ハラル異変
シャルワーヌ将軍が奴隷を買うというのは、どうやら本当のようだった。それも、若いきれいな女性だけでなく、少年も多いという。噂を聞きつけた奴隷商が、男の奴隷を売りつけに来たこともあったらしい。
アソムと、それから副官のサリからもその話を聞かされ、俺は、シャルワーヌにタルキア語を教えることを止めた。
不愉快だったのだ。
奴隷? 前世の俺は王党派だったが、ユートパクスの革命は、人類の平等を謳ったのではなかったか。それなのに、奴隷を買うなんて。革命軍の将校が!
そういうわけで、シャルワーヌが部屋へ来るたびに、体の不調を訴え、彼を追い返した。ジウ王子が虚弱なのを良く知っているシャルワーヌは、特に文句も言わず、引き揚げていく。どうやら彼は、語学学習そのものが苦痛になっているようで、そのことも素直に引き返していく理由のひとつだったようだ。
「ジウ王子」
それなのに、いきなり彼がやってきた。開け放しの戸口から入り込み、外の気配に耳を澄ませている。
間の悪いことに、アソムは留守だった。彼は、薬草を摘みに行っていた。
シャルワーヌは、丁寧に戸を閉めた。まるで音を立てまいとしているようだ。ずかずかと部屋の奥に踏み込んでくる。
「頼むから、暫くの間、タルキア語を教えてくれないか? いや、匿ってくれるだけでいい」
「シャルワーヌ将軍! どこですか!?」
「将軍! すぐ来て下さい!」
俺が何か言う前に、閉ざされたドアの向こうから副官達の声がした。シャルワーヌを探している。
「サリ大尉たちがお探しですよ。早く行かれたら?」
とにかく追い出そうと急かせた。ところがシャルワーヌは梃子でも動こうとしない。
「いやだよ。あいつら、俺に書類仕事をさせようとしてるんだ」
「書類仕事?」
「総司令官が報告書を寄こせと言ってきたのだ。先月俺は、首都の近くのオアシスから、小麦を徴収してな。総司令官殿はひどくご立腹だ」
「総司令官?」
それは、オーディン・マークスだ。
……シャルワーヌ将軍の想い人。
俺は首を横に振って、わけのわからない妄執を追い払った。
「総司令官の意に反して、貴方は、小麦を徴収したのですか?」
「うん。首都近辺のオアシスは、親衛隊の占領地だから。勝手に物資を調達したらダメなんだ。だが、上ザイードの西の外れの村が大変な飢饉で、至急食糧が必要だった。総司令官は、タルキア遠征で留守をしていたから、無断で失敬してきた」
オーディン・マークスに逆らった。シャルワーヌ将軍が。
「だから報告書を寄越せと?」
「まあ、始末書だな。書類仕事は苦手なんだ。ちまちましていて、めんどくさい」
それは、語学学習の拙さからわかる気がした。
「頼む。匿ってくれ」
まるで雨に濡れた大型犬のように、哀れな目を向けてくる。
「……いいでしょう」
俺は言った。この男は、オーディン・マークスの言いなりではないのだ。大いに痛快な気分だ。
「では、さっそくアルファベの復習から……」
「えっ!」
「え、じゃありません。この部屋での貴方の存在理由は、タルキア語習得だけです」
厳しく言って、俺はテキストを出してきた。埃を払い、シャルワーヌの膝に乗せる。
「まず僕が読みます。次に、あなたが繰り返すんです」
ぼそぼそとシャルワーヌは、アルファベットを読み始めた。俺は彼の癖を直し、発音の規則を教える。
しばらくして、シャルワーヌの頭の位置が、一段低くなっていることに気がついた。その上、左右に揺れている。
「シャルワーヌ将軍?」
「……ん。ゆうべ寝てないんだ。少しだけ。すまん」
「すまん」の意味は、すぐにわかった。
床の上でずるずる崩れたかと思うと、この男、隣り合って座っていた俺の膝の上に頭を乗せてきたのだ。
本当は向かい合って座りたかった。前回、足を噛まれたことを、俺は忘れてはいない。テーブルでもワゴンでも、とにかくシャルワーヌとの間には、何かを挟むことが肝要だ。
だがテキストは1冊しかなかった。二人で覗き込む為には、同じ向きで座らなければならない。勢い、隣り合って座るしかない。その上この地方では、椅子ではなくクッションを背に宛てて床に直接腰を下ろすのが一般的で、シャルワーヌもそれを好む。
それが災いした。
難なく俺の膝に頭を預けた彼は、横向きになり、毛足の長い絨毯の上に、まるで猫のように体を丸めた。
驚き呆れる暇もなく、すやすやと寝息を立て始めた。
膝の重みに、限りない幸せに包まれた。
……幸せ?
