効果的な罰
ムメール族は、砂漠の彼方に消えた。イサク・ベルの消息も、杳として知れない。
俺の手元には、ただ、彼のくれた短刀だけが残った。宝石をあしらった優美な鞘を払うと、その下には確実な死が仕込まれている。
シャルワーヌの死が。
これで彼を傷つけるのだと考えると、身内が震えた。
……?
おかしなことだと俺は思った。前世では、死は、常に身近にあった。特に亡命貴族として戦い始めてからは。俺自身、決して死の傍観者ではなかった。この手で殺した者も、数知れない。
それなのに、なぜ震えているのだろう。この剣には毒が塗ってある。シャルワーヌなど、恐れるに足りない。
何より重要なのは、シャルワーヌの隙を狙うことだ。だが俺は、彼のことを何も知らない。日常生活も習慣も、就寝スタイルも。イサクが言っていたように、まさか
時間が必要だった。
アソム辺りがうっかり触れてしまわぬように、短刀は、ベッドの下の床板を外して、そこに隠した。前世の俺は、エイクレ要塞を強化する為、工兵達を指揮して、一緒に作業をすることが多かった。だから床板の細工は、簡単にできた。これでも、手先は器用な方なのだ。
あれからほぼ毎日、シャルワーヌは俺の部屋へやってくる。タルキア語を習いに。
確かにそれは、罰だった。部屋の入口に彼の姿を認めるたびに、胸の動悸が激しく、息が苦しくなる。まるで、会いたくてたまらなかった人に、やっと会えた時のように。
どうやら、熱望する再会と、逃れたい再会は、相手に会った一瞬に同じ感情を引き起こすものらしい。
そうは思ってみたものの、何の解決にもならない。いったいどういう感情の誤作動かと、疑問に思う。第一、彼とは毎日会っている。そのたびごとにこんな風にどきどきしているのだから、全く身がもたない。
良く練られた効果的な罰だと思い知った。これは、シャルワーヌからの嫌がらせだ。
頼もしいアソムは、「授業」の間中、控えの間に籠っていた。これ見よがしにドアを半開きにして。
「あー、
諦めて本日の刑罰を受けるべく、俺は言った。
シャルワーヌは頷き、ノートを差し出した。
……律義にやってきたのか。
ユートパクスの将軍は暇なのか、と、俺は心の中で毒づいた。
問題は、シャルワーヌが恐ろしく語学が苦手だと判明したことだ。さっさと初歩の文法を一通り教えて、「卒業」させようと思っていた。それなのに彼は、未だにアルファべ(ット)から、一歩も先へ進んでいない。しかも書けないときている。毎日、一対一でレッスンを受けているにもかかわらず、だ。
この日の宿題も、お世辞にもうまくできているとは言い難かった。なんというか、判読不能だった。
「どうだ。うまく書けているだろう」
その自信はどこから来るのか、熱い目でじっと俺を見つめている。
狂ったように胸が乱打し始めた。
……まるで拷問だ。
「よ、読んでみてください」
素直に彼は、自分のノートを受け取り、目を落とす。
一字も読めなかった。
当たり前だ。どう優しく見ても、そこに書かれているのは象形文字だ。
「これは、猫、と書いてある」
ついにタルキア語で読むことを諦め、シャルワーヌは
「猫、とは?」
意地悪く俺は問う。
「ミャウミャウ鳴く奴らだよ。毛むくじゃらで、撫でようとすると逃げていく」
「は?」
猫の気持ちもわかると思った。こんな恐ろし気な将軍が迫ってきたら、そりゃ、逃げたくもなるだろう。
「困ったな。ウテナに猫はいないのか? ほら。こんな感じで、人にすり寄ってくる」
いきなり彼は、絨毯の上に四つん這いになった。気取った様子で(けれど四つん這いのまま!)前へと進んで、俺の足に、頭をこすりつけてきた。
固い髪質の黒い髪が、眼下に禍々しい。
「ちょ、将軍、何を!」
「みゃうみゃう」
総毛立つ思いだった。大の男が何をやってるんだ?
……かわいい。
えっ!?
「みゃうみゃう」
本来ならここで、蹴とばすべきだった。ところが自分の中に沸き起こった感情に呆然自失し、動きが取れなかった。
調子に乗った彼は、長い胴着の下から覗く素足に舌を這わせた。
乾燥した空気の中で、裸の足が濡れる感触。ぞわりとした、舌の動き。
……うわあ! 止めろ!
