君と僕は確かにそこにある

春夏秋冬

君と僕は確かにそこにある。

 ああ。君が遠い。でも、近くにいる。それなのに何故だろう。どうしてこんなにも清々しいのか。


「こんにちは。どう?」


『こんにちは。ウフフ。元気だよ。こんなに楽しいのは久々!』


 ボクは仕事から帰り、テレビをつける。そうすると、彼女がボクを迎えてきてくれた。いつものような笑顔をボクにくれる。白い八重歯を覗かせる彼女の口元はボクに彼女と同じような笑顔を届けてくれた。


「今日も疲れた。だけど、君を見て、その疲れも吹っ飛んだよ」


『ありがとう! 嬉しいよ』


 彼女はしゃがみ込み、膝を抱く。首を横に倒してえくぼを崩す。


 ボクはネクタイを解いた。そして、彼女に話しかけ続ける。


 彼女の笑顔と楽しそうな声はいつも聞いている。ボクたちはこのように決まった事のようなものを繰り返している。だけれども、ボクは飽きずにいた。だって、飽きる要素など無いのだから。


 しかし、不満はある。誰であって当然に思う事だ。


 ボクは立ち上がり、彼女に近づく。彼女はボクに気がつき、顔を近づけた。ボクは彼女の頬に触れた。だけど、彼女に触れた感触がしなかった。無機質なもので冷たかった。人の肉の柔らかさはなく、固かった。押してもへこみはしない。石をつついているようなもので、ただ固形のものが揺れ動くだけだった。人の独特の温もりもありはしない。冷たくてひんやりとしていた。


『もう。そんなに触らないでよ』


 でも、彼女は恥ずかしそうにして言う。ボクには触れた感触がないのに、彼女はその感触があるようだ。入り違いが起こっている。


 かなしいような気もするが、でも、悪い気はしなかった。


 ボクは彼女を抱きしめた。だが、やはり固かった。ごつごつしていて、痛かった。抱きしめる――触れる痛みだ。


『恥ずかしいよ』


「ごめんごめん。ボクは君を愛しているよ」


 彼女は頬をふくらます。ふくれっ面になってそっぽを向く。頬を朱色に染めて、その顔を隠そうとしていた。そこがまた可愛らしかった。


『うん。私も』そして、小声でそう呟くのだった。


 ボクは不満足だが、これでなんか、満足だった。


 矛盾のようでしていないような、そんなおかしで不可思議な感覚。正しいのか正しくないのか、まだ分からない。だが、ボクはこれだけは言える。


 ――君が遠い。


 目の前にいるのだ。だが、一枚を隔てた壁のようなものに阻まれている。その障壁がボクと彼女に触れ合う事を禁じている。


 もどかしい。こんなにも近くにいるのにもかかわらず、ボクは本当の彼女に触れることを許されない。


 もし、一度だけ望みを言えるとしたらボクはこのお願いを神様にするのだろう。


 あの頃のように。肌と唇を重ね合わせていたあの時のあの頃のように、ボクたちはまた触れ合いたい。お互いの体温を体で感じ合いたい。そうさせてくれ。


 そう願う。


 だけれど、それはもう二度と叶わないのかもしれない。


 彼女はテレビの向こう側に移る人間。ボクは現実にいて、その画面を見つめるだけの人間。


 ボクたちができる事はただ話すことと見つめ合う事。ただそれだけ。


 だからこそ……近く。そして、遠い。


 疑問だ。こんなボクたちがもう一度触れ合う事は出来るのだろうか。様々な壁を取り除き、その小さな体を抱きしめる事がボクには出来るのだろうか。




 ボクと彼女が出会ったのは数年前の出来事だ。大学の講義で知り合った。たまたま席が隣で、向こうから話しかけてきた。どうやら、彼女がボクに興味を持ってくれたようだ。最初のボクは彼女にそこまで深い感情を抱いていなかった。無関心といってもいいだろう。だけれど、話していくにつれて次第に彼女に興味を持つようになったのだ。


 ボクは人と関わることがあまりなかった。彼女に興味を持てたのは、だからなのかもしれない。


お互いにメアドを交換し、メールのやり取りを繰り返していた。そこで彼女の事をよくしれた。彼女の事を知ると、より一層興味を持つ。そして、もっと知りたくなった。 そうしてボクたちは仲良くなっていき、やがて愛し合う仲となった。


 ボクは彼女を愛していたし、彼女もボクを愛していた。




『愛しているよ』


 彼女はボクにそう言ってくれる。この頃のボクにも今のような想いがあった。この頃は、今より彼女に対する想いは少なかった。と、少し惚気てみる。




「幸せだよ」


 ああ。幸せさ。手を握り、感じる彼女の温もり。柔らかくすべすべ肌。抱きしめ合い愛を営む。




 そうして日々が過ぎていく。




『幸せだよ』


 彼女はボクに向かってキスをしてくる。ボクも、彼女に合わせて、口を合わせる。やわらかい感じはしなかったが、ボクはそれでもよかった。それだけでも、愛というものを確かめ合えているような気がしたからだ。




 彼女との初めてのデートは、映画館だった。お互いに映画が好きで、お互いに好きだった監督の作品を見た。見終わった後にボクたちはその映画の内容を語り合う。


「あの映画では、きっと、距離感が大事だということを言いたかったのよ」


 喫茶店でコーヒーを飲みながら、その事を語っていた。


「なるほどね。あんな幸せそうだったのに。秘密を暴いてしまった事で、関係が破綻していくという構成は、つまるところ、そういうことだったんだよな」


「私は、どうかな? 仮に好きな人が私の全てを知ろうとして来たら。私の事を知ろうとしているんだな、思って嬉しい気がするけど。でも、程ほどにしてほしいかな。やっぱり、プライベートもあるから。踏み込んでほしくない所もあるかな」


 彼女はスプーンでかき混ぜながら言う。ボクはその動きを追いかけていた。


「貴方は、どう?」


「ボクも、そうだね。今日の映画のように、距離感と言うのを大事にしたいな」


 ボクは笑いながら言った。


「ふーん」彼女は頬杖をついた。そうして、猫のような口をつくる。「私、もうちょっと、貴方の事が知りたいかも」


 ドキッとした。誰かに、自分の事を知りたいといわれたのは初めてだった。


 ボクはいつも一人だった。孤独に生きていた。だから、この世界には自分一人しかいないのだと思っていた。でも、彼女はボクを見つけてくれて、ボクの傍にいてくれた。それを選んでくれた。


 ボクが彼女を好きになる理由はそれだけで十分だった。うそぶく言葉かもしれないが、だけど、そんなものは何度も会う事で分かる。


 ボクは何度目かのデートの時に彼女に告白した。彼女は迷う素振りを見せずに、すぐさま「うん」と頷いた。


 ボクは嬉しかった。彼女と二人で生きていく事が出来るのだから。




『こんにちは』


「うん。こんにちは」いつもの挨拶。「君は相変わらずの元気だ」


『ウフフ。元気だよ』


「今日は会社で飲み会だった。疲れたよ。付き合いは嫌いだ。やっぱり、ボクは君と一緒にいる時だけ楽しめる」


『楽しい』


「うん。ボクね、最近になって昔のことを思い返すようになったんだ。君がまだテレビにいない頃のお話。よく、付き合うよりも、その前の方が楽しかった、って聞くけど、そうなのかもしれないな」


 彼女はしゃがみ込み、膝を抱く。首を横に倒す。


「まだお互いの事を深く知らないからなのかもしれない。だけどさ、今はなんか違うかな。ボクは君をあの時よりもよく知っている。でも、この想いはあの時以上に強くなっている」


『うん。私も』


 ボクは少し嬉しくなり、笑った。




 付き合ってから一年ぐらいが経った頃、ボクたちは海へ遊びに来ていた。ボクは買ったばかりのビデオカメラを装備して、彼女を撮影していた。彼女は「えー嫌だ」と口では撮られることを否定していたが、その顔は笑顔だった。嫌な顔は一つしていなかった。


 ボクたちは砂浜を歩く。彼女が波打ち際を裸足で歩いてはしゃぐ。


 彼女は白いワンピースを着ていた。長い髪の毛が風で踊った。スカートがなびく。ボクはその光景を画にして撮っていた。


「プロモーションビデオみたいにしないか?」


 ボクは彼女にそう提案した。彼女は「いいよ」と言った。


 じゃあ、何からするか。ボクは考えて先に出た言葉が「こんにちは」だった。彼女は吹き出して笑う。そして「こんにちは」と大きな口をあけて、返事を出す。


 ボクも彼女の笑顔につられて笑う。次に出す言葉は、「元気ですか?」だった。彼女は「ウフフ」とはしゃぎながら、「元気だよ」と言う。そして「こんなにも楽しいのは久々!」と、手を大きく広げて走り出した。ボクはそれを追いかける。


