セーフティ・ボーダーライン

月花

セーフティ・ボーダーライン



「カラスはな、もとは幸運の象徴やったんや」


 カーテンもついていない窓からは、じっとりと湿った空気が流れこんでくる。網戸には穴が開いて端が破れているし、サッシの隙間には少し埃もたまっている。

 壁にもたれるように座りこんだ柳さんは、ライターを数回カチカチと鳴らして煙草に火をつけた。


「日本やとそうやなあ、八咫烏って聞いたことある? 足が三本あるカラスでな、神様なんや。日本神話とかに出てくるんやけど」


 彼はふーっと煙を吐き出す。換気扇もつけないから、ワンルームにはあっという間に煙が広がった。柳さんにはとっくに煙のにおいがまとわりついているからいいとして、私のブレザーまで煙臭くなるのは困る。

「扇風機つけていい? 弱にするから」と一声かけてから、黄ばんだスイッチを押した。ゴウンゴウンと異音をあげながら羽が回るそれは、もうじき寿命なのだろう。


「聞いたことある気がするけど、なんだったかなあ」

「最近ワールドカップあったやろ、サッカーの。日本代表のシンボルマークが八咫烏や。サッカーが上手くなりますようにっていう願掛けやな」

「あー、それだ。まあ私見てないけど」

「なんでやねん。近頃の中学生ってサッカー興味ないん?」

「クラスは盛り上がってたよ」


 彼は煙をくゆらせながら「里穂ちゃんが興味ないだけか。俺が時代に置いてかれたんか思ったわ」とけらけら笑った。私は「柳さんはまだ若いでしょ」とつっこむ。

 彼は二十代と言われればそう見えるし、三十代といわれても十分納得できる。年齢を聞くといつもはぐらかされるけど、自虐するような歳ではないのは確かだ。


 柳さんは少し伸びてきた前髪をうっとおしそうにかき分けて、煙草をくわえた。


「中国でもカラスは神聖な鳥やな。ギリシャ神話でも神様に仕えてたし、エジプトやと太陽の鳥ってことになってる。まあ地域によっては昔から不吉扱いやけど――なんにせよ今は不吉っていうイメージの方が強いやろ?」

「うん」

「ヨーロッパの魔女狩りのときにな、黒い動物はみんな魔女の使い魔ってことにされたんや。カラスももちろんやけど、黒猫とかもな。それが不吉やってことで、ようさん殺された」

「黒いだけで? 理不尽すぎない?」

「魔女狩りいうんはそういうもんや。その流れで、今の日本やとカラスといえば不吉なんやね。まあ他にもいろいろ理由はあるけど、西洋の感覚が流れこんできたわけやな。結局、いつどこで、どの感覚が正解かなんかはあっさり変わるもんっていう世知辛い結論や」


 柳さんはひとしきり話し終えると、ガラスの灰皿に煙草の灰を落とした。そして思い出したように「それで、何の話やっけ?」と首を傾げた。私はわざとらしくため息をつく。


「……だからあ、最近アパートのゴミ置き場がカラスに荒らされてるんだってば。柳さん、ちゃんとネットかけてるよねって聞いたの!」

「あー、そやったわ。俺はかけてるよ。たぶん上のおっちゃんやろ。この前荒らされてたとき、コーヒーの空き缶だらけやったから」

「それならいいけど。なんですぐ脱線しちゃうかなあ」


 柳さんが謎の雑学を話しだすのは今に始まったことではない。おかげで私はしょっちゅう本題を言い忘れるし、知識は偏る一方だ。今日はたまたま思い出せたからいいものの、うっかり忘れたまま帰って、お風呂で「ああっ」と声をあげる日は何度もある。

 柳さんは「ごめん、ごめん。思いついたらつい言うてしまうんや」と特に悪びれることもなく、吸いかけの煙草をもみけした。


「六時か。そろそろ晩飯作ろか」

「今日は何?」

「冷蔵庫の中見て当ててみ」


 彼がフライパンにごま油をひいているうちに、私は冷蔵庫のドアを開けた。もうほとんど食材が残っていなくて、あるものといえば卵と小ぶりの玉ねぎ、チャーシュー、あとは使いかけの調味料くらい。


