第一章 黄昏の姫君 1

 



 

第一章 黄昏の姫君



 時は烈、場所は麟――。

 森の国麟に先頃嫁いできた花嫁は羶の第三王女弱冠十六歳、金髪碧眼、しかも美少女ともっぱらの噂だ。森の国の常なのか、それとも単なる環境なのか、麟にはそんなきらきらしい容姿の者はそうはいない。そのせいか、はたまた姫君の若さゆえか、或いはこの婚姻によって得られる羶との莫大な利益ゆえか――麟の人々はかの姫君を大層もてはやして迎え入れた。国王リンドハーストは御歳五十、既に四人の妃を迎えていながら、そしてこの婚姻の裏に潜む濃厚な政治的策謀を重々心得ていながら、女好きで知られる国王はゆるみきった表情で五人目の新妻、親子ほども年齢の違う、まだ少女とも言うべき幼妻を、自ら王宮の入り口までやってきて迎えた。

 森の国のならわしでは、王は新しい妃を迎える時、すべて季節のすべての色の襲を贈るというならわしがあって、前もって贈られたそれを携えて、新しい妃は自分の宮へ入る。 面白いことに、この度の姫は氷氷(白・白)の衣裳のみ返して寄越したとか。なんでも、自分で用意してそれを纏い貴方様の色に染まります、という文も共に送ったとか送らないとか。

 顔色を失ったのは宮中国王お手つきの女官たちもさることながら――四人の妃たちであった。

 麟の人間は先も述べた通り血統上黒を基調とした髪と目の色であるため、金の髪などというのはとかく珍しい。その上森の緑を映したような美しい瞳をしていて、若く、しかも美少女であるという決定的な事実がある限り、国王の他の宮通いは、当分望めそうにもない。無論、正妃と呼ばれる第一王妃が一番権力を持っていて、後になればなるほどその妃の立場が弱くなるというのは当然知られたことだが、他にもどれだけ時めいているかというのも大いに権勢を伺い知る要素となっている。たとえ第六王妃でも、時めいてさえいれば、時には第二王妃の上座に座ることさえ日常である。無論第一王妃を除けばの話だ。

 そして、初夜以降五日は新妻の元へ通わなくてはならぬという森の国のしきたりに従って五日間を新しい宮で過ごしたのちも、国王リンドハーストが他の妃たちのもとへ通うことはなかった。若く美しい小娘に、国王はぞっこんになってしまったのだ。

 新妻マリエンフェルデは、麗しいその名にも負けない容姿の持ち主、ぎくりとするほど大きな瞳は言うまでもなく森の緑、濃すぎず薄すぎず正に理想の緑、筆舌しがたいとはこの瞳のこと。息を呑むほど白い肌はなまめかしく、まさかに嫁ぐ前に男を知らぬ身体であったとは考えられぬほど。視線妖しくそれでいて清らかで、同時に三日月のように微笑むその口元の愛らしさは、他に例えようもない。緑の瞳を縁取り負けずに引き立てているのは、宮中の誰ぞが言ったように天女に触れられ吐息で染められたかのような、豪奢といっても過言ではない直ぐなる金の髪。いかな美しい染め物もこれにはかなわぬ。きらりと光り輝きを放つ様は太陽と並んでも引けをとらぬとはよくも言ったもの、羶が誇る芸術品といってもいいほどの、マリエンフェルデは美しい姫君であった。

 国王の新妻に対する溺愛ぶり、その噂ははすぐさま宮中を駆け巡り、勢いおさまらず放った矢のごとく国中に広まった。その端を発したのがマリエンフェルデが麟に嫁いできて十日目の出来事であった。

 既に婚前に贈っているのにも関わらず、国王リンドハーストは彼女の部屋に文字通り溢れんばかりの衣装をマリエンフェルデに贈ったのである。なんでも、あんな形式的なものではなく、ご丁寧にも自分で彼女に合う紋様や刺繍を自ら選んだのだとか。その種類も様々だが、やはり圧倒的に多かったのは、春という今の季節に合った大量の襲(衣裳)であった。

