやつ、顔だけは可愛くてな。どこへ行っても人気者よ。ふん。顔がよくてなんぼのもんじゃい! 実力は断じて俺の方が上だというのに!」

「かお……」

「女にも男にもモテやがって。大臣どもでさえ、言いなりよ。顔だぞ。顔がいいというだけで!」

「それはあなたの思い過ごしじゃないかしら」

「断じてそんなことはない! 俺と部下が血を流して勝ち取った勝利よりも、へらへらしたあいつに関するあれやこれやの方が、社交界では珍重されるんだ!」

「今ではそんなことはないわ。貴方は海軍の第一人者よ!」

「まあな。だが、今日ここへ来た甥は、小さい頃のあいつにそっくりだ。胸糞悪いったら、ありゃしない」

「そうね。あの子はとても可愛かったわ」

「お前までそんなことを言う!」

「でも、私は貴方が好きよ、テディ」

「……うん」

「確かにカオは大事よ。私は貴方の顔が好きなの」

「本当に?」

「ええ、本当に」


 この、見事な人心掌握術ゆえに、アメリアの夫ハーバー伯爵は、妻をアップドックに譲ったのだという。けれど未だに親友として付き合いを続けている。

 三者の複雑な関係について、ハーバー伯爵は、海洋の覇者、島国アンゲルの守護神アップトックには、寄港する港が必要だからと言っているそうだ。



 捕虜交換を待つまでもなく、その頃すでに、ラルフ・リールは、故郷アンゲルへ帰国の途にあった。祖国からの救助を待ちくたびれた彼は、自力でシテ塔からの脱獄に成功した。ユートパクス亡命貴族、エドガルド・フェリシン及び彼の協力者たちの助けを借りて。


 アンゲルへ無事帰国したラルフは、敵国ユートパクスのシテ塔から脱獄してきたということで、人々の大喝采を浴びた。その陰で、アップトック提督の彼への評価が、底の底まで落ちたことも知らずに。


 なお、アップトック提督は、この後のタルキアでの任務で、彼の上官になる。


 ラルフの甥ジョシュアとその二人の悪友……アレックスとオスカーが、彼の艦船レオン号の海軍士官候補生ミッドシップメンとして乗り込んだのは、ラルフの帰国から数ヶ月後のことだった。

 これが、三人の悪童を持て余していた士官学校の教授連の策略だったことは言うまでもない。厄介な生徒たちは、厄介な叔父に押し付けようというのが、彼らの本音だったという。







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