この部屋で首を吊らせてください
草村 悠真
この部屋で首を吊らせてください
深夜バイトを終えて気分的に重たくなった体に、早朝の澄んだ空気が心地よい。バイト先から自宅までは地下鉄で一駅なのだが、俺はあえて歩いて帰っている。どのみち電車で帰ろうとしても始発まで十分ほど待たないといけないので、歩いても電車でも家に着く時間はそう変わらない。
マンションのエレベーターは今日も遅い。最初はもどかしかったが、何年も住んでいると慣れた。今は逆に他のエレベーターに乗ると異様に早く感じるくらいだ。しかしもうすぐ引っ越すことを思えばそんなエレベーターにも、名残惜しさを感じないこともなかった。
女性が座っていた。俺の部屋の玄関前でしゃがみ込んで、膝に乗せた腕に顔を埋めるようにしていたが、俺が近づいた気配を感じてか、その顔を上げてこちらを見上げる。
「……俺に何か用ですか?」
女性が口を開くのを五秒ほど待ったが、期待が薄かったのでこちらから話しかけた。
「そうかもしれません」言いつつ女性は立ち上がった。「用があるのは、どちらかというと、あなたよりこの部屋です」
「この部屋って、俺の部屋?」自分の部屋の玄関を指差して俺は確認した。
「はい」何か決意を感じさせる面持ちで女性は頷き、俺との距離を詰める。足音で彼女がハイヒールを履いていることがわかった。だから目線は同じくらいの高さだった。「この部屋で首を吊らせてください」
「……えっ?」
聞き間違いだと思った。深夜バイトで疲れていたし。しかし彼女は——
「この部屋で首を吊らせてください」
と同じことを言った。
「それは、また……、どうして……」もちろんそんなことを了承するつもりはなかったけれど、純粋に彼女の動機に興味があって尋ねた。それに、首を吊ろうとしている女性をぞんざいに扱うのも危険だと感じた。
「あなたは、もうすぐこのマンションから出て行きますね?」
「ええ、まあ」
「次にこの部屋に引っ越してくる人は、すでに決まっているんです。私の元彼と……、その婚約者です」
首を吊らせて。元彼。婚約者。
このキーワードで何となく事情は察せられたけれど、俺は彼女の話の続きを黙って聞いていた。
「私は彼と結婚するつもりでしたが、彼は違ったようです。どういうつもりで私と付き合っていたのかは知りませんが、結果的に私は——、いえ、彼は違う女性を選びました……。六年の付き合いでした。お互いもういい歳ですし、六年も付き合っていれば、結婚するのは当然の未来かと思っていたんです。でも、そう思っていたのは私だけでした」
どう反応していいのか分からず、俺は適当なところで曖昧に頷きながら聞いていた。
「私はこの数年間、彼との結婚生活を想定して生きてきました。その将来が突然なくなったんです。だからもう、私に将来なんてないんです。望む未来なんてないんです。いえ、一つだけ望むものがあります。彼の結婚生活が幸せなものにならないことです。私と結婚しておけばよかったと、それが無理でもせめてこの女と結婚しなければよかったと、彼がそう思うような結婚生活になることです。嫉妬ですね。醜いですよね。わかってます。でも、それを望まずにはいられないんです。それを望むくらいしか、できないんです」
「えっと……、気持ちは、まあ……、分からないでもないですけど……」下手に刺激すると危険な気もして、迷いながらも同意を示した。「それで、俺の部屋で首を、その、吊りたいっていうのは」
「彼には生きたまま不幸になってほしい。婚約者を殺しても、彼が彼女を愛していたという気持ちは変わらない。だったら、私が死ぬしかないんです」
「いえ、別に誰かが死なないといけないわけじゃ——」
「もしも悪霊がいるのなら、今の私が死ねば絶対に悪霊になれると思うんです」女性は両手を胸元で重ねる。「彼が婚約者と暮らすこの部屋で、私は悪霊になって二人の結婚生活を不幸なものにするんです」
「いや、でも、この部屋で自殺なんてしたら引越し先を変えるんじゃ」
「だからあなたにお願いがあります。私が死んだら、死体を私の部屋に運んでください。そしてあなたが見つけたことにして警察に連絡してください。手書きの遺書は置いてきました。紐の痕も付けてきました。詳しくはこれを」
彼女はハンドバッグから三つ折りになった紙を出して俺に差し出す。受け取って広げてみると、彼女が首を吊って死んだ後に俺が行うべきことの手順が事細かく書かれている。ざっと目を通して、彼女がかなり綿密に計画してここまで来たことが理解できた。
「お願いします」
頭を下げる女性。どう返事していいのかわからず何も言えない俺。しかし俺が何か応えるまで彼女は頭を上げそうにない。
鍵が回る音。音の方を見ると、二部屋隣の玄関が開いて住人が出てきた。そしてこちらに気づくと、不思議そうに目を細めて、すぐに目を逸らした。
玄関前で棒立ちしている俺と、頭を下げている女性。側から見ておかしな状況だし、俺の人間性が誤解されかねない状況でもある。
「とりあえず……、入りますか?」俺はポケットから鍵を出す。
「ありがとうございます」嬉しそうな声。そして上げた顔にもその声と同じ感情が表れていた。
「いえ、別にまだ了承したわけじゃないんですけど」言いながら鍵を開けて部屋に入る。彼女もそれに続いた。
リビングまで進むと、彼女はハンドバッグを床に置いて、中から太いロープを取り出した。部屋を見回すと、背の高いタンスが倒れないように天井との間に設置している突っ張り棒に、その紐をかける。
「では、後はお願いします」そう言って、彼女は首にロープを回す。
「えっ、いや、ちょっと」彼女の肩を掴んで止める。「まだ吊っていいとは——」
「ではどうして私を部屋に入れたんですか」
「それは、だって、外で話すような内容じゃなかったですし、長い話になりそうだったから……」
「ここで死ぬまで私、帰りませんから。たとえ邪魔されても、あなたが仕事か何かで家を出たら、その隙に死にます」
警察に連絡しようかとも考えたが、彼女が何かしたわけではない。部屋に入れたのも俺自身だし、せいぜい注意されて終わるのが関の山だと思う。この場は乗り切れても、彼女は諦めそうにない。
「お願いします。死なせてください。解放させてください。私を——」涙声。「助けて」
俺は彼女の肩から手を離していた。
床から離れる足。
軋むタンス。
息の詰まった咳。
首にロープ。
首より上は、見れなかった。
彼女の手を取り、手首に手を添える。まだ脈はある。彼女は生きている。
まだ、生きているのだ。
彼女の胴体を掴もうと両手を広げる。
蹴り飛ばされた。
「やめ、て」掠れた声。
「でも……」そのまま俺は何も言葉を続けられず、何も見れず、目を閉じて顔を背けた。
「ありがとう」
声になっていない声が俺の耳に届いた。
この部屋で首を吊らせてください 草村 悠真 @yuma_kusamura
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