 リンドハーストがマリエンフェルデに贈った襲は、まず金春色(水色)と瑠璃(明青)の襲、藍白、または白殺しとも呼ばれるごくごく薄い藍、例えて言うのなら純白に千分の一薄めた藍をまぜたような、そんな藍白と露草(暗青)の襲。この二つはマリエンフェルデの金の髪に映えるようにとリンドハーストが選んだものだ。

 それから続いて春色の梅(表白・裏蘇芳)――『蘇芳』は濃い紫みの赤――

梅重(表濃紅・裏紅梅) ――『紅梅』はローズピンク――、裏梅(表紅梅・裏紅)、紅梅(表紅梅・裏蘇芳)、紅梅匂(表紅梅・裏淡紅梅)、莟紅梅(表紅梅・裏濃蘇芳)、若草(表淡青・裏濃青)――衣装の『青』は植物の緑――、柳(表白・裏淡青)、面柳(表濃青・裏濃青)、黄柳(表淡黄・裏青)、青柳(表濃青・裏紫)、花柳(表青・裏淡青)、柳重(表淡青・裏淡青)、桜(表白・裏赤花)――『赤花』は紅が少し淡くなったもの――、樺桜(表蘇芳・裏赤花)、薄花桜(表白・裏淡紅)、桜萌黄(表萌黄・裏赤花)――『萌黄』は薄い黄緑――、薄桜萌黄(表淡青・裏二藍)――『二藍』は青みの紫。一見ダークグレーにも見える――、葉桜(表萌黄・裏二藍)、菫(表紫・裏淡紫)、壷菫(表紫・裏淡青)、桃(表淡紅・裏萌黄)、早蕨(表紫・裏青)、躑躅(表蘇芳・裏萌黄)、紅躑躅(表蘇芳・裏淡紅)、白躑躅(表白・裏紫)、山吹(表淡朽葉・裏黄)――『朽葉』はこの場合褐色味の黄橙色――、裏山吹(表黄・裏紅)、山吹匂(表山吹・裏黄)、青山吹(表青・裏黄)、藤(表薄色・裏萌黄)――『薄色』はごくごく薄い紫―― 白藤(表淡紫・裏濃紫)、牡丹(表淡蘇芳・裏白)――の以上である。これらが贈り物としては想像を絶する数であることは言うを待たず、この話を聞いた第四王妃のトリゴリアは持っていた扇を思わず血がにじむほど握り締めてしまったという。

 まさしくマリエンフェルデの登場は容色衰え始めた妃たちを脅かす最高の種となりつつあった。絶世の美女とは、マリエンフェルデのことを言うのだろうと麟の国の人々は噂し合い、この世に二人といないとも囁かれた。

――いや、「絶世の美女」は、もう一人いた。



       地 僻にして人煙断え

       山 深くして鳥語嘩し

       清渓 石歯に鳴り

       暖日 藤芽を長ぜしむ

       緑は映ず 高低の樹

       紅は迷う 遠近の花

       林間 鶏犬を見る

       直ちに擬す 是れ仙家なるかと


 妙なる調べに乗せて聞こえてくるはこれもまた玉かと思うほどの歌声――春の鴬時鳥、或いは冬の雪景色の中池の蓮がはじける音か鶴の哀しげな声か。じっと瞳を閉じ震えがくるのを我慢しながら聞き入れば落涙は言うを待たず、時に感情豊かな歌を感情豊かに歌えば倒れる者もいるとは決して誇張ではない――そんなこの世のものとも思えぬ凄まじいまでに素晴らしい歌声の持ち主は、一人リュートと呼ばれる弦楽器を爪弾きながら歌っていた。

 もしや? そう思う者も少なからずいる。そして、十中八九その予想は当たる。名を聞かずして彼女が何者かわかった者は大きくにうなづいてやはり、と納得し、名を聞いて彼女が何者かわかった者も膝を打って合点する。

 彼女こそは玲瓏なる喉と賞され、極上の玉が天鵞絨を滑り落ちるような歌声とまで世間に言わしめた現在最高の吟遊詩人の一人、放浪を続け諸国の王宮でその喉と美貌を人々に知らしめ、決してひとところに留まらず、また望まぬ君主には刃で威されようと決してその喉震わさぬという楽師、名を聞けば知らぬ者はいないという究極の歌師である。

