15 どうして心が痛むのか


「先ほどきみが言うとおり、ちゃんと回復しているようだな。安心したよ」


 いつの間にか唇を噛みしめていたセレスティアは、アレンディスの声にはっと我に返る。


 碧い瞳が困ったような光を宿してセレスティアを見つめていた。


「引きとめてすまなかった。あとはもう、自室でゆっくり休んでくれ」


「ありがとう、ございます……」


 戻ってよいと言われて嬉しいはずなのに、どうしてつきんと心が痛むのか。


 自分で自分の心がわからない。


 だが、アレンディスが疲れているのなら、これ以上長居しないほうがいいのは明らかだ。気疲れ続きだっただろうアレンディスに少しでも休んでほしい。


 セレスティア自身、回復しているとアレンディスに告げたものの、本当はまだ身体が重い。


 次の『聖杯の儀』までにアレンディスの魔力が安定しているかわからぬ以上、しっかりと休んで回復させておくべきだ。


 いや、先ほどのアレンディスの様子を見るに、次もセレスティアが魔力をそそがねばならないと覚悟しておいたほうがよいだろう。


「では、失礼いたします」


「ああ」


 ソファーから立ち上がって一礼すると、アレンディスも立ち上がる。わざわざ見送ってくれるらしい。遠慮する間もなく扉の前へ着き、セレスティアはアレンディスを振り返る。


「あの、私のことはお気遣いなく……。陛下もお疲れでございましょう? 今日はもう、魔力の修練などせず、早くお休みください」


 アレンディスの拳は、先ほどからずっと固く握りしめられたままだ。


 まるで、己の中で渦巻く激情を無理やり押さえつけているかのように。


「どうか……。ご無理はなさいませんよう」


 どうして自分でもそうしてしまったのかわからない。


 ただ、握りしめられた拳が悲鳴を上げているように見えて、ほどくことができないかとそっと片手で拳にふれる。


 次の瞬間。


 セレスティアは、息が詰まるほど強く、アレンディスに抱きしめられていた。


「許してくれ……っ!」


「へ、陛下……っ!?」


 血を吐くような声。セレスティアを抱きしめる両腕は、決して失いたくないものにすがりつくかのようで。


 抱き潰されるかと思うほど強いのに、なぜか、幼い子どもが泣いているかのような印象を受けてしまう。


 よしよし、とセレスティアはかろうじて動かせる左手で、あやすようにアレンディスの広い背中を撫でる。


 まだいまよりも小さい頃、怖い夢を見たと言っていたセルティンを慰めていた時と同じように。


「大丈夫です。陛下が詫びられることは何もございません。お願いですから、どうぞ、そんなにご自分を責めないでください。私は、もう大丈夫ですし、何より……。私は、『聖杯の儀』の成就のために、陛下にお仕えしているのですから」


