10 自分がそんな風に思う資格など何ひとつないというのに
誰もが光り輝く聖杯を
ぐらりとかしいだ身体を、すんでのところで抱きとめる。意識を失った
「セス……っ!」
あたたかな重みがこのまま消えてしまいそうな恐怖に囚われ、細い身体をぎゅっと抱きしめる。途端、男物の服越しに伝わってきた柔らかさに、アレンディスは思わず息を呑んだ。
腕の中のセレスティアは眉根を寄せた蒼白な顔で、荒い息をついている。彼女をこのまま放っておけない。
横抱きに抱き上げようとして。
「陛下」
素早く隣へ来たネベリスに、氷よりも冷ややかな声で呼びかけられる。
「セスは『聖杯の儀』の荘厳さに緊張のあまり、気を失ったようですね。セスの様子はわたくしが診ましょう」
『違うだろう!?』と反射的に言い返しそうになり、かろうじてこらえる。
セレスティアが気を失ったのは、アレンディスの代わりに聖杯に魔力を捧げたからだ。
アレンディスさえ、ちゃんと聖杯に魔力をそそげていれば、セレスティアをこんな目に遭わさずに済んだ。
己の不甲斐なさに血が出そうなほど強く唇を噛みしめたアレンディスに、ふたたびネベリスが話しかける。
「アレンディス陛下。まずは『聖杯の儀』の成就を。セスはわたくしが預かります」
一片の情すら感じさせぬ平坦な声。そこに宿る息が詰まるような圧に、アレンディスはわずかに冷静さを取り戻す。
そうだ。セレスティアが気を失うまで聖杯に代わりに魔力をそそいでくれたというのに、アレンディスのせいでそれを無為にするわけにはいかない。
セレスティアを床に下ろすわけにはいかず、アレンディスはしぶしぶネベリスにセレスティアを託す。
だが、ネベリスの腕の中にいるセレスティアを目にした瞬間、心の中に言いようのない不快感が湧き上がる。たとえネベリスであろうとも、他の男がセレスティアにふれるのが許せないと。
自分がそんな風に思う資格など何ひとつないというのに、己の心の狭量さに驚きながら、アレンディスは聖杯へと歩を進める。
ラグノール侯爵達が自分の一挙手一投足を
アレンディスが手をふれた途端、聖杯からあふれる金の光が揺らめき、ラグノール侯爵達が「おお……っ」と感嘆の声を洩らす。
ラグノール侯爵達の視線を一身に集めながら、
閉ざされた神殿の入り口へ近づくと、アレンディスの歩みを止めぬよう、さっと脇から前に走り出たラソルが、神殿の大きな扉を重々しい音とともに開けた。
途端、吹き込んだ春風がアレンディスの短い金の髪を揺らし、神殿の中に
神殿の前の広場は、アレンディス達の馬車についてきてそのまま『聖杯の儀』が終わるのを待っていた大勢の領民達で埋め尽くされていた。
神殿からあふれ出していた金色の光にざわめいていた民衆が、光り輝く聖杯を手にしたアレンディスの姿を見た瞬間、水を打ったように静まり返る。
アレンディスは両手の聖杯を頭の上へ掲げ、朗々と宣言する。
「『聖杯の儀』はこのわたし、新王アレンディスの手によって無事に成就した! 天空の神オールディウス神と大地の女神ディアヌレーナ神の加護により、この地に豊かな恵みがもたらされるだろう!」
アレンディスの言葉が終わるやいなや、光り輝く聖杯からひときわ強い光があふれ出る。
まるで、花びらが散るように、金の細かな粒子となった光が、春の強い風に乗って、よく晴れた青空のもと、地平まで広がってゆく。
まるで、この地全体を祝福するかのように。
幻想的な光景に、誰もが声を出すのも忘れて魅入られる。
金の粒子がすっかり消えたところで、領民達から割れんばかりの歓声が巻き起こる。
長年の不作から抜け出せることに対する喜びと安堵の声に、アレンディスに向けられる感謝と崇拝の言葉。
それらをろくに聞くこともせず、アレンディスは掲げていた聖杯を下ろし、さっと
足早に内陣に戻り、大理石の台座の上に聖杯を戻す。
聖杯はいまだに淡く光を放ち続けていたが、アレンディスは何の
何やら話しかけたそうなラグノール侯爵達を無視して駆け寄った進む先は、セスを横抱きにし、神殿の裏手から出ようとしているネベリスの元だ。
「ネベリス!」
ネベリスがこちらを振り向くと同時に、その腕に抱えられているセスを強引に奪い取る。
「陛下。セスでしたらわたくしが――」
「セスはわたしの従者だ。ならば、わたしが運んで悪い理由がどこにある?」
「侯爵達の相手はお前に任せる。そちらのほうが適任だろう?」
異論は聞かぬと、ネベリスが答えるより早く背を向ける。
神殿の裏口へ向かうと、追いかけてきたラソルがさっと前に出て扉を開けた。
てっきり開けた後はネベリスの元へ戻るかと思いきや、そのまま先導し、神殿の脇に停めていたアレンディスの馬車の扉も開ける。
「ネベリスの元にいてよいのだぞ?」
ラソルが心酔し、忠誠を誓っているのはアレンディスではなくネベリスだ。
言外に「ついて来なくてよい」と告げたのだが、ラソルは生真面目な表情でかぶりを振る。
「いいえ。もし帰り道で興奮した民衆に馬車が囲まれたりしては大変ですので。ネベリス様より、陛下のおそばを離れぬよう、言いつかっております。わたくしは御者台におります」
セスを抱き上げたまま馬車へ乗り込んだアレンディスに告げたラソルが扉を閉め、護衛の騎士達にラグノール侯爵の屋敷へ戻る旨を指示する。
だが、アレンディスはラソルの言葉など、ろくに聞いていなかった。
自分の太ももを枕にし、座席に寝かせたセレスティアの
血の気を失った顔を見ているだけで、心が締めつけられるように痛くなる。
「セレスティア……」
絞り出すように彼女の本当の名を紡ぎ、短く切られた髪をそっと撫でる。
彼女の本来の髪は、茶色ではなく陽光を編んだような豊かで長い金の髪だったはずだ。
アレンディスに仕えるために、あの美しい髪をこれほど短く切らせてしまったのかと思うと、申し訳なさのあまり、自分で自分の胸を剣で貫きたくなる。
ずっとずっと、もう一度、彼女にこうしてふれたいと願っていた。
けれど、この形はアレンディスが望んでいたものと、あまりに違う。セレスティアをこんな目に遭わせたくて王位についたのではない。
アレンディスの望みは、ただ――。
なめらかな白い頬に、そっとふれる。
「すまない……っ! どれほど詫びても許してもらえるとは思わない。それでも……っ!」
ようやくこの腕に抱きしめることができた愛しい少女。
目を離せば淡雪のように消えてしまう気がして、揺れる馬車の中、アレンディスはぎゅっとセレスティアを抱きしめ続けた。
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