「……炒飯?」

「正解。俺の得意料理や」


 私は玉ねぎを出して、ゴミ箱の前に座った。皮をめくってから渡すと、彼は器用にみじん切りにした。


 手早く作られた炒飯を皿に盛りつけて、床に並べる。柳さんの部屋にテーブルなんてものはないから、私たちは常に皿を持ち上げて食べるしかないのだ。

 柳さんは「テーブル買おうかなあ、でも捨てるときに面倒くさいしなあ」とぼやくけれど、言い出してから早数ヵ月経っていることをそろそろ教えてあげるべきかもしれなかった。


「いただきます」


 両手を合わせて、銀スプーンを取る。

 柳さんはこのボロアパートに住んでいるお隣さんで、火曜日と金曜日、私たちは一緒に夕飯を食べる。私たちの関係が始まったのはとある夏の日だった。






 その日は数年ぶりに台風が直撃し、空もひどく荒れていた。あたりは飛ばされてきたゴミだらけ、傘の骨は折れて、雨はコンクリートに叩きつけられるように降っていた。あと数日で夏休みだというのに、二時間目の途中で大雨警報が出て途中下校になった。


 傘が吹き飛びそうななかを必死に帰ってきて、アパートの階段の下で胸をなでおろしたのを覚えている。

 鉄の階段を上がって、私の部屋は二〇四号室。制服がぐっしょり濡れて張り付くのが気持ちが悪くて、早く着替えようと急いでいたそのとき、私は彼に出くわした。


 彼は隣の部屋――二〇三号室の前で座りこんでいた。

 このアパートにはそう珍しくない、若い男。黒髪から水滴がしたたり落ちていて、服はシャワーでも浴びたかのようにずぶぬれで、廊下には水たまりができていた。なんでこんな雨の日に、と私は思わずにはいられなかった。早く部屋に入ればいいのに。


 ふと目が合う。

 無言のままで瞬きをした。彼はわずかに目を見開いて、それから自分から視線を逸らした。少し困ったような顔で。


 私は一瞬立ち止まってしまって、それから早足で彼の前を通り過ぎた。そうするべきだと思ったから。どうしてって、彼とは関わらない方がいいと言われていたのだ。


 彼が越してきてしばらくしたころ、下の階に一人で住んでいるおばあさんが「あの人はね、おかしな人だよ」と言ったのだ。

「大家さんに二年分の家賃まとめて渡してね、何も聞かずに住ませろって言ったんだって。証明も何も出さなかったそうよ。きっと普通のアパートじゃ審査通らなかったんだろうね。うちはほら、ボロいでしょ。貧乏人ばかりだしねえ」と小声で忠告してきた。


 おかしな人には見えなかったけれど、普通の人ではないと私も何となく理解していた。若いのに働いている風ではなかったし、かと思えば真夜中にドアを開ける音がしていたし。けっしてうるさくはなかったけれど。


 私は自分の部屋に入ってしまって、止まっていた息を吐きだした。変に緊張してしまって、心臓がバクバクしていた。目が合ってしまったときはどうしようと思ったけれど、絡まれたりしなくてよかったと安堵する。


 風邪をひく前に着替えてしまおうと、廊下でふと振り返った。そこには風呂場の鏡があって、私の身体が膝下までよく見えた。そして気付く。半袖のシャツはびっしょりと濡れて、身体に張り付いて、下着の線が表れていた。肩紐も、カップラインもくっきりと。