「違うっ!」


 告げると同時に、アレンディスからひびわれた声が放たれる。


 反射的にびくりと震えた途端、アレンディスが我に返ったように鋭く息を呑んだ。


「あ……っ」


 悪い夢から醒めたようにかすかな声を洩らしたアレンディスが、いま初めてセレスティアを抱きしめていることに気づいたように、身じろぎする。


「す、すまない、その……っ」


 アレンディスが、ゆっくりと腕をほどく。


 本当はセレスティアを放したくないと言いたげに。


「きみは、本当に、優しいんだな……。何ひとつ……」


 見下ろすアレンディスが浮かべる笑みは、見ているこちらの胸まできゅぅっと締めつけられるほどに切なげで、まるで泣くのをこらえているかのようで……。


 セレスティアの心まで、きしんで苦しくなる。


 自分と弟の保身のためにアレンディスに仕えている自分には、こんな風に言ってもらえる資格なんてないのに。


 本当に優しいのは、セレスティアを気遣ってくれるアレンディスのほうだ。


「私は優しくなどありません。お優しいのは陛下です。従者である私などにここまでのお気遣いを……。本当に、ありがとうございます」


「っ!?」


 少しでもアレンディスに感謝を伝えたくて言ったのに、告げた途端、アレンディスの端整な面輪が泣き出しそうに歪む。


 まるで、不意打ちで心臓に刃を突き込まれたかのように。


「わたしは決して……っ」


 うめくようにこぼれた声が途切れる。


 セレスティアは細められた碧い瞳を見上げ、続きを待つ。


 だが、アレンディスから返ってきたのは、硬質な沈黙だった。


 唇を引き結んだアレンディスが、無言で扉を開ける。まるで、セレスティアを拒絶するかのように。


「練習につきあってくれて感謝する。部屋に戻ってゆっくり休んでくれ」


 口調はいたわりに満ちて優しいのに、碧い瞳は明らかにこれ以上、セレスティアが踏み込むことを拒否していて。


「失礼、いたします……」


 セレスティアはただ、一礼して扉をくぐることしかできなかった。


    ◆   ◆   ◆


「くそ……っ!」


 セレスティアを送り出し、扉を閉めた途端、アレンディスは扉に背を預け、ずるずると床に座り込んだ。


 苛立ちをぶつけるかのように己の髪を両手でかき乱す。


 『許してくれ』なんて、どの口が言えるのか。


 セレスティアは今日の『聖杯の儀』のことだと思ったようだが、本当は違う。


 アレンディスがセレスティアにひざまずき、許しを請いたいことは――。


「許してもらえるはずがないだろう……っ!」


 己が発した言葉が、自分自身の胸を貫く。


 ――セレスティアの婚約者だった王太子をあやめてしまったことを、許してほしいだなんて。


 あれは、アレンディスが一生背負っていかねばならない罪だ。


 ネベリスやエルメリスが何度『あれは不可抗力だったのです』と言おうとも、アレンディス自身が自分を許すことができないのだから。


 もし、たったひとり、アレンディスに許しを与えられる人物がいるとしたら――。


「何を、馬鹿な夢想を……っ」


 はっ、と鼻を鳴らし、脳裏をよぎった甘い考えを振り捨てる。


 自分に腹が立って仕方がない。

 セレスティアを苦しめておきながら、自分だけ楽になろうだなんて。


『この国を立て直せるのは、王の血を引くあなたしかいらっしゃいません』


 ネベリスの提案を受け入れた時、覚悟したはずだ。


 たとえ、誰に恨まれることになろうとも、王になってみせると。なのに。


 ただひとり、セレスティアだけがアレンディスの心をかき乱す。


 幼い頃よりずっと綺麗になり、なのに昔と変わらず優しい彼女の存在が、アレンディスを惑わせる。


 本心は『セス』の正体を知っていると、打ち明けてしまいたい。


 だから少年従者の姿などする必要はないのだと。たとえ前王派が彼女を狙おうとも、何があっても弟と一緒に守るから安心してほしいと。


 けれど、それを告げることは、彼女の婚約者を殺したのだと告げるも同じで。


 アレンディスを気遣い、微笑んでくれる面輪が憎悪に歪み、罵倒を投げつけられるかと思うと、恐怖に尻込みしてしまう。


 たとえ、本当はセレスティアが心の中でアレンディスに憎悪をたぎらせているのだとしても、アレンディスに対して向けてくれる笑顔を失いたくなくて。


 少なくとも『セス』である限り、セレスティアはアレンディスのそばにいてくれる。


 己の寝台で眠るセレスティアを見た途端、喜びが湧き上がり、愛らしい面輪にくちづけしそうになったなんて、セレスティアには絶対に言えない。


 大丈夫だとかたくなに言い張る彼女に、なぜもっと自分を頼ってくれないのかとねた気持ちになって、急に魔力の修練を願ったことも。


 そして――。


 魔力を流そうとした瞬間、前王太子をあやめてしまった時の恐怖を思い出してしまったことも。


 セレスティアにはこんな卑怯できなたい自分を知られなくない。


 けれども同時に、心が叫ぶのだ。


 もっと彼女にふれていたい。彼女の笑顔を見て、他愛のない言葉を交わしたい。


 セレスティアに――自分のことを、思い出してほしい。


「最低だ、わたしは……っ」


 両手の拳を握りしめ、低く呟く。


 自分ばかり、セレスティアに負担をかけるばかりで。アレンディス自身は、セレスティアに何もできていない。それでも。


 何があろうとも、セレスティアを失いたくない。ようやく再会できた彼女と別れるなんて、考えられない。


 そんな自分勝手なことばかり願ってしまう自分が、吐き気がするほど醜悪しゅうあくで。


「セレスティア……」


 アレンディスは奥歯を噛みしめて低く呻いた。


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