 彼女の歌声を窓を開けて聞いていた第一王妃リンカニアは、しばらく黙っていたがやがて、そのなびくような素晴らしい歌声が完全に空気にとけこみ消えいってしまってからようやく口を開いた。

「ふ……」

 王妃は自嘲気味に口元を歪め、

「やるものよ……見事に春の草原の美しさを表している」

 と呟いた。すると後ろから、

「〈 少室山の南の高原は、人里遠く離れていて、人家の煙はまったく見えない。

   山の奥深くにあり、小鳥のさえずりがかまびすしいほど。

   清らかな渓流は歯牙さながらの岩にぶつかって瀬音を響かせ、暖かな陽光は      

   木々にからまる藤やかずらの芽を成長させる。

   みどり色が高く低くに生える木々に鮮やかに浮かび、

   くれない色が遠く近く一面に生える花にぼんやりと広がる。

   林の中を進んでゆくと、鶏や犬の姿が見えてきた。

   まるで仙人の住む家のようだ 〉。

 はじめて聞く歌ですわね」

 その声に王妃は振り向いた。麟で第一王妃である彼女にこんな口振りで話すのはただ一人、彼女専属の女官カストゥエラである。専属女官は属する妃と対等に近い口振りで話すことを許され、良き話相手良き相談役として友達のごとくそれでいて女官の役目をつつがなく果たすことのできる宮廷女官の中では選りすぐりのエリートである。国王よりも仕える妃に忠義が篤いとされる。

 膝折らず 低頭せずともよし 専属の女官 とは、巷でうたわれ専属女官の特徴をよくとらえた川柳だ。

「カストゥエラ」

「見事な歌声ですわね。せめてあの楽師が宮中に入るのならばよろしゅうございましたのに」

 窓際に立ち、朗々たる歌声で歌う楽師を見ながら、カストウェラはため息まじりで言った。女官でこのような振る舞いが許されるのも、彼女が第一王妃専属女官であるからに他ならない。王妃リンカニアは眉を密かに寄せ、カストゥエラの軽口を諌めるように言った。

「馬鹿な事を……羶とは元々政略結婚。双方互いにそれを納得づくで受け入れた婚姻ではないか」

「ですが悔しいですわリンカニア様。第二王妃が宮中に入った時も、あの卑しい商人の娘が入ったときも、傲り高ぶったトリゴリアが来たときも、陛下は一時は熱中されはしたけれど度を過ぎるようなことはされなかった。でもあの小娘が来てからは」

「およし」

 やんわりとそれを止め、第一王妃リンカニアは窓へ目を移した。

「たかが十六の小娘……美しく若いだけでは三日で飽きる。あの金の髪が珍しいまでのこと。じきに元に戻られよう、陛下も……病気はいつものことなのだから」

 見ると、岩の上でリュートを爪弾き妙なる調べを風に乗せていた歌師の元へ、従者がやってきて何事か告げ、二、三度うなづき返した彼女が、立ち上がって王宮内に入っていくのが見えた。



「お呼びですか陛下」

 楽師はリュートを携えて柔らかな衣音をさせ国王リンドハーストの召還にこたえた。

「おおスキエル。待ち焦がれたぞ」

 長椅子でくつろいでいたリンドハーストは手招きをして楽師を呼び寄せた。

「庭で歌うそなたの声が聞こえ居ても立ってもいられず呼んだ。何か歌ってくれ」

 口元に薄い微笑を浮かべ、楽師は軽く頭を下げた。サラサラサラと衣擦れの音をさせて直接床に座り、リュートを調弦してスッと瞳を閉じる。

「そうですね何を……歌いましょう」

 幼妻マリエンフェルデを迎えていなければ、自分は間違いなくこの女を宮中に入れようとしたであろう、無理とわかっていて尚――瞑目したまま調弦する彼女を見ながら、国王リンドハーストはそんなことを考えていた。

