50.佳乃亜

※佳乃亜編、完結です。一部、自傷行為の描写があります。

 具体的には、この先の「※」以下の6行ほどです。



「あたしが小さいときから、幸ねぇは一緒だった。そのときは、幸ねぇはまだ普通の会社員だったし、なんとなくうちは変だなって思ってたけど、幸ねぇが父ちゃんなんだろうな。なら、いっかって思って。けど、中学んときに、親戚だっていうおばさんがいきなり来てさ。大変だったわね、元気でよかったって」


「皮肉だよな」と、佳乃亜は初めて、嘲るように笑った。


「そっから、元気どころか大騒動だよ。おばさんは中途半端に、あたしが殺されかけたことだけは訊いてもないのにべらべら話して、知らないって言ったら、途端にこそこそ帰っちまうし、幸ねぇはいくら訊いても答えてくれねぇし。こいつら全員、裏切り者だって思ったよ」


 言葉をはさめなかった。膝の上とりんの頭に置いた手が小刻みに震えているのは、少しずつ深まっていく寒さのせいだと、いっそそう思えればよかった。

 佳乃亜の話は、続いた。それは半分わたしに、そして、半分どこか遠くに話しかけるような、かたちのない口調だった。


「あたし、その頃まではけっこう優等生だったんだよね。別に、いい子ぶってたわけじゃなくて、フツーに生きてただけなんだけど。んで、たまにテストとかでいい点取ったら、安いとこだけど幸ねぇが焼肉連れてってくれたりしてたし、取れなくても、サボってなければいいみたいな感じだったし。だからあたしも、これでいいやってさ、そんな感じで、まぁ、ヘーワに暮らしてたんだよ」


 風が、数枚の木の葉を散らした。その中の一枚がわたしのスニーカーの側面に寄りかかりった。もう一枚は、コートからのぞくりんの上に。

 りんの上の葉を払おうとしたとき、佳乃亜がわたしに尋ねた。


「で、どうなったと思う?」


「どうって?」


「あたしが。どっちに転がったと思う?」


 正直、質問の意味が分からなかった。傷ついたのか、それとも傷つけたのか。そういうことだろうか。そう問い返そうとして、ふと違和感を覚えた。まるで、ざらつくような、けれど一瞬の感触。言葉にはできないけれど、佳乃亜が発したその問いかけには、直前に過去の「皮肉」を嘲笑ったような響きと、同じような気配がした。

 佳乃亜は、わたしじゃなくて、どこかの正面を見ている。けれど今、わたしは見られている。そう感じた。


 答えを探す前に、わたしは迷っていた。どう答えても、これから、とんでもなく重たい、わたしじゃ抱えきれない話が始まる。わたしは、それを受け止められるのか?  

 何を言ってあげられるのか? 何か言えたとして、それは、佳乃亜のためなのか、自分のためなのか。自分の安心のために、漠然と話す自分の姿が、脳裏によぎった。

 先を続けられないでいるわたしを、佳乃亜はしばらくじっと見ていた。


「わりぃ。つまんねぇ話しちまったな。あたし、帰るわ」


 佳乃亜は、笑って言った。でもそれは、口の端だけでの笑み。回路が途切れた時の音を、わたしはそのとき聞いた。


「佳乃亜っ!」


 やみくもに出した手は、立ち上がりかけた佳乃亜の袖を掴んだ。

 それと、同時だった。


「離せよ」


 聞いたことのない、重い声だった。目を上げると、瞬き一つしない冷たい佳乃亜の双眸そうぼうが、わたしを見下ろしていた。

 とっさに感じたのは、恐怖だった。いじめを受けていたときと、まったく異質の、底なしの沼をのぞいたような。

 言われた通り、この手を離したほうが楽で、それが正解なのかもしれない。分かっている。分かってる。


 頭の中を、一気にいろいろなことが駆け巡った。楽しかった中学時代のこととか、行けなくなった高校のこととか、救急車の天井とか、胃洗浄の苦しさとか、そのあとのいろんな怖さとか。怖かった。わたしはずっと、ずっと怖かった。


 わたしは誰かに、いてほしかった。ただ、それだけでよかった。

 誰でもない、誰かに。名前も顔も分からない、わたしに向かって手を伸ばす、誰かに。


「お前さぁ」


 記憶の海に溺れそうになっていると、上から佳乃亜の声が降ってきた。


「あたしが泣かしてんみたいじゃんか。そろそろ、ウザいんだけど?」


 佳乃亜の目の色は、変わっていない。冷たい、どこまでも冷たい黒色。けれどわたしは、滲んだ視界をぬぐって、その黒を強く見据えた。


「・・・・・・んな」


「あ?」


「勝手に消えんなって言ってんだよ、バカっ!!」


 第一声が、これだった。自分の口から出た、今まで一度も言ったことも使ったこともない言葉に驚いて、思わず口元を抑え、下を向いた。子どもでもないのに、なんて感情的な言葉なんだろう。


 ああ、違う。わたしはまだ、あの頃と同じだ。助けてほしかった、あの頃と。

 だから、佳乃亜を分かりたいと願うこの気持ちも、そういうわたしの独り善がりなのかもしれない。佳乃亜を通して、過去の自分を掬いあげたいだけなのかもしれない。


 けれど、嫌だった。絶対に、嫌だった。ここで佳乃亜と離れるのが、また会っても今までの佳乃亜とは会えなくなる、それは確信だった。だからわたしは、考える前に言った。そして、一度口にしたからには、もう戻れない。

