〈4〉 ②
それから何日も、彼女は現れませんでした。
先生たちはあの直情的な女の子とうるさいバイクを警戒していたようです。登下校のときはずっと誰かが校門に立っていました。
まるで自分が見張られているような気分で、俯いて門をくぐる日が続きました。
そしてまた、母が夜まで仕事をする日になりました。父との約束はなく、母の仕事場でひとりで待つことが決まっていました。
とぼとぼと校門を出て数歩進んだとき、ガードレールに凭れて立つ女の子に気がつきました。小学校から徒歩五分ほどの所にある中学校の制服を身につけています。歩が知るどの中学生より長く、紺色のプリーツスカートが足首までを覆い隠していました。セーラー服の袖は肩までめくられていて、脇には薄っぺらい学生鞄が挟まれています。
「よう」中学生が、不機嫌そうに鼻を鳴らしました。「おまえがあたしを無視するから、わざわざ
あの女の子でした。思わず車道を確認します。赤と白のバイクも紫色のコートも見当たりません。もちろん父の車だってありませんでした。
「……ひとり、なの?」
彼女はガードレールから体を離すと、淡く両腕を広げました。他に誰か見えるか? という仕草です。
「バイクは?」
「乗りたかったか?」
そういう意味ではありませんでしたが、歩は少し考えてから肯きました。
「じゃあ、今度乗っけてやるよ」
掠れた声で笑うと、彼女はゆっくりと歩き始めます。歩も続きます。
「どうしてここがわかったの?」
「いいことを教えてやるよ」彼女は顔だけで振り返り、皮肉に唇を歪めました。「口の軽い男ってのは大抵、頭も軽い」
頭の出来はわかりませんでしたが、彼女と歩との間で通じる「男」は歩の父と福留のふたりきりです。
「……お父さんが、わたしを迎えに行けって言ったの?」
彼女が急停止しました。危うく彼女の背に突っ込みそうになって、歩は両手を胸の前で突っ張ります。剣呑な彼女の顔が正面にありました。
「冗談でも、社長の悪口は、言うな」
強い語気でした。それなのにどこか、気弱な響きが感じられます。彼女は父に、恐怖心を抱いているのかもしれません。たぶん歩が母や父に抱く、見捨てられたらどうしよう、という怖さと同じものでしょう。
歩は素直に「ごめん、なさい」と謝ります。
消去法で、彼女に歩の学校を教えたのは福留だということになります。つまりそれは、やっぱり今夜は母の仕事が終るまでひとりで過ごさなければならない、ということでした。
歩は落胆している自分に気づきます。最初から父との約束はありませんでした。母の高校の空き教室で母を待たなければならないことはわかっていたのです。それなのに、彼女が来てくれたことで一瞬でも希望を抱いてしまったのです。
「期待したわたしが悪い」歩は自分に言い聞かせます。「勝手に期待して勝手に失望するのは失礼。わたしが悪い」
「なにを期待したんだ?」
「お父さんが……」
迎えに来てくれること、と言いかけて、やめます。
父の迎えを期待したわけではないのです。父が来てくれることによって、ひとりで、あの薄暗い高校の空き教室で、長すぎる夜を過ごさなくても済むことを、期待したのです。歩はそれを理論的に説明できる気がしませんでした。とりとめなく長い話になってしまうことがわかりました。誰かの時間を無為に奪うことは赦されないことです。そう母に教えられていました。
だから歩は口を噤みます。
「ううん。なんでもない」
「言えよ。あたしにナンか期待したんだろ?」
歩は彼女を追い抜いて歩きながら、どうしてこの人はここにいるのだろう、と考えます。当たり前の顔で、彼女は歩の隣に並びました。ランドセルを背負って帰路につく小学生の群の中にあって、歩と彼女はさながら姉妹のようでした。
「あなたは……」
「野分さなえ」
「……野秋さんは」
「の、わ、き。野原を分ける。台風って意味だよ」
バイクの傍らで先生たちに怒鳴り散らしていた彼女を思い出します。怯むことなく大人とやり合う激しさに、思わず息が漏れました。
「なんだよ」
「似合っているから」
「なにが?」
「台風」
「どこがだよ」ケッと唾棄した彼女は「さなえ」と照れたようにそっぽを向きます。「名字じゃなくて、名前で呼べ。みんな、そう呼ぶから」
「みんな……」
彼女には名前で呼び合う友達が「みんな」と呼べるほど居るのです。そんな普通のことに、なぜか突き放された気分になります。周囲を流れていくランドセルは、どれもこれも楽しそうに揺れています。歩だけが、異物として取り残されています。
数歩先にあったさなえの背中が止まりました。体ごと振り返り、重たそうに薄っぺらい学生鞄を抱え直してから、手を差し出してきます。
「ほら、呼んでみろよ。さ、な、え」
歩はぼんやりと彼女の掌を見詰めます。血豆のある硬そうな掌でした。
「早く」
歩が逡巡する間も、彼女の掌は歩に伸ばされたままです。
初めてのことでした。母ですら、これほど待たせれば苛立ちもあらわに立ち去るでしょう。それなのに彼女はまだ、待っています。歩が手をとるのを、彼女の名前を呼ぶのを、待ってくれているのです。
「……さなえ、ちゃん」
「ちゃんって」はは、と彼女が笑いました。「そぉゆぅのは女の子相手につけてやれよ」
「さなえちゃんは男の子なの?」
「どこに目ぇつけてんだ、タコ」
女だよ、と彼女は伸ばしていた手で歩の頭を軽く叩いてから、強引に歩の手を握りました。熱い掌同士が重なります。
さなえは歩を引きずるようにどんどん歩きます。赤と黒のランドセルをいくつも追い抜いて、いつの間にか走り出しています。
すぐに息が上がりました。喉が渇いて痛みます。
ふたりともが、馬鹿みたいに笑っていました。通行人にぶち当たることも構わず駆け抜けます。バサバサと乱れるさなえのスカートから、黒いストッキングに包まれた脚が見え隠れしています。それに少しだけドキリとしました。
「あたしは歩って呼ぶからな」さなえが叫びます。「おまえ年下なんだから、当たり前だろ」
「うん」と歩も叫び返します。
彼女を「さなえ」と呼ぶ「みんな」の中に入れてもらえたのだとわかりました。たぶん、友達と呼ばれる関係を許された瞬間でした。
歩は汗でぬめる掌を意識します。さなえとつないだ手の熱さを忘れないように、強くつよく握りしめます。
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