だから、ジウ王子の体は変だというのだ。恐怖と幸福を取り違えている。
胸を両手で抑え、気持ちを落ち着けようと努力した。シャルワーヌと一緒に過ごす時間が長かったせいか、少しすると理性が勝つことはわかっている。そうなれば、まともにものを考えられるようになる。
目線の真下に、彼の顔が来ていた。目を閉じ、本当に眠っている。こんな間近で顔を見るのは初めてだ。しげしげと、膝の上の顔を眺めた。
真っ先に目が行くのは、頬の傷だ。横向きに寝ているので片方しか見えないが、傷は両頬にある。銃弾が貫通したからだ。その時彼は、東の国境で戦っていた。スカーフで抑えて止血しただけで、軍医が止めるのも聞かず、戦場に戻った。傷のせいで口のきけない彼は、身振り手振りで一晩中、指揮を執り続けたと、サリが誇らしげに語っていた。
……本当に戦争が好きなんだ。
その話を聞いた時、俺が感じたのは苦々しさだった。戦闘の後、軍医が乱暴に縫合しただけで放置しているから、こんな風に痕が残ってしまった。ハンサムが台無しだ。
……ハンサム?
慌てて俺は頭を振った。
上ザイードに落ち着いてから、彼は髭を生やし始めた。
その理由を聞いて呆れた。現地の少年たちが怯えるから、傷を隠す為だという。
……「怯える少年の一人に、あなたも混じっていましたがね、ジウ王子」
揶揄するように口を出したのは、ベリル将軍だった。
……「シャルワーヌ将軍は、あなたに嫌われたくなかったのです」
……「ソンブル大陸の少年たちに、でしょ?」
俺が指摘すると、ベリルは肩を竦めた。どうもこの将軍は、実際以上にシャルワーヌを良く見せようとする傾向がある。つまりそれだけ、彼は上官のことが好きなのだろう。だから、シャルワーヌを嫌う俺のことが許せないのだ。
眠っているシャルワーヌが身じろぎをした。
……寒くないかな?
熱帯の地方だが、腹には何か掛けた方がいい。
辺りを見回すと、淡い色のふわふわが見えた。カシミヤだ。アソムがひざ掛けに使っている……。
腕を伸ばすと、かろうじて縁に届いた。引き寄せてシャルワーヌの上にそっと掛ける。
……だってこれは、彼が買ったものだからな。彼が使うのは、正当なことだ。
カシミヤが心地いいのか、シャルワーヌは、気持ちよさそうに寝息を立てている。よく見ると目の下に隈ができている。どうやら寝不足だというのは本当らしい。
……寝不足。
ゆうべは眠っていないと言っていた。
……ハーレムに入り浸っていて?
考え、ぶるりと震えた。なんておぞましい。一晩中、奴隷に奉仕させるなんて。
オーディン・マークスに
ふと、このところ人の出入りが激しいことに思い至った。詳しいことはわからないが、どうやら上ザイードの西の港、ハラルで何かあったらしい。
ハラルは、タルキアの聖地へ巡礼する人々が利用する港で、上ザイードへの玄関口になっている。前に来たオットル族のキャラバンも、ここから上陸してきた。彼らが、何らかの情報を齎したことは間違いない。それが何なのかまではわからないのだが。
外のざわめきが、大きくなった。
「ハラルに外国艦隊が!?」
「アンゲル軍だ。アンゲル国のフリゲート艦が……」
「……ラルフ・リール
……ラルフ!
思わず立ち上がろうとした俺の手首を、大きな掌が掴んだ。
眠っていた筈の瞳が開いていた。見据えられ、胸がどくんと鳴った。濃い色の瞳が、つややかに俺を映している、
「君はここにいるんだ。いいか。一歩も外へ出るな」
その時彼は、自分の腹に掛けられているカシミヤに気がついた。
「これは、君が?」
なんだか嬉しそうに見える。わけもなく腹が立った。だから嘘を吐くことに抵抗はなかった。
「アソムが」
喜びの色は消え、複雑な表情が取って変わる
腹筋の力を使って、シャルワーヌはきれいに起き上がった。そのまま、振り返りもせず、部屋を出ていく。
……なぜ俺は、あれを使わなかった?
あとに残された皺くちゃのカシミヤを見ながら、俺は唇を噛んだ。
シャルワーヌは、眠っていたのに。
イサク・ベルから貰った短剣は、すぐ隣の部屋に隠してあったというのに。カシミヤなぞ、掛けている場合ではなかったのだ。
シャルワーヌを起こさずに行動するのは難しかったろう。それを差し引いても、深刻なのは、あれの存在が、頭の片隅を
……俺は、腑抜けになってしまったのか。
苦い後悔がこみ上げる。取り返しのつかないことをしてしまった。貴重な機会を、無為に失ってしまった……。
同時に、希望が湧くのを感じた。
ラルフ・リール。俺の海賊。
彼が上ザイードにやってきた……。
________________
港町ハラルや首都マワジなど、地図を載せておきました
https://kakuyomu.jp/users/serimomo/news/16817330666143167794
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます