言葉が出なくて

あんちゅー

溢れ出して止まらなかった。

見えるもの全てに添えられたその文字を、私はひとつだって口にはできなかった。


昔からそうだ。


見るもの全てに言葉が浮かぶ。


私の気持ち。


私の想い。


空を見ればその青い果てしない場所をキャンバスのようにして綴られる。


「雲がなく穏やかな、全てを飲み込む青い海」


木々を見ればその深く包み込む優しい緑の彩に書き足される。


「揺れる彼等に誘われて、遊びに来た夏風のよう」


私は言葉なんていらないと思ったんだ。


そう。


私の全てを写してくれるのだから。


人を見れば、それは彼らを背景にして縁取られた文章の波へと変わる。


「その人波はどこへ、何のために流れていく」


私が何をしなくても、心を言葉にしてくれた。


私はこの世界が便利だと思った。


だから何も言わない。


むしろそれ以外は煩くて堪らない。


母に殴られ、父に怒鳴られようと口を開かなかった。


「あの子は私達の言うことなんてちっとも聞かない」


「いつもあの調子で笑っている、気味が悪い」


彼らの言葉を耳にしても、どんな仕打ちを受けてしまおうとも、ただ二人をまんじりとせず見つめていた。


顔中にびっしりと書き込まれる「死ね」という文字が、心地好く、それによって見えなくなる彼らの顔は、いつからか思い出せなくなっていた。


私は私の方法で世界と向き合っていた。


「それの何が悪い!」


「それの何処がおかしい!」


その言葉は私の体から突き出した、大きな薔薇の棘のようだ。


私は言葉を口にしない。


そんな必要なんてないからだ。




ある時、急に不安になった。


読めない言葉を見つけたからだ。


それは今までに見た事のないような言葉だった。


文字とも言えない文字が、何かも分からないほど埋めつくされた。


それは何に書かれているのか、すぐには分からなかった。


「あの言葉はなんて書いてあるの?」


私は苦しく思って聞いてみた。


でも、そう聞いたつもりが、声は上手く出てこなかったみたいで。


何処からか「もう一度」と聞こえた。


私は何故だか素直に従い、、今度は叫ぶようにして喉を震わせた。


まるで私の口から出た物でない、見た事のない言葉が、空の彼方の霧のようにして消えていった


もう一度、もう一度、もう一度。


彼は言った。


息が出来ないほど叫んでみたが、どうやら言葉は出てこない。


「これは夢だからだよ」


呆れた彼は、ゆっくりと私の背に手を回してそう言った。




「ようやく起きたのね」


目を開けるとそこには見知らぬ女の人が立っていて、私の頭を優しく撫でた。


「命があってよかった」


目に見えたのは、文字のない世界だった。


それにとても喉が乾いている気がした。


何があったの?


私は聞いた。


けれど言葉は口から出てこない。


彼女は続けた。


「本当に辛いけど、頑張りましょう」


そう言って手鏡を手渡した彼女は目を背けた。


私はそれを覗き込んだ。



きっと悪い夢だ。悪い夢だ。悪い夢だ。


聞こえる、聴こえる、きこえるんだから、きっと夢に違いない。


世界に添えられた言葉の数々は、一体どこへ行ってしまったのだろう。


誰か、返して、返してよと駆け出した。


躓き転んで見上げた空は、言葉が無くても美しかった。


息が出来ず、苦しくて、私はその場をのたうちまわる。


彼女が駆け寄り、口元へ繋がれた人工呼吸。


「急に走り出したは危ないじゃない」


怒鳴る彼女の目元に滲んだ涙を私は忘れやしないだろう。


私の鼻、口、喉はどこ。


抉り取られた私は至る、口に出来ないだけだったんだと。



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言葉が出なくて あんちゅー @hisack

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