 雷鳴が響くなか、「あ、そっか」と私はひとり言を呟いた。彼が困ったように目を逸らしたのはこれか。


 私は少し、いや、かなり考えこんだ。相当よく考えた。熟考した。それから着替えて、風呂場にあったタオルを一枚持って外に出る。


「あの」


 彼はまだ廊下で座りこんでいた。さっきまでまでと少しも変わらず、ずぶ濡れのままで。私は彼にタオルを差し出す。緊張で声は少し上ずってしまった。


「あの、よかったらどうぞ。そんなに濡れてたら風邪ひいちゃうから」


 彼はゆっくりと顔を上げて私を見た。真っ黒な目だった。男の人にしては睫毛が長くて、不思議と柔らかそうに見える目元だ。彼の顔をこんなにまじまじと見たのはその日が初めてだった。

 彼は驚いたように唇を動かす。数秒黙りこんで、ようやく声を発した。


「……使っていいん?」


 このあたりでは聞くことのない関西弁。やや高くて穏やかな声は耳によくなじむ。

 私が黙って二回こくこくと頷いたら、彼は手を伸ばして受け取った。ためらいがちに顔をぬぐって、髪の水分を吸わせた。小さいタオルはそれだけで濡れて重くなる。


「ごめんやで」


 タオルを強く絞って水気を切る。そして首回りも拭いていく。


「鍵、なくしてもうたんよ。こんな雨やからどこに落としたかもわからんようになって。傘も途中で折れたし。踏んだり蹴ったりやわ」

「じゃあ部屋に入れないんですか……?」

「大家さんにはもう電話したんやけど、雨酷いやろ、足ないから出られへんって。雨が落ち着いてきたら合鍵届けに来てくれるらしいから、それ待ちやな」

「そう、なんですね」


 すらすらと淀みなく話す人だった。だから私も返事には困らなかった。会話のテンポを誘導されているような気さえする。


「それにしても君、親切やね。まだ若いのにほんまにええ子やわ。でもあかんよ、俺みたいな怪しい男に優しくしたら」


 それ自分で言うんだ、と私は心の中で呟いた。どうやら自覚はあったらしい。


「隣の子やんな。何ちゃん?」

「川西里穂……です」

「里穂ちゃんな」

「あの、私も名前聞いていいですか」


 彼の部屋には表札がかかっていなかった。だから私は彼をなんと呼ぶべきかわからなかったのだ。

 彼はへらっと笑って「柳」とだけ言った。


「柳さん?」

「うん、そう」


 柳さん、と私はもう一度呟く。

 たぶんこのアパートで彼の名前を知っている人は私くらいのものだろう。


 私は部屋からもう一枚タオルを持ってきて彼に手渡した。うちはお母さんとの二人暮らしだから着替えはなくて、彼は最後までずぶ濡れだったけれど「ほんまに助かるわ」と嬉しそうに笑ったのがなんだか犬みたいだった。

 それから雨が弱まるまで二人で会話をしていた。そのとき彼が話したはずの雑学はもう忘れてしまったけれど。






 私は小学生のころから鍵っ子で、夕飯は毎日コンビニご飯だ。近くにあるコンビニで菓子パンか、値引きシールの張られた丼ものを買うことが多い。ある日それに気付いた柳さんが「うちで食べてく?」と言ったのが始まりだった。メニューは酢豚だったと思う。


「柳さんって料理上手なんだね。意外」

「それ悪口やろ」


 そうやなあ、と柳さんは呟いた。


「火曜と金曜はうちに来たらええわ。晩飯、自分の分のついでに作ったるから」

「本当? いいの?」

「一食二百円な」

「お金取るんだ!」

「あたりまえやろ。材料費と俺の手間賃や。タダなわけないやん」


 それでもコンビニ飯よりは安いし健康的やろ、と彼は言った。それはそうだなと私は思った。柳さんが全部自分で作ったと言う酢豚は、甘酸っぱくて美味しかったし、パイナップルも入っていなかったし。


「私、邪魔じゃない?」


 もしかして今のは社交辞令だったのかな、と急に不安になった私は念押しするように尋ねた。中学生はその気がなくても「今度一緒に遊ぼうね」とか言えちゃう生き物で、私はもうそれを知っていたから。

