謎⑥
「ご主人様?」
目と鼻の先まで近づいてきたので後ずさる。
シャンプーのいい匂い。
母の服を借りたのか、少し大きめの服から見える鎖骨が妙に色っぽい。
「せ、整理しよう。君、えっと、アイさん」
「アイって呼んでください!」
またグイッと近寄ってくるので俺は顔を背ける。
今、自分の顔が真っ赤なのが恥ずかしい。
「呼んでくれないと、泣いてしまいます」
本当に目をウルウルとさせる。
「わ、分かったから、泣くなよ」
その言葉でパッと明るい表情になった。
複雑だ。
少なくとも、藍良はこれだけ感情豊かに表情をコロコロと変えなかった。
常に、笑顔だった。
「じゃあ、アイ。君は、一体どこの誰なんだ」
俺は基本的な質問から入ることにした。
すると、彼女は即答する。
「分かりません」
困った風でもなく、明るく、笑顔で。
「そうか。君は‥え?」
「私、記憶が殆ど無いんです。分かっているのは‥アイって名前と、私を救ってくれたのがご主人様だって事だけです」
「記憶がないって、そんな‥」
じゃあ、これから何をどうすればいいんだ。
俺は強制憑依アプリを起動させる。
ガイドをタップ。
『哀れな二人の魂を救ってください』
つまり、これは二人がまだこの世に未練があって、その未練が無くなったら晴れて成仏出来るって事だよな。
でも、未練どころか、自分に関する記憶が殆ど無いなんて‥。
「あ、ご主人様。でも私、一つ思い出しました」
「な、何?」
俺は少し前のめりになる。
もしかして、解決に導く手がかりが。
「私、胸、こんなに小さく無かったと思います」
「‥あ、そう」
「思わず、え!ちっさいって無意識に呟いて—‐」
「分かったもういい静かに」
俺は早口でその続きを止めた。
もしこの会話の内容が、藍良の記憶に残ってしまったら大変だ。
いや、待てよ。
俺は、嫌な想像が頭に浮かぶ。
そもそもの話。もし未練が無くなって成仏出来たとしても、魂が抜けてしまった器はどうなる。
藍良は、二度と目覚めないんじゃないか?
背筋が凍る。自分の想像に、ゾッと恐怖を覚える。
いや、まだそう結論づけるな。
まだ何もしていないじゃないか。
「アイ。何でもいい。何か、思い出せないか?」
「うーん。そうですねぇ」
上を少し向いて、考え込む。しかし、「駄目です。やっぱり分かりません」と答えた。
「ごめんなさい。役立たずで」
申し訳なさそうな顔でそう言う。
そこまで責任を感じる事では無い。
「いや、仕方ない。何か気づいた事があったら教えて」
生活をする上で無意識に言葉が出たのなら、まだ希望はある。
「はい。でも、私、ご主人様の事大好きですよ」
突然の告白に顔が真っ赤になる。
「じょ、冗談はやめてくれ」
「冗談じゃないですよ。とても好きです」
「ついでに、ご主人様っていうのもやめてくれ」
「え!それは嫌です!」
顔を横にブンブンと振り否定する。
「私の中では、ご主人様はもうご主人様で、ご主人様のお陰でまたこの世に生まれる事が出来たんですから、私の中では一生ご主人様です」
「この世に、生まれる?」
「はい!」
藍良は、もう、別人で。その中にいるのは、正体不明の、アイ。
「君は‥」
君は、この世に生まれたわけじゃない。藍良舞という一人の人間の身体を一時的に借りているだけの存在でしかない。
そう、否定したかった。
でも、それを口にする事が出来ない。
「‥とにかく、みんなの前でご主人様と呼ぶのはやめてくれ」
俺は、大切な事に向き合う事が出来ない卑怯者だ。
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