9 初めての『聖杯の儀』
二神から遣わされたという聖杯は、壮麗な神殿の内陣に設けられた大理石の台座の上に安置されていた。
聖杯の高さは大人の肘から指先ほど。花や
聖杯の姿を見た途端、セレスティアは嫌な予感を覚える。
マスティロス領の聖杯は、もっと神々しく金色に輝いていた気がする。
だが、くすんでいるとはいえ、聖杯から発せられる何とも言えない神々しさは、これが確かに神から遣わされたものだと疑いなく信じられた。
マスティロス領と王都しか知らないセレスティアは、他の領の聖杯を見たことはない。
単なる杞憂であればよいと思っているうちに、神官長のエルメリスが重々しい口調で『聖杯の儀』の開始を宣言する。
エルメリスはまだ三十歳を少し過ぎたくらいの年齢だが、たぐいまれな魔力量を誇り、また魔力を見ることができる希少な目の持ち主ということで、若くして神官長の地位に昇りつめた人物だ。
とはいえ、出世欲にとりつかれたようなところはまったくなく、中性的で穏やかな顔立ちはいかにも聖職者といった雰囲気だ。セレスティアはそれほど多く言葉を交わしたことはないが、信頼できる人物だという印象を持っている。
エルメリスほど力のある神官であれば、魔力の流れを感じ取ることができるため、エルメリスはセスがセレスティアであることを事前にネベリスから知らされているらしい。
とはいえ、『聖杯の御幸』に出て以来、セレスティアがエルメリスと言葉を交わした機会は一度もないため、男装しているセレスティアにエルメリスがどんな感情を抱いているのか、まったくわからないのだが。
「いと尊きオールディウス神とディアヌレーナ神よ。オルディアン王国の王が、二神様のご加護に感謝し、祈りと魔力を捧げます。どうか、この地に豊かな恵みを賜りくださいますようお願い申し上げます」
アレンディスの一歩後ろで胸の前で両手を組み、よく通る声で告げたエルメリスが目を閉じて片膝をつく。
エルメリスに
従者としてアレンディスの数歩後ろにネベリスとともに片膝をついたセレスティアは、アレンディスとエルメリスから、ゆらりと魔力が立ち昇る気配を感じとる。
本来、聖杯に魔力を捧げるべきはアレンディスだ。アレンディスが捧げられるのならば、それが一番よい。そのため、最初のうちは様子見をするよう、ネベリスから指示されている。
だが……。
うつむいて感覚を研ぎ澄ますセレスティアが掴んだアレンディスの魔力の流れは、想像以上に不安定で弱々しかった。まるで細い糸が激しく波打っているかのような魔力の流れは、明らかに聖杯を満たすには不足だ。
エルメリスもアレンディスの魔力の流れを感じ取ったのだろう。補佐するようにエルメリスも聖杯に魔力を捧げようとするが、もともと聖杯は王族以外の魔力はほんの少ししか受け付けてくれない。
エルメリスが豊かな魔力を持っているのは感じ取れるものの、聖杯が満ちる気配はなかった。
(陛下が無理ならば、私が……)
セレスティアは組んだ両手に力を込め、己の魔力を立ち昇らせる。
閉じたまなうらをよぎるのは、昨日、ネベリスの馬車の窓から見たラグノール領の農地だ。
マスティロス領とは比べ物にならない
自分とセルティンの命を長らえさせるために、『聖杯の儀』を成就させなければならない。けれど、それ以上に、オルディアン王国の王族の血を受け継ぐ者として、民の生活を守らねばならないと思う。
(オールディウス神様、ディアヌレーナ神様……。私の魔力をお受け取りください。そしてどうか、この地に恵みを……っ!)
つむっていた目をさらに固く閉じ、祈りとともに魔力を捧げる。
自分の中から流れ出した魔力が、聖杯へとそそがれるのを感じる。途端。
「っ!?」
ぐんっ、と自分の中から魔力が引き出される感覚に襲われ、セレスティアは息を呑んだ。
しん、と静まり返っている神殿に自分の呼気が鋭く響くが、それどころではない。
まるで、乾いた土に水が吸い込まれるように、自分の魔力が無理やり奪われていく感覚。
王族の魔力を与えられぬまま、何年も飢えていた聖杯が、ようやく与えられた魔力を
セレスティアの意思を無視して、魔力が勝手に引き出され、根こそぎ奪われていく。
「……ぅっ」
洩れそうになる悲鳴を、唇を噛みしめてこらえる。
対外的には魔力を捧げているのはアレンディスだけで、他の面々はただ、ひざまずいて祈っているだけなのだ。セレスティアが苦しい様子を外に出すわけにはいかない。
背中にじわりと冷や汗が浮かぶ。
マスティロス領の聖杯に魔力をそそいだ時は、こんなこと、一度も起こったことがなかった。
無理やり魔力を引きずり出されていく感覚に、身体が震え、頭がくらくらしてくる。
(だめ……っ! こらえないと……っ!)
いまここでセレスティアが気を失ったら、騒ぎになって『聖杯の儀』が中断してしまう。それだけは避けなくては。
自分を
その間も、どんどん身体から魔力が奪われてゆく。
もうだめかもしれないと絶望に襲われかけたところで。
りぃぃぃん――――。
不意に、澄んだ鈴のような音が鳴る。同時に、まぶたを閉じていてさえわかるまばゆい金の光が聖杯からあふれ出す。
「おお……っ!」
誰ともなく顔を上げ、感嘆の声を洩らす。
聖杯からあふれ出した金の光は、いまや神殿中を満たすどころか、いくつもの窓から神殿の外にまであふれ出している。外から見れば、神殿そのものが光り輝いているように見えているに違いない。
だが、セレスティアはその様子を確認する余裕などなかった。
聖杯とつながっていた魔力の流れがふつりと切れた途端、セレスティア自身も限界を迎える。
周りは金の光にあふれているというのに、セレスティアだけが闇の中に閉じ込められたように、視界が
ぐらりとかしいだ身体が冷たく硬い大理石の床に打ちつけられそうになる寸前。
「セス!」
ひび割れた叫びと同時に、セレスティアの身体は力強い腕に抱きとめられた。
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