 パチャパチャと水を蹴り上げたり踏みつけたりして、音を立てる。ボクたちは疾走していた。やがて、彼女は疲れて、走るのをやめた。息を軽く切らしていた。ボクは彼女の手を引いた。彼女の手はやわらかかった。小さくて、全てをつつめそうだった。


 ボクは彼女に砂の上を歩かせた。ボクたちはそこでくるくる回った。


「やっぱり、楽しそうだね。笑顔が素敵だ。やはりボクは君のそういう所が大好きだ」


「ありがとう! 嬉しいよ」


 彼女は手をはなす。ビデオの画面に顔を近づけた。ビデオに触れながら、彼女はしゃがみ込んだ。ボクは彼女を上から撮影する。彼女は上目遣いで、膝を抱いた。そして、首を横に倒してえくぼを崩す。


 ボクは彼女の頬に触り、撫でた。顔のあちこちを撫でまわした。


「もう。そんなに触らないでよ。恥ずかしいよ」


「照れて。可愛いな」


 彼女は頬をふくらます。機嫌を損ねたのか、そっぽを向いた。だけど、機嫌が悪くなったわけではなかったようだ。頬を朱色に染めて、その顔を隠そうとしていただけだった。


「なんか、幸せだな」


 ボクはそう言った。


「うん。私も」そして、大きな声で、こう言うのだった。「幸せだよ!」




「こんにちは」


『こんにちは』


 ボクたちはいつものようなやり取りをする。


 彼女のこの言葉を聞いていると、あの頃を思いだす。あの頃のボクたちは何も理解していなかった。


 だから、あんなに笑え合っていたのだ。


 画面の彼女は嬉しそうに笑う。ボクもそれにつられる。


 今と昔。何が違うか。それは、決まっている。




 ある日の事。彼女は死んだ。理由は、ボクが彼女を殴り殺したからだ。動かなくなった死体をボクは山奥へ運び込み、そして穴に埋めた。


 死んだ彼女を眺めたボクは、こう感じた。――遠いと。生と死の狭間は底が見えぬ谷間のようだった。


「別れましょう」


 突然彼女がボクに別れ話をしてきた。ボクは「何故?」と尋ねた。理由は「近すぎる」それだった。


 ボクとの距離が近く感じるようになったそうだ。ボクは彼女のことをもっと知りたくて、もっとボクの事を彼女に知ってもらいたかった。だが、それがいけなかったようだ。


 ボクは彼女の腕を掴む。彼女はボクの手を振りほどく。


「なんで……?」


 ボクはショックを受けた。それはとても大きなものだった。


 ボクは別れたくなかった。あの頃のような関係がまだ出来ると思っていた。でも、彼女は分かれると言ってきかなかった。


 ボクは彼女を遠くに感じた。触れ合う事が出来るほど近くにいるのにもかかわらず、彼女を遠くに感じた。


 ボクは彼女を殴り殺した。彼女は死んでしまった。ボクは体温が失われていくだけの物をそっとだきしめた。肌の温もりが失せていく。ボクたちの想い出までもが消え失せていってしまうような気がした。


 近くにいて、こんなにも近くにいて、触れ合っているのに、遠い。こんなにも遠い。


 何故?


 ボクはその疑問を抱えながら彼女を山に埋めた。


 ボクが彼女を殺したことはまだばれていないようだった。


 そうやって、数週間が過ぎた頃だった。ボクはまだ彼女の事を想っていた。自分で殺しておいて、その罪悪感がなかった。ボクに会ったものは彼女に対する距離感。これだけだった。