 先に食べ終わって、片肘をついたまま煙草をふかしていた柳さんは「んー?」とぼんやりした声で返した。 


「里穂ちゃんは美味しそうに食べてくれるしなあ。子どもはいっぱい食べて大きくなるんが仕事やで」

「……私、もう十四歳だよ?」

「子どもやろ」


 そんな風に言わなくたっていいじゃん、と私が少しむくれた顔でぶつぶつ言っていたら、「里穂ちゃんも俺くらいの歳になればわかるわ。可愛いって意味や」と笑っていた。さっぱり意味がわからない。


 それ以来私たちの晩餐は途切れることなく続いている。約束通り、火曜日と金曜日。晴れでも雨でも曇りでも、柳さんは必ず夕方には戻ってきて夕飯を作ってくれて、私たちは一緒に手を合わせた。


 美味しいご飯を口いっぱいに頬張る。

 あの日、部屋の隅にあった棚の引き出しがわずかに開いていて、むきだしの札束がいくつも乱暴に突っこまれていたことに気付かないふりをしたままで。







 柳さんがフライパンで鯖を焼いている横に座りこんで、模試の結果とにらめっこする。今日返されたばかりのそれには私の実力がグラフ化されていた。


「で、どうやったん? 俺にも見せてや」

「駄目でーす」

「まあ上からやし見えるけどな」

「ずる!」


 ニヤニヤ笑って覗きこんでくるので覆い隠した。とはいえ柳さんに隠しても仕方がないからさっさと手渡す。斜めに目を通した柳さんは、ははっと短く声をあげた。


「理社が死んでるやん!」

「だってまだ春だよ? 今暗記したって、受験のころには忘れてるじゃん」

「あんなあ、記憶いうんは短期記憶と長期記憶があるんや。いきなりバーッって詰めこんでパッと忘れてしまうんは短期記憶。それやと意味ない。何回も覚えて忘れてを繰り返して、それでようやく身につくんやで」

「えー……」


 ごくまともな説教を食らった私は冷蔵庫にもたれかかった。マグネットが背骨に当たって少し痛い。


「でも志望校判定見てよ、今でもBだよ」

「そりゃ自分から低いところ選んでるからやろ。今時点でBのとこはあかん、あと2つは上げとき。滑り止めは――いらんか」

「いらん、いらん。私立なんて受かっても入れないよ」

「最終的に安全圏狙うにしても、今はあえて高めに設定しとくんが正解や」


 もうじき魚焼けるからご飯よそって、と言われたのでしゃもじを掴んだ。床に直置きの炊飯器から二人分盛り付ける。ちなみにこの炊飯器、時刻設定がバグったまま治せないので予約機能が破綻しているのである。


 今日の献立は鯖ときんぴらごぼう。

 いただきます、と手を合わせる。


「里穂ちゃんは将来何になりたいとか考えてるん?」

「うーん、あんまり?」

「大学進学するんか、専門行くんか、それか高卒で働くんか――行く高校でだいぶ変わってくるで。今から考えても早ないわ」

「別にやりたい仕事なんてないしなあ。公務員とか安定してそうだなって思うけど」

「公務員も大変な仕事や。向き不向きもあるし、誰でもなれる職業やないよ。ちゃんと自分のことイメージして考えんと」

「だったらさ――」


 私は無意識のうちに言葉を区切る。今がチャンスだと思ったのだ。何も教えてくれない柳さんのことを自然な流れで訊けるチャンス。

 一瞬、心臓がドクンと脈打つ。それを隠すように平然とした顔で続ける。


「柳さんはどうして今の仕事選んだの?」


 ワンルームには換気扇の回る音が響いていた。柳さんは箸を持つ手をわずかに止めた。一秒にも満たない動揺。でも彼はいつもの表情を崩したりせず、柔らかな目元を細める。


「せやなあ、成り行き」


 鯖の骨を丁寧に取りのぞきながら彼は言った。そんな返事では満足できない私は、乾いた唇を動かして追撃する。


「柳さんは、なんの仕事をして――」

「里穂ちゃんは俺みたいな大人になったらあかんよ」


 優しく、諭すように。

 柳さんはそれだけ言って「今日の鯖、脂のってて美味しいわ」と目を輝かせる。わざとだ、と思った。今わざと私の言葉を遮ったんだ。わかっていても、こんなことされたら私は続けられない。明らかな拒絶だったから。