慌てて足を引っ込めようとした。それなのに、ぴくりとも動かない。いったいどうしたというのか。体が、まるでストライキを起こしたかのように、思い通りにならない。
不思議そうにシャルワーヌが俺の顔を見上げた。腰を落とし、本当に猫みたいな座り方をしている。
……かわいい。
いや、だから違うって!
再び脳裏に再生された理解できない感情に、途方に暮れた。俺は、狂ってしまったのか? その上、体はみじんも動かない。
しばらく、シャルワーヌと俺は見つめ合った。そんなことはしたくなかったのだけれど、体が動かないのだから仕方がない。
濃い色の瞳を見つめながら、これが金縛りというやつかと思い当った。顔も強張り、一切の表情が消えていたと思う。感情をうまく、表に出せていない。
不意にシャルワーヌの目が、ぴかりと光った……気がした。
「ぐるるるるるる」
低く唸ると、素足の脛の辺りに、がぶりと噛みついた。
「痛っ!」
さすがに、小さな悲鳴が漏れた。
自分の声で呪縛が解けたようだ。再び、体が自由に動くようになった。
ところが、引っ込めようとした足を、シャルワーヌは抱え込んでいた。あろうことか、すりすりと頬ずりしている。
「プリンス!」
控えの間から、アソムが飛び出してきた。
「これはなんとしたことか!」
「猫の真似だ。ジウ王子が猫を知らないというから」
大真面目でシャルワーヌが解説している。俺の足は抱えたままだ。彼の両腕から抜き取ろうと、力いっぱいひっぱったが、びくともしない。
「はあ? ウテナにも猫くらいいますが」
アソムの声は、激怒の一歩手前だ。
「え?」
「とにかく離れて下さい! プリンスのおみ足を放しなさい!」
「……」
未だに大切そうに抱きしめていた足から、シャルワーヌは頬を離す。ひどく名残惜し気だった。
「あ、ああ、あ。痕が……」
それほど強く噛まれたとは思っていなかった。だが脛には、シャルワーヌの歯の痕が、くっきりと残っていた。白く細い脛にそれはことさら赤く、はっきりと浮き出ていた。
「うん。それはわざとだ」
けろりとシャルワーヌが言い放つ。
アソムの顔色が変わった。
「わざと? ことと次第によっては、ただでは済まされませんぞ? これは外交問題にも発展する由々しき事態」
「だってこれは罰なのだ。彼が俺にタルキア学を教えるのは。そうだろう?」
不承不承にアソムが頷く。
「罰を受ける者には、烙印が必要だからな」
「……」
「……」
あまりの言い草に、思わず俺とアソムは顔を見合わせた。
「シャルワーヌ将軍! ……あれ? お取込み中でしたか?」
その時、副官のサリが顔を出した。
三者三様に固まっていた俺達を見て、怪訝そうな顔をする。
「いや、助かったぞ、サリ」
「お役に立てて何よりです!」
単純なサリは、大喜びだ。
「それで、何か用か?」
シャルワーヌが、一刻も早くこの部屋から、正確にはアソムから逃げ出そうとしているのがわかる。
「オットル族の族長が来ました」
「オットル族? 族長はもうお年だろう。わざわざ来たのか」
そわそわとシャルワーヌは立ち上がった。
「はい。通訳も呼びました」
「わかった。すぐ行く。すまんな、ジウ王子。砂漠を渡って、はるばるご老人が会いに来たのだ。タルキア語のアルファべは、また今度、教えてくれ」
いや、全然かまいません。むしろ授業が中断できて嬉しいです……。
だが俺は、渋面を作って見せた。シャルワーヌが恐ろしい将軍だということは、充分にわかっている。だが、足に噛み痕をつけるなんて、やりすぎだ。
「君も一緒に来るか?」
俺の渋面を何と思ったのか、珍しく、シャルワーヌが誘った。
「軍人以外の人との交流が大切だと、君の侍従にも言われた。な、アソム」
「その通りです。ですが……」
「来るがいい、ジウ王子。オットル族の族長は、きっと珍しい話を聞かせてくれる」
アソムを無視して、シャルワーヌが俺の手を掴んだ。
どきん。
甘い疼き。
いや違う。恐怖に心臓が止まりそうだ。
「貴方と二人きりというわけじゃないんですね!」
アソムが、ここだけは譲れないと立ちはだかる。
シャルワーヌは肩を竦めただけだった。俺の手を掴んだまま侍従の脇を潜り、さっさと歩き始める。
「二人きり? ありえませんって。族長には、広間に入りきれないくらい、お付きの人がいるんです。その全員をどうやって、もてなせばいいのか……」
背後で、サリが愚痴をこぼすのが聞こえた。
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