〈4〉 ③

 乱れた息を整えながら、ふたりは並んで歩きます。踵を踏み潰しているさなえのローファーが、パコパコとやる気のない音を立てていました。つないだままの掌が燃えるような熱を包んでいます。

 眩い夕日が真正面から差しています。歩はそっと来た道を振り返ります。長く黒く、影が伸びていました。ひとりではありません。さなえと歩のふたり分の影が、つながっています。

「で?」とさなえの促しに、歩は顔を戻します。「なにに期待してたんだよ」

 一瞬、なにを問われたのか理解できませんでした。一度流れていった話題を再び口にすることは、しつこい行為として嫌われたり怒られたりするものです。

 それなのに、さなえは当たり前のように「言ってみ」と顎をしゃくります。

「あのね……」

「おう」

「……今日、お母さんが夜勤の日なんだけど」

「仕事、なに?」

「先生。高校の」

「げ」とさなえは露骨に顔をしかめます。

「先生、嫌いなの?」

「好きな奴なんているか?」

 小学校の前で、紅白カラーのバイクと一緒に先生たちに囲まれていたさなえを思い出します。

「さなえちゃんは凄いよね」

「なにが?」

「先生にも怒鳴り返してた」

「いい子ぶったって仕方ないだろ?」

「いい子ぶる……」

「それよりおまえ、他の奴らの前で親の仕事がセン公だとか言うなよ」

 え、と歩は思わず足を止めます。さなえとつないだままの手が引っ張られました。一歩遅れて立ち止まったさなえが胡乱な顔で振り返ります。

「いや、言ってもいいけど、イジメられるだけだぞ」

「……お母さんが先生なのは、ダメなことなの?」

「ダメっていうか……」

 どちらからともなく、歩みを再開します。ずざ、ずざ、とさなえのローファーが沈んだ音を立てます。

 歩は父だけでなく、母の仕事も人に告げてはいけない類いのものなのだろうか、と不安を抱きます。福留からは、父の職業は恨みを買うから人に教えてはいけないと言われました。ならば母も、人に恨まれたり疎まれたりしながら働いているのでしょうか。

「アンタのために」とことあるごとに口にする母の険しい顔が脳裏を過ぎります。歩を育てるために、人に言えない仕事に就いているのだとしたら、母の歩への苛立ちも当然のように思えました。

「セン公ってのはさ」

 さなえのバツが悪そうな声が歩を思考から引き上げます。

「いろいろ口うるさいだろ? 煙草吸うなとか、酒飲むなとか、無免でバイク乗るなとか。そぉゆぅのがうっとぉしいんだよ。あたしらはさ、大人が望むようないい子にはなってやらねぇぞっていう気概があるから、どぉしても対立すんの。だから別におまえが悪いわけでも、おまえのオカンが悪いわけでもないんだよ。ただ黙っておいたほうがオー……オオビン? に済むこともあるんだよ」

「穏便?」

「そう、それそれ。黙ってたほうが穏便に済むことが多いんだ」

 わかるか? とさなえは膨れた夕日に問います。

 よくわかりませんでしたが、歩は「うん」と肯きます。さなえも「うん」と頷きました。

「で?」

「え? なんだっけ?」

「おまえの母親がセン公ってのはわかったよ。で? 夜勤がどうした」

「ああ、うん」

 歩は少なからず驚きました。さなえが最初の話題に戻ってくれたことに、戸惑いすら覚えます。

 一度他の話題に移ったならば、もう最初の話は忘れるべきなのだと、歩は学習していました。母は、一度流したり誤魔化したりした話を歩が蒸し返すと不機嫌になります。物わかりの悪い子だと歩を詰ります。

 けれどさなえは、きちんと歩の話を最初から最後まで聴こうとしてくれるのです。

 嬉しくなって頬が緩みました。それを悟られないように口元に力を入れて、俯きます。

「あのね、お母さんが夜勤の間は、お母さんの仕事場で仕事が終るのを待つの」

「仕事場って、学校ガッコだろ?」

「空いてる教室で、待つの」

「……どこ高?」

「川の向こうの」歩は真っ直ぐに大通りの先を指します。「夜間部のある高校」

 ああ、とさなえは呻きました。そして舌打ちをします。なにか気に障る情報だったのだろうか、と歩は体が強張るのを感じます。

 素早く、さなえは歩を振り返りました。まるで歩の怯えを感じ取ったかのようです。宥めるように、さなえは強く弱く歩とつないだ手に力を入れます。

「まあ、いいや」

「さなえちゃんは、中学生だよね?」

「おう、十五だ。おまえは?」

「七歳。三年生」

「小三で高校に出入りさせられんのって、気まずくないか?」

「裏から入って、昼の人が下校して、夜の人の授業が始まるまでは用務員室にいるから」

「おまえ、高コーセー、苦手?」

「苦手……じゃ、ないと思うけど……」

 手不得手を判断できるほど高校生と──母の教え子たちとの交流はありません。あるとすれば、母の同僚である教師たちでした。

 高校に入り込んだ小学生異物に奇異の眼差しを向ける男性教師、視界に入るだけでも仕事の邪魔になると疎む女性教師、歩と母を声高に非難し説教する年配教師。

「……やっぱり、わたしも先生、きらい」

 はは、とさなえは笑いました。「だよな」と同意を示して、歩調を緩めます。

「ガッコなんて、好き好んで行く奴いないよな」

「うん。でも、わたしはお母さんが夜勤のときだけじゃなくて、毎日、お母さんの学校に行くの」

「なんで?」

「わたしがまだ、三年生だから」

「うん?」

「まだ、ひとりでお留守番しちゃいけないんだって。だから、学校が終るとお母さんの学校に行って、お母さんの仕事が終ってから一緒に帰るの」

「なんだそれ。めんどくせぇなぁ」

 うん、と肯いた歩の頭を、さなえがかき乱しました。血豆のできた硬い掌が頭皮をごしごしとこすります。

 手荒いなで方でした。その遠慮のなさに、不意に父と福留を思い出します。男友達のように、本当の親子のように戯れていたふたりに、歩は自分たちを重ねます。

 さなえと友達に、父と福留のように親しい関係に、なれるだろうかと夢を見ます。

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