第16話 死に戻り夫人と夫の義務

 朝起きて、自分である程度の身支度を整える。靴の履きかたは、この数日で上手になった。母の用意してくれた編みあげ靴の踵をこつりと鳴らして、ヴィオレータは椅子を立つ。


 今日はカルティべ領に来て初めての公務がある。豊作祈願の祭りに参加するのだ。


 アンヘルは、あれ以来どこかよそよそしくなった。もとより、親しかったわけでもないが、これ以上距離を詰める気がないと態度で示されると、好感を抱いていたぶんだけ、こころにこたえた。


 ヴィオレータが食堂に入ると、すでに伯爵夫人が席に着いていた。あたたかな笑顔に迎え入れられて、ホッとするとともに、母を慰めたときのような罪悪感が胸に広がる。


 伯爵も夫人も、アンヘルが何の相談もなしにヴィオレータを娶ったことについて、咎めだてはしなかったらしい。それどころか、伯爵などは「でかした!」とアンヘルを褒め、大いに喜んだのだと、夫人から聞いている。口にする夫人も、男兄弟ばかりを四人育ててきたから、ヴィオレータが来たことで娘ができたようでうれしいのだと語っていた。


 ──せめて、ひとりでも子を残していくべきなのではないかしら。


 牛のお産の件で婚約を破棄され、縁遠くなったところにヴィオレータが来て、さらに二年ぽっちで離縁。しかも、離縁の理由は「夫の義務を果たさない」となれば、後添え探しは困難を極めるだろう。


 夫の義務としてよく言われるのは、三つだ。「同居」「扶養」「愛情をもって妻として扱う」。アンヘルはおそらく、三つめから逸脱しようと試みている。社交の同伴がないかもしれないし、同伴してもダンスに誘われないかもしれない。意図して人前でヴィオレータに恥をかかせることで、離縁しやすくしてくれるつもりなのだろう。しかし、そんなことをすれば、アンヘルは牛の件以上に社会的な地位を失いかねないし、人品をとやかくうわさされるようになる。


 ──あんなに優しく思慮深いかたなのに? そんなの、あんまりだわ。


 ヴィオレータとアンヘルのあいだに、いまだに夜の営みはない。そのことに彼の両親は気づいているだろうが、表立って何か言われることはなかった。伯爵が三十代と若いせいもあるのかもしれない。まだ、代替わりまでは時間がある。孫をのんびりと待つ気持ちの余裕があるのだろう。


 暖炉のすぐそばの伯爵夫人の斜め前に腰を下ろす。左隣には伯爵が、正面にはアンヘルがじきに来るはずだ。思っていると、伯爵夫人が不意に席を立った。ヴィオレータに近づいてくると、他には聞こえぬような声量で口を開く。


「ヴィオレータさん。春が深まったら、一度、アンヘルといっしょにゆっくりと時間をかけて領内を回ってみてはいかが? あの子は父親に似て朴念仁だから、領地のことがわからないと会話のきっかけが掴みにくいのではないかしら」

「視察ということですか?」


 問い返したヴィオレータに、ふふ、と、伯爵夫人は笑みを漏らす。


「小旅行よ。堅苦しく考えないでいいの。一度でぐるりとめぐってきてもいいし、数泊ずつ何回かにわけて足を伸ばしてもいいわ」


 そこまで言ったところで、アンヘルが伯爵と連れ立って、会話をしながら食堂に現れた。伯爵夫人は一段声を低くして、こそりと笑う。


「この屋敷にいたら、いつまでもふたりきりになれないでしょう? せっかくの新婚なのですもの。楽しんでいらっしゃいな」


 笑いながら席に戻り、何食わぬ顔でふたりに朝の挨拶をする姑をよそに、ヴィオレータは彼女が何げなく発した「新婚」の語に勝手に恥ずかしさを募らせる。政略結婚ではない自分とアンヘルとの関係を、伯爵夫人はどうやら、電撃的な恋愛結婚だとでも思っているらしい。


 そんな新たな発見のおかげで、朝食はほとんど食べた気がしなかった。




 豊穣祈願の行われる村への道のりは、馬に乗っていくことになった。ヴィオレータはたしなみ程度にしか乗馬をしたことがない。これを聞いたアンヘルはすぐに鞍を付け替え、二人乗りに切り替えた。


「二人も乗って、馬は平気でしょうか?」

「全力疾走させれば潰れるほど消耗するでしょうが、今回は長距離でもありませんし、通常の乗りかたをすれば問題ありませんよ」


 ヴィオレータの座る横乗り用の鞍サイドサドルのうしろに二人乗り用の鞍を据え付け、アンヘルは軽々と馬に跨った。


「どんな祭りか、説明したでしょうか」

「いいえ、まだ伺っておりません」


 振り向いたヴィオレータに、アンヘルは短く前を向くよう指示し、話をつぐ。


「これから向かう祭りは、毎年恒例のものではありません。今年は暖冬ですから、麦の生育や収穫に影響が出る可能性が高いのです。そういう年は、不作をもたらす妖精が麦畑に隠れているのだと、この地では昔から言います」

「妖精、ですか?」

「耳慣れないことばでしょう。土地の古い習慣ですから、神殿の教えとは無関係な信仰です」


 不作をもたらす妖精とは、なかなか面白い存在だ。つまりは豊穣祈願のなかで、その妖精を追い払うのだろうが、いったいどうやって、その得体の知れないものを祓おうというのか。


 ヴィオレータの疑問を見透かすように、アンヘルは耳元で教えてくれる。


「悪い妖精は、ひとが喜び、楽しみ、笑うのが嫌いです。ですから、大勢で音楽を奏で、歌い、踊るのが、この時期の祭りの習わしです」

「まぁ! ラウドを持ってくればよかったわ」

「我々はせいぜい、歌いましょうか」


 笑い声が響く。アンヘルが楽しそうな声音になったのを聞きながら、ヴィオレータは言いつけを守って前ばかり見つめていた。

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