何准 謎の外戚一門
兄の
「
何准は五男であったため、そう自称したのだ。兄は宰相として朝廷で大きな権威を握っていたが、何准はただただ隠者としてすごし、他人の問題に首を突っ込むこともなかった。ただ
子は三人。
何放は男児なくして死亡した何充の爵位を継承した。
何惔は年若くして
何澄、字は
395 年ころ、
安帝が帝位に復帰したところで
長子の
何准,字幼道,穆章皇后父也。高尚寡欲,弱冠知名,州府交辟,並不就。兄充為驃騎將軍,勸其令仕,准曰:「第五之名何滅驃騎?」准兄弟中第五,故有此言。充居宰輔之重,權傾一時,而准散帶衡門,不及人事,唯誦佛經,修營塔廟而已。徵拜散騎郎,不起。年四十七卒。昇平元年,追贈金紫光祿大夫,封晉興縣侯。子惔以父素行高潔,表讓不受。三子:放、惔、澄。放繼充。
惔官至南康太守,早卒。惔子元度,西陽太守;次叔度,太常卿、尚書。
澄字季玄,起家祕書郎,轉丞,清正有器望,累遷祕書監、太常、中護軍。孝武帝深愛之,以為冠軍將軍、吳國內史。太元末,琅邪王出居外第,妙選師傅,徵拜尚書,領琅邪王師。安帝即位,遷尚書左僕射,典選、王師如故。時澄腳疾,固讓,特聽不朝,坐家視事。又領本州大中正。及桓玄執政,以疾奏免,卒于家。安帝反正,追贈金紫光祿大夫。長子籍,早卒。次子融,元熙中,為大司農。
(晋書93-1)
恐い家門の人たち。なんでこんな何充以降目立った事績もないのに
と言うか桓玄まわりの動きを見ると、これ間違いなく劉裕のクーデターにかなり深いところで参与してますね。さすがにこの動きはあからさますぎなのでは?
第五之名何滅驃騎?
世説新語だと「予第五之名,何必減驃騎?」になってる。これ違和感持ってたんだけど、なるほど。何准みたいな人がそんなうかつに自負心とかむき出しに示しますかね? みたいのを感じてたんですが、「なんで宮仕えみたいなクソムーブ強要されなアカンのや!」ならピンときます。まあけどどっちが間違ってるかは断定できないよなー。せんそとかに載ってるんでしょうかね。
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