 ボクはある日、驚かされることになる。


 テレビをつけると、そこに彼女が現れたのだ。


 彼女はあの頃のような笑顔で、ボクにこういったのだ。


『こんにちは』と。


 ボクは呆けていた。もう二度と会えぬと思っていた君が、目の前にいて、出会えたのだ。


 これが幻なのかは分からない。でも、現に目の前に彼女がいるんだ。


 画面の彼女は笑う。


『幸せだよ』さらに続ける。『私は、ただ貴方を見ているだけで幸せ』


 ボクは彼女に頬をすり合わせる。ブオーンという音と、画面と埃のザラザラした感触が伝わる。


彼女の温もりなど、一切感じなかった。


 不満足。だからボクは彼女ともう一度触れ合いたかった。


 だが、心の奥底では、このままを望んでいた。


 それからボクたちは毎日会話をする。ボクはテレビをつけて彼女に話しかける。彼女はそれにこたえる。




「ボクはいつになったら、君と触れ合う事が出来るのだろうか」


 画面の彼女は笑うだけで何も言わない。


 ボクは四つん這いになって歩く。そして彼女に顔を近づける。キスをする。画面の彼女とキスをしている。だけど、あの唇に柔らかい感触がしない。ボクは画面の彼女の体を舐めまわす。でも、彼女の体の味はしなかった。


 もどかしい。もどかしい。


 こんなにもちかくにいるのに触れ合えないのはなんともどかしいものか。


 テレビ。画面。壁。この障壁さえなければ。




 ボクは夜中にふと目を覚まして、喉が渇いたから水を飲んだ。


 そうすると、テレビがついていた。ボクはテレビを消したはずなのに。テレビからは砂嵐のあの画面が流れていた。ボクは近づきまじまじと眺めていた。


 そうすると、画面から手がにょっきりと、飛び出した。


 うめき声が聴こえる。テレビ画面から出てくるものの正体は何だろうか。手先だけだったのが、今は腕まで出てきている。


 ボクは尻餅をついた。画面から出てきた自分物の正体を知り、ボクは驚いた。


 頭からは脳みそが飛び出ていた。血の化粧した顔をボクに見せつけた。


 彼女だった。あの時殺した時の彼女だった。


 彼女は画面から飛び出す。平面から立体になろうとしている。ボクはその様をただ眺めているだけしか出来なかった。


 やがて、彼女は全身を画面から出すことに成功した。


 床を這う。彼女が通った後には血の道標が残る。


 彼女はうめき声をあげてボクに手を伸ばす。


 彼女の目は飛び出ていた。空洞となったその瞳でボクを見つめる。


 彼女はボクの頬に触れた。冷たくなかった。温もりを感じた。


 ボクは彼女を抱きしめた。


 彼女が確かにそこにあった。ボクは彼女を強く抱きしめた。


 心が躍った。夢に見た時がようやく訪れたのだ。


 ボクたちは肌と肌を重ね合わせる。体を感じる。肌と唇を合わせる。ボクたちの恋は、愛は、これでようやく……。


 彼女はボクの頭を撫でた。彼女の吐息が近くに感じる。


 温もりが、すぐそばにあった。


 だから、ボクは彼女にこう言う。


「違う」


 ボクは驚いた。自分が考えていた言葉と出てきた言葉が異なっていたからだ。ボクは何を口走っているのか。


「何かが違う」


 ボクはいったい……?




 目を覚ました。


 ボクはベッドから飛び起きた。


 ボクはテレビをつけた。彼女があらわれた。


「こんにちは」


『こんにちは』


 彼女はわらった。


 どうやら、夢だったようだ。


 ボクは画面に映る彼女の頬に触れた。彼女の感触を味わう事は出来なかった。


「夢を見た。君が、この画面から出てくる夢だ。そこでボクたちは抱きしめあい、愛を確認した」


『ありがとう! うれしいよ』


「ボクはね。こういった。違うって。どうして、そんな言葉が出たんだろう」


 彼女は座り込んだ。体育座りをする。


 ボクは、最初の頃を思いだした。彼女がいった事を。 『自分たちのことを深く知ろうとまではしなくていい。だって、人には誰にも触れられたくない壁があるんだから。そこを壊して、乗り越えてもらいたくない。たとえ、最愛の人でも』


 彼女は首を横にしてえくぼをくずす。


「そうか」


 ボクは夢の中での出来事のように彼女を抱きしめようとした。でも、触れられなかった。


 ボクは手を伸ばす。彼女に触ろうとする。しかし、あるのはテレビの固い感触のみだった。彼女の優しい肌の感触とは程遠いものであった。だが、しかしながら……。


「そういうことか」


 ボクは夢の中で彼女と抱きしめる事よりも、今のようにテレビという一つの障壁を隔てて彼女を抱きしめる事の方が、気持ちが良くて――



――君が近い。

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君と僕は確かにそこにある 春夏秋冬 @H-HAL

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