 スキエルニエビツェ・ガラード。

 珠玉の喉と呼ばれた美貌の楽師。彼女が麟に来たのは半年ほど前であった。

 輿入れの支度で賑わい大忙しの宮中。新しい宮の増設。

 心落ち着かず苛々として、ささくれた心持ちになっていた国王リンドハーストの元へ、彼女が現われたのはそんな時であった。

 リンドハーストは確かに他国でも噂になるほど好色だが決して誰彼構わずというわけではない。特定の女にとことんのめりこむのだ。そしてこれこそはと思い極めた者にしか特に執着を見せないのが彼特有の特徴ともいえよう。いい例が第三王妃ダエトである。彼女は元を正せば王族でも貴族でもないただの一介の商人の娘であり、街を歩いているところをリンドハーストが馬車の中から見初めたのである。

 好色な国王ではあったが、公私混同するほど愚かではなく、女性を日頃の公務の合間に見いだしたオアシスのように思っていたと言っても過言ではない。美術品をこよなく愛し、また芸術を理解する心を持っている辺りは、そこらの好色権力者とは一味違っているといえよう。だから、音に聞こえし珠玉の楽師スキエルニエビツェが宮廷で雇って頂きたいと申し出てきたと聞いたときは、すぐさま招き入れた。またスキエルニエビツェの方も心得ていて、歌や音楽を好まない、不粋で無学な国王がいるような国には決して足を運ばぬ。あくまで歌と音楽を心の底から愛し、その心で自分に純粋に一人の人間として歌を乞うる、そんな国王のいる王国を渡り歩いている。であるからこそ、好色と巷では知られていたリンドハーストではあったが、彼女を無理矢理宮中に入れたり、独占したがるような素振りは見せず、放浪が生活の一部で放浪を愛するというのなら、好きなだけこの国に滞在し飽きればまた渡り鳥の生活をするがよいと風流な言い回しで申し渡したのであった。

 さて、今日のスキエルニエビツェの衣装は季節に合わせた春色の襲、はっと息を呑むほど映える白躑躅(表白・裏紫)に生地紋様は青海波、これは春の襲の中でも特に彼女が気に入っているものだ。もっともリンドハーストがマリエンフェルデに春色の襲をすべて贈ったという話を聞いてからはよくよく注意して、今を時めく金髪の妃と同じ衣装にならないよう注意し、時には四季通用の襲で脂燭色(表紫・裏紅)と呼ばれるものを着るようにしている。四季通用の襲ならば春に季節外れの夏色を着るというような愚直極まりない真似をしなくて済むし、それにこの色は彼女の一番のお気に入りなのだ。まるで彼女のために誂えられ彼女のために創られ考えられたと錯覚するほどによく似合う。そのため、自分の舌の安全を考え長い彼女の名を呼ぶことを避け彼女を短くイオシス(紫紅色)と呼ぶ者も、時にはいる。

 スキエルニエビツェの瞳は、思わず眉を寄せて覗き込んでしまうほど澄んだ黒の色をしている。黒い月、射干玉もかくやと歌われたことさえある。何事をも見透かしすべてを知っているかのようなその瞳に見つめられると、何か後ろめたいような、知性の輝きに射竦められるような感じがしてならない。眉の形も美しく、眉目秀麗とはよくもいったもの。

 あらゆる歌を紡ぎだし万人を魅了してやまないその口元はいつも心なしか微笑んでいるようにすら見える。髪は、はるか冬葵の絹織職人を悩ませてしまうほどにつややかでなめらかで、夜の闇にとけこんでしまいそうに黒い。油を塗ったようにつややかで豊かなのに時に衣擦れの音か、髪の音かわからぬ場合も時としてある。

 このように長い黒髪を持つスキエルニエビツェの肌は、諸国を足で渡り歩いているのにも関わらず生まれてこの方陽光に当たったことがないのではないかと思うほどに白い。透けるほどに、抜けるほどに白く、それでいて決して病的な白さではないのだ。

 生まれが愁蓮だという事以外、彼女に関して知られていることは少ない。それ以上の経歴や、どこの師の元で経験を積んだ、だとか、家族のことやなぜ放浪を続けるのか、その経緯についても、知る者は一人としていない。知られるのはただその美貌と倒れたくなるほどの素晴らしい歌声だけ。しかし彼女の歌を聞く者にとっては、それだけで充分であろう。

 しばらくして王のいる広間から妙なる歌声が聞こえてきて、麟王宮の夕方を沈静で幽明かつなまめかしいものへと包み込んでいった。


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