〈3〉

〈3〉 ①

 クリーム色のジャケットを羽織った福留に連れられて入ったラーメン屋は、お世辞にもきれいとは言えない店でした。

「こういう見てくれのほうが受けるんですよ」と福留は脂でベトベトするカウンター席に歩を案内しました。

 父とはいつもテーブル席でした。勧められるままチャーシュー麺を頼みます。カウンターの汚れ具合に似合いの、脂っぽくてしょっぱい食事でした。喉が異様に渇いて何杯もお冷やを飲み干します。

 福留は流し込むようにして食べ終えると、すぐに煙草をふかしながら店の隅に積まれていた雑誌を読み始めました。歩に話しかけてくることはありません。食事の邪魔をしないようにしているのか、歩に興味がないのかは判然としません。

 お冷やで味を薄めながらなんとか食べ終えたところで、福留がようやく口を開きます。

「美味かったですか?」

「……うん」

「いや、不味かったでしょ。いいんですよ、正直に言って」

 ヒヤリとして歩はカウンターを睨みます。大人の望む答えを言ったにもかかわらず、指摘されたのは初めてでした。

 瞬間的に歩は叱られることを覚悟します。母は、歩が嘘をつくことをなによりも嫌うのです。

 けれど、福留は苦笑しながら席を立ちました。

「出ましょうか。社長の系列店なんで、タダなんですよ」

 彼は歩の肩を抱いて、店の外に押し出します。支払いをする気はないようです。店主も店員も咎めません。そういえば、店に入ってから出るまで「いらっしゃいませ」も「ありがとうございました」も聞いていません。

 歩と福留は、幽霊のようでした。

「美味しくない店だって、知ってたの?」

「みんな、社長だって知ってますよ」

「……潰れないの?」

「ラーメンを食べさせるための店じゃないんで、大丈夫ですよ」

 ラーメンのためではないラーメン屋がどう大丈夫なのか、歩には想像もできません。

 駐車場に戻ると歩はいつも通り白いセドリックの助手席に座ります。運転席に着いた福留が、不意に真顔になりました。エンジンをかけるでもなく、鍵を差し込んだ姿勢のまま「歩さんは」とフロントガラスに映り込んだ歩を見詰めます。

 福留に名前を呼ばれたのは初めてでした。歩に「呼び捨てでいい」と言ったにもかかわらず、彼自身が歩を「さん」づけで呼んだことに激しい違和感を覚えます。

「歩さんは、お父さんの跡を継がれるんですか?」

「え?」歩も、フロントガラスの奥にぼんやりと浮かぶ福留の虚像を見返します。

「平田社長に、会社を継いで親になれと、言われたことがあるんですか?」

 親になれ、とは結婚して子供を産めということだろうか、歩は首を傾げます。

 父が会社の社長であることは今日、知ったばかりです。学校の女の子たちが結婚について話しているのを遠巻きに見ていたことはありますが、歩自身がその話題に入ったことはありません。そもそも歩には、将来を語り合えるような友達がいないのです。

「……ない、よ?」

 会社の話も結婚の話もされたことがない、と伝えた途端に、福留の頬が緩みました。同時にセドリックのエンジンがかかります。

「なんだ」と福留は独りごちました。

 なにが「なんだ」なのかの説明もなく、セドリックが動き出しました。父とは違って、首を引っ張られるようなショックが伴う発進です。

 歩は助手席のシートに深く凭れながら福留の、フロントガラスの映り込みではなく実在するほうの横顔を仰ぎます。

 先ほどとは打って変わって、楽しそうでした。

 みんなワシの車を運転したがるねん、と自慢した父を思い出します。

 大人たちを差し置いて、まだ免許も取得れない年齢の福留が父の車を預かっているのです。

 福留は灰皿に突き刺さっている煙草の中からひしゃげた一本を取りだします。シガーライターを押し込んでから、彼はハンドルの上でひしゃげた煙草を引っ張って整えます。熱せられたシガーラーターが、ぽこっと頭を出しました。福留は、父と同じ仕草で咥え煙草に火を灯します。

 福留のほうがよほど跡継ぎのようだ、と歩はふてくされた気分で窓の外に顔を向けます。町並みの隙間に、母が働く高校の建物が見えた気がしました。

 母親になった自分を想像しようとして、止めました。母の機嫌を窺う自分の、おどおどとした挙動が浮かんだからです。

 かわりに社長になった自分を想像してみました。自分で車を運転して、たくさんの大人が働く建物に堂々と入り、大きな声で挨拶をされる自分を妄想します。

 不意に、体を丸めるようにしてテレビを視ていた女の子の、薄暗い顔が思い出されました。

 もし自分が社長だったら、あの子をどうしただろうと考えます。

 自分の母親が裸になっているテレビを視ていたあの子を、どうにかしたい気持ちが湧き上がります。それなのに、どうしてあげればいいのか、なにも思いつきません。

 社長になればわかるだろうか、親になればわかるのだろうか。そんなことを考えている間に、頭の中にあった女の子の顔がグズグズとあやふやになっていきます。枯れ草色の茶色い髪が黒くなり、一層幼さを増し、歩の顔へと変わっていきます。

 大人たちの中にぽつんと取り残されている女の子は、歩でした。母の仕事が終るのを夜の空き教室で待つ、所在なさげな歩がそこにいました。

 歩は舌打ちをします。そして慌てて口を両手で押さえました。行儀が悪い、と母に叱られることを瞬間的に覚悟します。

 けれど隣にいたのは福留でした。彼はなにも言いません。そのくせ無視するでもなく、歩に一瞥をくれます。彼は無言で首を傾げました。言いたいことを促すように、歩の発言を待つように、ただ黙っていてくれました。

 ささくれていた心が鎮まっていくのを感じます。

 怒ってもいいのだと、苛立つことは悪いことではないのだと、自分を殺して大人のためのいい子を演じなくてもいいのだと、言われたような気がしました。

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