 柳さんは自分のことを何一つ話さない。一緒にご飯を食べるようになってからもう半年以上経つのに、何も。

 黙りこんでしまった私に手を差し伸べるように、柳さんは「ふりかけいる? 今日買ったやつあるんやけど」と戸棚を開けた。


「……鮭かわかめなら欲しい」

「残念、おかか」


 じゃあ俺食べよかな、と彼はシンクの下からふりかけを取り出した。







「あっ」


 夕飯の洗い物をしている最中、私は声を上げた。ベランダの窓を開けっぱなしにして煙草を吸っている柳さんが「え? なになに?」と振り返る。


「……絶対今日までに郵便局で出さなきゃいけない書類、忘れてた……」


 水流がシンクで跳ねる。さーっと体温が下がっていくのがわかった。私は両手についた泡を洗い流すと、近くにかけてあるタオルで拭った。早足で玄関に行って靴を履く。


「ちょい待ち。それほんまに今日中なん?」


 柳さんが立ちあがるのがわかった。私は振り返らないままでドアチェーンを外す。


「消印が今日までなの! ママに頼まれてて」

「そのへんの郵便局はもう閉まってるわ。行くんやったら中央郵便局やないと」

「たぶん九時までだよね、今から自転車で飛ばせば間に合うかな」


 頭の中ではいろんなことがぐるぐる回っている。ほとんど混乱したまま柳さんの部屋を出ていこうとすると、ぱっと手首を掴まれた。気づいたら柳さんがそこにいて、私を見下ろしていた。


「女の子がこんな時間に一人で出歩いたらあかんよ」


 電気のついていない暗くて狭い玄関、柳さんは静かにそう言った。思考は一瞬だけ止まって、足が動かなくなる。大きな影が覆いかぶさっていて、ふと見上げる。たぶんとっさだったのか、掴まれた手首が少し痛かった。


「……俺のバイクに乗せたげるわ」


 柳さんは思い出したように距離を取った。部屋に戻って小さな戸棚を開ける。中にはカードが大量に詰まっていて、彼は一番上から運転免許証らしきものを取った。


「里穂ちゃん、ダウン着といで。あと手袋もいるわ」

「し……四月だよ、今」

「ええから」


 言われたとおり自分の部屋に戻って、奥にしまいこんだばかりの白いダウンを羽織った。手袋もはめてドアを開ける。柳さんはもうアパート下の駐輪所でバイクにまたがっていた。エンジン音が低くうなる。


「これヘルメット。ちゃんとかぶって」

「うん」

「バイクの後ろ、乗ったことないよな?」


 私は頷く。


「ここにタンクあるやろ、これ膝で挟むようにして座って」

「ど、どこ持てばいいの」

「片手で後ろのバー掴むんがええんやけど――里穂ちゃん小さいしそれも怖いか。そうやな、両方とも俺の身体に回し」


 恐る恐る、彼の腰のあたりの上着を掴んだ。布地をぎゅっと。柳さんは「それやと死ぬやろな、振り落とされて」と笑った。


「こう、ちゃんと持って」


 今度はほとんど力をこめず手首を掴まれて、私の腕は彼の身体に回された。全身で彼の背中に抱き着くような恰好になったから、私は思わず肩を力ませる。柳さんは細身だけれど、こうしてみると大きな身体で、骨がごつごつとしていた。


 行くで、と彼は一声かけてから発進させた。バイクは夜の風を切りながら走る。自転車とも車とも違う感覚だ。ばさばさとなびく髪、全身の熱をあっという間に冷やしていく寒さ。確かにこれは振り落とされそうだ、と私はしっかりとしがみついた。「体重のかけ方、上手やで」と柳さんは大きな声で言った。


 いつもは車通りの多い道だけれど、今はほとんど見かけなくて静かだ。バイクのエンジン音だけがよく響いていた。なんだかとても心地よくて、気付いたら口角が上がっていた。


 長い赤信号に掴まって、柳さんは「どう?」と振り返った。


「ダウン着といてよかったやろ?」

「すっごく寒いね、冬みたい。でも楽しいよ」

「もっと温かなったら風が気持ちいいんやけどな。海岸沿いとか、ほんまにええよ。潮の匂いがしてな、ずーっと長い道を走るんや。信号もほとんどないから止まらんとな」

「いいなあ――」


 柳さんは少し黙って、それから続ける。


「また、行ってみる?」


 私は小さく声を漏らしていた。柳さんがそんなことを言い出すなんて思ってもいなかったから。


「行く」


 私はエンジン音に負けない声で言った。


「行きたい。連れていって」

「そっか。じゃあ今度な」

「約束だよ」


 信号が変わる。バイクが前に進みだす。


「絶対、約束だからね」


 柳さんの身体に回した腕に力をこめる。顔をうずめる。柳さんが返事をしてくれたのかは風とエンジン音でよく聞こえなかった。







 金曜日、いつもの夕食の日。五時に柳さんの部屋のインターホンを鳴らしたけれど、珍しく留守にしているようだった。


 私は首を傾げたけれど、まあそういう日もあるだろうとドアの前で待っていた。おかしいなと思い始めたのは、夕食を作り出す六時になっても帰ってこなかったころだった。


「…………?」


 柳さんが戻ってきたのはそれから三十分経ってからだ。カンカンと階段を踏む音が響いて、彼は姿を見せた。左頬を真っ赤に腫らして、血をこすったような跡をつけたその姿を。


「や、柳さん。それどうしたの」


 彼はひどく怖い顔をしていた。何もかもを凍てつかせるような冷たい目で私を見て――そしてすぐにいつもの柔らかな顔に戻る。


「ちょっとな」


 ちょっとって、何。

 私が口をぱくぱくとさせているうちに彼はドアの鍵を取り出して開ける。入っていいよ、と無言で示されたけれど私は動けなかった。結局柳さんが先に入って、私は後から続く。


「今日はスーパーで買ってきた天ぷら乗せて、天丼にするわ。それでええ?」

「そんなことより、怪我」

「冷やしといたら大丈夫やろ」

「病院、病院行った方が――」


 頬は目を逸らしたくなるくらい赤く腫れている。指先で撫でるだけでも痛みそうだ。彼は「座っといて。俺、ちょっと顔洗って消毒するわ」と軽く言って、風呂場へ入った。


 柳さんはああ言ったけれど、ただごとでないことはわかった。手が当たったとか、そんなレベルの腫れ方ではないのだから。やっぱり病院に行くべきだと思う。


「保険証……」


 彼がカードをどこにしまっているか、私は知っている。あの小さな戸棚の引き出し。

 シャワー音がかすかに聞こえるなかで、私はゆっくりと近づいていき、引き出しの取っ手に指をかける。呼吸が少し乱れる。


 ――柳さんのことが知りたいだけ、と言われれば否定できなかった。


 もちろん心配だ。あんな腫れ、冷やしただけでどうにかなるはずがない。たぶん血を抜いてもらったりしなきゃ駄目だと思う。

 でもそれは言い訳でもあって、彼のことが知りたかった。だって私は何も知らないのだ。どこで何をしている人で、何歳で、彼のフルネームすら。


 嘘と本音が溶けあって、混ざる。

 ゆっくり、引き出しを開ける。

 カードの山。人差し指でそっとかき分ける。


「ない……」


 スーパーやドラッグストアのポイントカードばかりで、保険証らしいものはどこにも見当たらなかった。彼のことがわかりそうなものといえば、運転免許証くらいで。裏返しになったそれを指でつまんで持ち上げる。

 唾をのみこんで、ひっくり返す。


「え――?」


 まず目に入ったのは顔写真。青い背景に今より少し若い彼が写っていた。それから名前を見た。そこにあった文字は、本田柳。


 柳って、苗字じゃなくて名前だったの? 


 いや、そんなの普通苗字だと思うじゃん。私は目を見開いたまま数秒フリーズしてしまった。思考が飛んでいた。だからいつの間にか水音がしなくなっていたことも、風呂の引き戸が開いたことにも気付かなかったのだ。


「何、してるん?」


 淡々とした声だった。

 手元に影が落ちて、私は全身を硬直させる。背後、彼が立っているのが気配でわかった。答える私の声はわずかに震えていた。


「保険証、探した方がいいと、思って」

「そんなん持ってへんよ」


 無保険やし、と彼は続ける。


「人のもん、勝手に触ったらあかんやろ」

「ご、ごめんなさい……」


 振り返れない。両足がすくんで、息が詰まって、呼吸音さえたててはいけないような気がして。背後から腕が伸びてきて、私の手から運転免許証を取り上げる。


「余計なことは知らんままの方がええ。里穂ちゃん、俺この前言うたよな? 俺みたいな大人になったらあかんって」

「う、ん」

「人間関係いうんはな、踏みこみすぎたら簡単に壊れるんや。薄い氷みたいなもんやから。せやから知ってても知らんふりして、気付いてても気づかんふりする。そうやって茶番続けていくしかないんよ。……里穂ちゃんも薄々わかってたんやろ」


 声がでなくて、代わりに頷く。


 柳さんが普通の人じゃないって最初からわかっていた。わかっていたけれど、一緒にいるのが楽しくて、いつの間にか私の一番心地いい時間になっていた。

 なのにそれだけじゃ満足できなくて、彼のことがもっと知りたくなっていた。もっと、もっと、全部。一度拒絶されたはずなのに。彼が引いた線を私は飛び越えた。


 彼は引き出しを静かに閉めて「ごめんな」と呟いた。


「怒ってへんよ。せやから泣かんでええ」


 嗚咽を漏らさないようにしているのに、両目から涙がぼろぼろこぼれ出る。柳さんはいつもの優しい声で「里穂ちゃんはええ子やってわかってるよ。ちょっと魔が差しただけやんな」と慰めるみたいに言った。


「でもそれで人生狂うときもあるんや」


 それはまるで自分に言い聞かせるような言葉だった。柳さんはゆっくりと離れて、いつものように夕飯の支度を始める。私たちが夕飯を一緒に食べたのはその夜が最後だった。







 二日後、柳さんは突然姿を消した。


 私が下校したころにはもう部屋が引き払われていたのだ。

 下の階のおばあさんは「急に若い男が数人やって来てね、家具やら何やら全部トラックに乗せていったのよ」とまくしたてるように言った。大家さんも詳しいことは何も聞いていないらしい。


 柳さんの怪我がどうなったのか、今どこで何をしているのか、そもそも生きているのか――疑問は尽きない。でも私は柳さんの連絡先なんて知らないのだからどうしようもない。


 春が過ぎて夏になって、秋がきて、冬に。季節は一巡して、いつの間にかもう一巡。私は高校二年生になった。指定のブレザーは県内の進学校のものだ。ねえ柳さん、私、あれから受験勉強頑張ったんだよ。


 私は相変わらずあのボロアパートに住んでいる。カラスが鳴くなか、ゆっくりと外階段を上っていく。柵にもたれたまま片手を振って、「おかえり」と言ってくれるあの声が聞こえればいいのにな、と回想しながら。


 柳さんなら「期待するぶんには自由やからね」と遠くを見ながら、煙草を吸うのだろうけれど。

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