 それでも。今はそれでも、ここにいてほしかった。


 足元がくすぐったくて目をやると、起きだしたりんがかがみこんでおしっこをしていた。こんなときにと絶望に近いものが襲ってきたのと、佳乃亜の笑い声は同時だった。


「おもしれー! マジでおもしれーよ!」


 それはわたしのことか、りんのことか。分からないけど、とにかくそんな言いぐさはないだろうと佳乃亜の顔を見て驚いた。

 いつもの佳乃亜が、笑っていた。


「あれ、ほとんどのやつが黙るんだけどなー。しかも、あのあたしに逆ギレしてくる女なんて、初めてだわ。あ、幸ねぇはギリ、ノーカウントな」


 掴んだ袖から、へなへなと力が抜けた。佳乃亜は何事もなかったかのように、元通りの場所に、すとんと腰を下ろした。えっと・・・・・・どういうこと?

 演技じゃないのは分かるけど、本気じゃなかったってこと? え?え?

 とりあえず、文句の一つでも言おうと口に仕掛けたら、先に佳乃亜が言った。


「ありがと。最高だよ、あんた」



「リスカは見つかりたくなくてさー、見えないところばっかり切ってた。切ってる間だけはさ、なんかいろいろ、忘れられたから。母親のこととか、行ってない学校のこととか」


 肩を抱き込んで、佳乃亜は言った。肌寒いのか、それとも。


「だけど一回、どうしようもなくなんか一気にダメになっちゃって、思いっきり手首やっちゃったの。噴水みたいに血が出てさ。あ、死んだなって思った」


 そう言って、佳乃亜は左手を掲げた。手首には、いつもの真っ黒いリストバンドが巻かれていた。自然と、わたしは口を開いていた。


「ぴえたさんは?」


「幸ねぇは、怒ったり泣いたり、忙しかったかな。自分でも何してるかわかってない、って感じだった。まあ、あたしもなんだけど。そんなんだから、二人でいるしかないのに、二人でいるときまで地獄でさ。お互い、監視し合ってるみたいでさ。で、限界来たから、二人揃って精神科行き。けどさ、薬全然効かなかった。少なくとも、あたしにはね」


 心理学の本で、読んだことがある。病気には、身体の内側から起こるタイプの精神病と、外からの、明確な理由があって心と身体が追い込まれてなる精神病がある。後者の場合、その理由や原因から遠ざかったり、変化がないと、精神科の薬だけでは治療が困難なことがあると。

 そんなわたしの考えを読んだように、佳乃亜は言った。


「琴なら分かってるかもだけど、じゃあ、佳乃亜さんはカウンセリングも、ってなってさ。臨床心理士だっていうおばさんを紹介されたわけ」


 わたしとぴえたさんの前で「あいつら」という言葉を吐き捨てていた、佳乃亜の姿が蘇る。


「何か、あったんだ?」


 そう訊くことに、恐れはなかった。佳乃亜は少し黙ってから、「あった」と、ぽつりと言った。


「あたしも幸ねぇに心配かけたくなかったから、嫌だったけど聞かれたことには答えてた。全部、うんうんって、聞いてるわけ。あなたは悪くない、悪くないですよって」


「うん」


「そうやって何回か話して、リラックスする練習とか、感情を調節する練習とかをしましょうって話になってさ。いろいろやった。なんか、吸ったり吐いたりするのとか、紙にいろいろ書くのとか、感じたことを書くのとか」


「うん」


「別に、何でもよかった。あたしがそこに通って言うこと聞いて、幸ねぇがそれで安心してれば。そのうち推しみたいなのも見つかって、最低な奴だって分かったけど、今みたいなカッコも知って。少し元気になれた。でもさ、思った。あたしってもしかして、本当は悪い存在なんじゃないかって。母親はあたしを殺したがるし、生きてると幸ねぇの迷惑になるし。被害妄想っぽいのは、分かるよ。分かるけど、あたしにはそれが現実で、現実だったんだよ」


 わたしは何も、言わなかった。


「言ったんだよ、それ。何回も、心理士に。でもそのたんびに、あなたは悪くないですよ、悪くないですよって。そうかもしれないけど、あたしにとっては違うくて。ふと見えちゃったんだよ。あいつの目、ぜんぜん笑ってなかった。何でそんなことも分からないんだって、だんだんうんざりしてんの。最後に言われたのがさ、『それはあなたの課題ですね』って」


 何も、言えなかった。気がつけば、路地には街灯が点り始めていた。


「あたしが、おかしいのかなぁ・・・・・・」

 

 その光に混じってそう呟いた佳乃亜の声は、今までで一番小さかった。


「琴」


「ん?」


「琴は、どっち?」


 まるで、子どもみたいだった。こんなに不安そうな佳乃亜を、わたしは初めて見た。いろんな理屈が、瞬時に浮かんだ。けれど答えは、一択だった。


「佳乃亜は、悪くないよ。でもね」


 わたしは佳乃亜の目を見て、言った。


「佳乃亜を追い詰めたやつを、わたしは一人残らず許さない。被害妄想なんかじゃない。課題でもない。それは佳乃亜の、心の傷だよ」


 佳乃亜は何も言わず、わたしも何も言わなかった。別れは、感動的でもなんでもなく、しびれをきらしたりんの催促によるもので、意外にあっさりわたしたちは別れた。そしてその日から合格発表の日まで、わたしたちは会うことはなかった。


 そうして、受験の日はあっという間にやってきた。わたしは受験の席につきながら、あの日、最後の佳乃亜の言葉を思い出していた。


「応援してるよ、琴」






 
















 













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