第3話自分の子供はもちろん、かわいいですわよね?
オリュンポス山の山頂を入口とした天界には、最高神ゼウス様の許しを得たものだけが住まうことが出来きます。その天界の一角、ゼウス様が住む神殿に、妻となったわたくしヘラも一緒に住むことになりました。
結婚式を挙げたあの日から早いもので、もう300年も経ってしまいましたわ。まぁ、神は不老不死なのでなんてことの無い月日なんですけれど。
コンコンというノック音と共に、いつも近くでわたくしの身の回りの世話をしてくれているイリスが、おやつの干しイチジクを持って部屋に入って来ました。
シデリティスと言うハーブが入った湯からは、フワフワと爽やかないい香りが漂ってきます。そこに蜂蜜をひと匙入れて混ぜると、イリスがカップを渡してきました。
ネクタルも美味しいけれど、たまにはこちらのハーブティーもいいものですわ。
「お腹もすっかり大きくなって、もうすぐと言う感じですね」
「ええ、我が子に会うのが楽しみだわ」
わたくしがさする大きなお腹の中にいるのは、もちろんゼウス様との子。
300年も経つのにやっと初めての子供かですって? だって結婚式の後に迎えた初夜から、ゼウス様ったら、300年もわたくしをベッドから離してくださらなかったんですもの。
テミス様の言葉に不安を覚えておりましたけれど、こんなにも愛されているのですから杞憂でしたわね。
初めての出産に不安を覚えない事も無いですけれど、なんと言っても不老不死の身ですから。人間みたいに出産で死ぬことなんてありませんわ。
今はただ、愛しい夫との子供が生まれてくることを待ちましょう。
*
「ヘラ様、お生まれになりましたよ! 男の子でございます」
響き渡る赤子の産声が聞こえてきたかと思うと、イリスが布で包んだ我が子を、わたくしの胸元へと連れてきてくれました。
「ああ、良かった。会いたかったわ」
早速我が子に乳を吸わせて母乳を飲ませてあげると、いつの間にかスヤスヤと眠ってしまいました。
「もう眠ってしまったわ。今のうちに身体を清めて産着を着せてあげましょう」
イリスに準備をして貰い身体を洗ってあげようと包んでいた布を取ると、思わず叫んでしまいそうになりました。
「なっ……!!なんですの、この足は?!」
とった布地から現れた赤ちゃんの身体に付いていたのは、ぐにゃりとひん曲がった両足。
奇形児です。
「足がもしかしたら不自由になるかもしれないですね。こればかりは仕方ありません」
「そんな……っ! わたくしとゼウス様との子供が……」
顔もよく見れば美男子とは言い難いですし、どうしたらあの美しい容姿を持つゼウス様と、美の女神アフロディテに勝るとも劣らない美しさと評されるわたくしとの間に、こんな子が生まれるのかしら……。
いえ……でも、お腹を痛めて産んだ我が子ですもの。可愛くない訳がありませんわ。ちゃんと育てて、いずれはオリュンポスを代表する立派な神に育つに違いありません。
そう。違いない……ですわよね……?
農耕の女神・デメテルにかまどの神・ヘスティア、目の前にいるイリス……オリュンポスに住まう神達の顔ぶれが次々と頭に浮かんできます。
その誰も彼もが非の打ち所がないような美男美女。アフロディテに至っては、きっとわたくしの産んだこの子を見て「なんて醜いのかしら」とバカにするに違いありません。
「ゼウス様がこの子をご覧になったら、なんておっしゃるかしら……」
考えただけでゾッとします。
前妻のテミス様とは季節の三女神ホラ達や、運命の三女神モイラ達と言った、美しく優秀な神がお生まれになったのに。
もしかしたら「なんて子を産んでくれたんだ」と罵倒され、醜い子しか産めない妻など要らないとわたくしは捨てられてしまうかも知れません。
「そんなに心配することはございませんよ。さあ早く産着を着せて、ゼウス様にお見せしに行きましょう」
「……ダメよ」
「え?」
「ダメよ。ゼウス様は完全無欠の御方。そんな御方の子が醜い奇形児だなんて、きっとみんなに笑われてしまいますわ」
「えっ?! あっ、ヘラ様っ?!!」
赤ちゃんを抱いて窓から外へと出ると、そのまま下界が見える天界の縁までやって来ました。
下を覗き込むと月明かりに照らされた黒い海が広がっております。
「ごめんね……」
「ヘラ様!!!?」
自分でも酷いことをしているというのは承知の事。
胸に抱いていた赤ちゃんを海に向かって落としました。
「わたくしに子は生まれなかった。分かりましたね?」
口を開けたまま絶句しているイリスに念を押すと、何事も無かったかの様を装い部屋へと戻りました。
*
数日後、わたくしの元へゼウス様が様子を見にいらっしゃいました。
ドアを開けて入ってきた瞬間に、ゼウス様の眉間にはシワが寄ります。
「ねえヘラ、もしかして子供が生まれたのかい? 」
「いいえ、生まれておません」
心臓がドッドッと早鐘を打つ音が聞こえてきます。嘘がバレないように、あえてゼウス様の金色の瞳を見つめ返しました。
「それならどうして君のお腹はこんなに凹んでしまったのかな? ここには僕と君の子供がいたはずだけど」
「申し訳ありません。あれはどうやら偽妊娠だったようでございます」
「偽妊娠?」
「はい。ゼウス様との子を待ち焦がれるあまり、身体が勘違いをしてお腹が膨らんでしまったようです。わたくしが妊娠していないと言う事実を受け止めたら、元通りの身体にもどったのです」
あれは偽妊娠……あれは偽妊娠……
ゼウス様は凹んで平になったお腹を、考え込むようにじっと見つめた後、さらにわたくしの瞳を見つめてきました。こちらも負けじと見つめ返します。
ダラダラと背中には冷たい汗が流れ、吐き気がするほど息苦しくなってきました。
あれは偽妊娠……あれは偽妊娠……
ひとしきり見つめ合っていると、だんだん涙が滲み出てきそうになります。やっぱりいっその事、本当の事を言ってしまおうかしら……。
気持ちが揺らいで来たところで、ゼウス様がニコリと微笑まれました。
「そうか。ヘラ、そんなに気に病むことは無いよ。そのうちまた子どもは出来るさ」
「……は、はい。お気遣いありがとうございます」
「随分と汗をかいているようだし、外の空気でも吸ってきたらどうだい? 気分転換に森を散歩でもしてくるといいよ」
「ええ、そうさせていただきます」
「イリス、ヘラの事を頼んだよ」
「かしこまりました」
部屋から出ていくゼウス様を見送ると、くたっと椅子に座り込んでしまいます。
なんとか難局を切り抜けたようですわ。
神は不老不死。当然あの子も不老不死の身ですから、海を漂っているうちに何処かの岸辺にたどり着いて、誰かに拾って育てて貰えると良いのだけれど。
それともサメにでも襲われて食べられてしまうかしら……
もう考えるのは止めておきましょう。
あの夜は何も無かった。永遠にその嘘をつき続けなければならないのですから。
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