祭りの日が来た。越冬の無事を祈るための儀式が行われる。檻に閉じ込めておいた猿を磔にして、日没と共に山に還すのだ。身を裂いて取り出した腸は丁重に埋め、皮は持ち帰ってお守りにする。肉は汁物にして村人に振る舞われるのがならわしで、長い寒を耐え凌ぐためのごちそうだった。


 要は、殺してしまうのだ。


「神様」を磔にする役目は、当然のように僕に回って来た。


 大きな木製の枷を牽きながら、社の離れに入る。今日もこれを付けてもらえますかと暗がりに尋ねれば「ああ、かまわないよ」と猫撫で声の返事が帰ってきた。ひと月ほど前から繰り返し、枷を付けることに慣れさせていたのもあって、疑問を挟むそぶりは見せなかった。


 猿は思った以上に従順だった。戸の閂が朽ちかけたままに放って置かれてあるのも、やつが自分から素直に離れの中に入っていったから。いつも窮屈そうにして、僕が訪ねてくるのを待っている。この一年ほとんど暴れることがなかったのだ。唯一の例外は神主が僕を折檻しようとしているのがバレたとき。この怪物はそっと神主を握り潰した。「おれはおまえのにいさまだからね。いじめられたらすぐにいうんだよ」と血や肉片に塗れた手に撫でられたのを覚えている。それ以外は本当に大人しかった。村の大人たちが「思慮深い、よほど位の高い猿神なのだろう。はぐれ者の倅が立派になったものだ」と、ことあるごとに囁き合うほどである。


 人喰いの化け物のくせに、僕の庇護者を気取っていたのだ。


「おとうと」


 猿は僕の名前を呼ばない。知らないのだろう。兄さまがいなくなってからは久しく誰にも呼ばれなかった名だ。こいつも兄さまの記憶までは奪えなかったのだと思うと、少しだけ溜飲が下がったような気になれる。


「おまえもたべるといいよ。たくさんたべて、おおきくおなり」


 いつものことのように、毛むくじゃらの指は僕の両手に果物を落とした。猿は村人からの捧げ物を僕に分け与えようとする。神主に見つかれば鞭打たれるが、あいつはもういない。腹も空いているのでありがたく貰っている。おかげでひもじい思いをすることは減った。


 いつか殺してやると、兄さまの仇を取ってやると思っていたのに。


 日が傾き始めた。


 磔にされた猿たちを担いで、男衆は村を練り歩く。村人たちのただならぬ様子を察したのか、いくつもの鳴き声が噭噭と、耳障りなほどに響いている。その中にあって、丸太の十字架にかけられた大猿は静かだった。


 斜陽は朱く社を染めて、男たちや猿の顔を影に塗り潰す。祭礼のための装束を着せられた僕は、祭壇の奥でうろおぼえの呪文を唱えていた。もともとそういう役目を務めていた神主が死んだのだ。だからと言って、猿怪の身の回りの世話をしようという者は他に出ず、今年の儀式だけは僕が執り行うこととなった。とはいえ、大人たちに言われた通りに動くだけで、何か特別な権限が付くわけではないのだが。


 やがて諸々の段取りが終わると、神主の従弟が僕の背中を小突いた。急かされるようにして祭壇に上る。そこには大猿が横たえられていた。兄さまの顔をして、兄さまがしないような、綺麗な微笑みを浮かべて。


「おとうと」


 返事はしない。


「おれはいまからころされるのだろうか」


 少しもたつきながら化け物の体をよじのぼる。


「おれのかわいいおとうと」


 片手に短剣を持っているせいで、上手く腰の瘤を掴めないのだ。


「もしそうなら、おれのことはおまえがたべてくれ」


 転ばないように気を付けながら、胸元まで歩を進める。


「おれはおまえのにいさまをたべたよ」


 そうだろう。じゃなきゃ、猿が兄さまの顔をするはずがない。


「まかされたんだ」


 刃を両手に握って振りかざす。


「おれのかわりに、おとうとをたのむって」


 嘘だ。


「だからおれのことはおまえがたべておくれ」


 うるさい。


「ぜんぶ食べて、大きくなるんだよ」


 黙れ。


「もういじめられたりしないように、ばかにされたりしないように」


 惑わすようなことを言うな。この期に及んで、兄弟ごっこを続けるつもりか。


「おれのかわいい弟」


 振り下ろす。何度も。何度も。「いたい、痛い、痛い」ようやく毛皮に穴と言えるようなものが開いて、それを必死に抉じ開けた。悍ましい色だ。僅かに緋を含んではいるけれど、ひどく濁っているせいで違う色に見える。「弟、弟、痛い、弟、痛い」ようやく腹に届いた。切れ目はがたがたで、左右に行ったり来たりする。「おとうと、おとうと、おれの」剣の切れ味が鈍ってきたのか、ちっとも進まない。息も上がってきて、少し休もうと顔を上げると、


 そこには顔をくしゃくしゃにして苦しむ兄さまがいた。まるで笑っているみたいだった。今更、そんな表情かおをするのか。今更、お前が。


「僕は、お前のことを兄だなんて思ったことは、一度もない。お前なんか大嫌いだ。死んでしまえ。その口を閉じて死ね。お前が兄さまを殺したんだろ。なら、人喰いの化け物らしく、化け物でいろよ。お前なんか」


「ごめんね」


 優しい声が聞こえる。兄さまの声。下手くそな猿真似の。憎い。


「おれ、へただったのか。ごめんよ。おまえのにいさま、できなくて」


 それはやがてか細く、途切れ途切れになっていく。


「おれのかわいいおとうと」


 多分、最期はそんなことを言おうとしたのだと思う。顔はもう、夜闇で見えなかった。

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