日常になれない日常譚
陰陽由実
日常になれない日常譚
ある、少しばかり風の存在を感じる日のことだった。
私がそのバスの中でぼうっとしていると、ふと視界の端に小さく動く点を見留めた。
それは私の袖をちょこちょこと這う羽蟻だった。数ミリ程度の、本当に小さい羽蟻で、私は何とも思うことなくいつもそこらの虫を殺すように、その羽蟻を指でつまんで潰して、そのあたりへ弾いておこうと思った。
しかし少し力が弱かったらしい。
開いた指の中には内臓が潰れたりせず、綺麗な形を残したまま、生きる気力をギリギリまで削がれてなお生きているそれだった。
足を少しばかりばたつかせるだけ。羽は飾りと化したらしい。触覚は機能しているかどうかも怪しい。
それでも動いているということは、少なくとも死んではいないということらしい。
私はその死にぞこなった羽蟻の、小さな羽を持ち前の器用な指先でつまみ上げた。
親指と人差し指で羽をもいでしまわぬように。
一度は殺そうとしたにもかかわらず、その命を尊ぼうとするかのように。
指先で、その羽蟻の後ろ足をちょいちょいと触れた。
どこにそれほど動かせる気力とエネルギーを残しているんだと思うほどによく動く。
前足あたりの方はあまり動かないので、少なくとも後ろ足を動かす筋肉だとかは欠損しなかったのだろう。
それでも人間が同じような状況になったとて、ここまで動かすことはできるだろうか。
まず動こうなどとは思わないだろう。
もしこの羽蟻に私の手から助かる方法があったなら、それは実に神頼みと偶然を願うしかないのだろう。
私がついうっかりそれを取りこぼして見失ったり、私が親切心を起こしてそっと逃してやったり。
はたまたあまり現実的ではない方法を期待するか。
他に私が思いつかないだけなのか。
とにもかくにも、笑ってしまうほどに絶望的であることは間違いあるまい。
私は元々、どんな状況下に陥ったとしても良い方向に向けることができる方法を、神は常に与えていると考えていた。
ただ、人間がその方法に気付けなかった場合に破滅を迎えるのだと。
しかしこの羽蟻の場合はどうだろう。
全くもって、完全に運命を私に左右されているではないか。
ということは、私の少しばかり乱暴な仮説はこの小さな1匹の羽蟻ごときに否定されてしまったということである。
それともこの仮説は人間にのみ適応されるものなのだろうか?
何にせよ、私がこの瞬間に否定をくらったのは事実である。
私は羽蟻の羽を手放し、手のひらに落とした。どうやらまだ立つことはできるらしい。
しかしいくらつついても歩こうとはしない。
私の手のひらを掴んでいるだけで精一杯のようだ。
試しに手のひらをひっくり返してみても落ちなかった。
この羽蟻はまだ少しばかりは元気らしい。
それとも私が物思いにふけっている間に回復でもしたのだろうか。
そうこうしているうちにバスは私の目的地に着いた。
私は邪魔になってしまった羽蟻を手のひらから適当に、実に無造作に払い落としてバスを降りた。
日常になれない日常譚 陰陽由実 @tukisizukusakura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます