猿(ましら)

藤田桜


 それは境内の離れに閉じ込められている。中へ供物を捧げに入るのは僕の仕事だ。朽ちかけた閂を外し、窓もない暗闇の奥、鎮座する「神様」に跪く。僕に気付いたのか、見上げるほどに大きなそれはゆっくりと姿勢を変えた。


「おれのおとうと、きょうもきてくれたんだね」


 俄かに顔が近づく。神様の顔が。生気のない、まるで面のような色合いの肌に、優しげな微笑が貼りつけられている。ぞっとするような美しさがあった。そのつくりはいなくなった兄さまに瓜二つで。でも、兄さまはそんなふうには笑わない。兄さまはそんな上手に微笑めない。整った顔をくしゃくしゃにして、生まれたての赤ん坊みたいに笑うはずなのだ。


「いじめられてないかい。ひもじくはないかい。なにかあったら、すぐおれにいうんだよ」


 化け物は毎日、僕が訪れるたびに同じ問いかけを繰り返す。声まで兄さまにそっくりだった。でもやっぱり、似てるだけで、兄さまじゃない。胸の奥でいらだちが燻るのが分かった。それを必死に抑えつけて、はい、承知しております、となるべく無感情に答える。するとそれはよりいっそう莞爾と笑って


「よかった」


 と呟くのだ。


 神様は去年の冬、この村にやってきた。人面の、平屋を見下ろすほどに巨大な猿で、そいつは数年前に失踪した僕の兄を名乗った。嘘に決まっている。人に化けられるのは人を喰らった獣だけだ。


「おれのかわいいおとうと、おれはおまえのためにかみさまになったんだよ」


 だが、大猿はすぐに村へと受け入れられた。猿は神様の使いだから。村民の家には必ず一つは檻があって、そこで猿を飼う。毎日大事に拝んで、年に一度の祭りの日に、山の神様のところへと返すのだ。そういう習わしがあったから、村の誰もそれの言葉を疑わなかった。


 お気に入りだということもあって、村の大人たちは僕に神様の世話を言いつけた。さすがに怖かったのだろう。牙はなくともあの大きさだ。軽く暴れただけで、人間の一人や二人たやすく殺してしまえるのではないか。お社の離れに押しこんで、身寄りのない子供に仲立ちをさせる。何代もの昔から猿と共に暮らしてきたのだ。その獰猛さを知らないわけがない。当たり前の対応だった。


 そのために僕は神主に引き取られた。兄さまと二人で住んでいたあばら屋は引き払われ、今では草叢の中で朽ち果ててている。それを聞いても、猿は止めなかった。


「うん、ちかくにすむのがいいね。おれはおとうとのにいさまなんだから」


 父と母の形見でもある、たった一つの帰る場所だったのに。猿は「そこはおれがはいれるくらいひろいだろうか。おとうとといっしょにすめないなら、あったってしかたないからね」とだけ言うと、興味をなくしたのか、僕の髪を指で弄んでいた。


 猿はしきりに毛づくろいを求めてくる。その度に僕は両手を使って身の丈の何倍もあるような化け物に触れた。またこの怪物は、木の幹のように節くれだった指で僕の髪を梳かそうともするのだ。吐き気がした。兄さまを喰い殺し、兄さまに成り替わろうとする仇の体温に絆されているようで。


「おとうと」


「何でしょう」


「しあわせかい」


「いいえ」


「ひとはあたまをなでるんだろう。おれはおまえのにいさまだから、しっているよ。あたまをなでたり、なでられたりすると、ひとはしあわせになるそうだね」


 僕は答えなかった。お前が兄さまと同じなのは、顔と声だけだ。その指は兄さまどころか人間にだって似つきやしない。黒ずんで、おびただしい毛に覆われている。


 これは、けだものの手だ。

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