Case:1 逆手の辻の子安地蔵
風がやんだ。
先ほどまで花の視界を赤一色に染めていた彼岸花の花弁は、
急に勢いを失ったようにはらはらと舞い降りる。
目の前に、手をつないだこうたと少女が立っていた。
「あの女を呼んだつもりじゃったのに、とんだ外れを引いたものじゃ」
少女のしわがれた声が響いた。
「いつまで印を結んでおる。邪魔くさい」
少女に顔をしかめられ、戸惑う花に陽明の声が響く。
「もう手を放していいぞ」
「陽明、こっちの様子が見えるの?」
「ああ、お前の目で見て、耳で聞いてる。手出しはできねえが口は出す」
陽明が言うと、はっ、と少女が短く笑った。
「狐窓なんぞ小癪なことを。あの小僧の入れ知恵か」
少女には陽明の声が聞こえているようだった。
花は組んでいた手をそっとほどくと身体の横に下ろす。
スマホも制服のポケットにしまったが、
まるで直接頭の中に語り掛けるように、変わらずに陽明の声は聞こえていた。
「小僧で悪かったな」
脳内で陽明の声が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「あ、あの!」
花が声をあげる。
花は少女とこうたに向き合った。
よく似た二人の瞳が同時に花を見上げる。
「こうた君を返してほしいの」
「できぬ」
「どうして!」
「できぬものはできぬ」
少女はすっと目を細めた。
「でも、でもあなたがこうた君をこんなところまで
さらってきたんでしょう?!」
「それは違うぞ、花」
否定したのは陽明だった。
「……どういうこと? だってこの子がこうた君を境に連れてきたんだよね?」
「いや、前に遭った時言われた通りだ。
捨てられたんだよ、そのこうたって子どもは。
少なくとも、そちらにとってはな」
花は訳が分からないというように首を振った。
陽明の声は続ける。
「花、そちらは逆手の辻の子安地蔵だ」
あ、と花は小さく息を漏らした。
あの屋上デパートに建っていた、小さな祠を思い出す。
「え、でも、子安地蔵って子どもの安全を祈るお地蔵さまだよね?
それがどうしてこうた君をさらったり……」
「だからさらったんじゃない。拾ったんだ」
「拾ったって、こうた君はただデパートで遊んでただけで……」
声の向こうで、陽明がうなずく気配がした。
「辻には昔から身体の弱い子どもなんかを捨てる風習があったんだ。
あの世とこの世の境目である辻に一度捨て、
それを拾うことで『生まれ直し』をなぞっていた」
子安地蔵は何も言わない。
陽明の声が続く。
「その子どもは母親とのつながりが希薄になっていた。
お前の言う「繋がりの糸」ってやつだ。
そんな状況で、そいつはあの祠に近づくか触るかしたんだろう。
『辻に捨てられた子ども』になるには十分すぎる条件が揃っていた」
陽明はそこで区切ると、言い切った。
「だいたい、子安地蔵が子どもをさらうなんてありえねえんだよ」
花は信じられない気持ちで陽明の声を聞いていた。
目の前に立つ少女――子安地蔵は、真っ黒な瞳でじっとこちらを見つめている。
幼い手が、こうたの手をしっかりと握っていた。
「でも、じゃあ……」
「そもそも、巻き込まれたのは、そちらの方なんだ」
「え……?」
花はさらに困惑した表情を浮かべる。
「あのデパートの取り壊しに伴い、あの祠も廃されるのが決まってた。
あの荒れ方を見るに、もう参拝者もいなかったはずだ。
参る者、信ずる者がいなければそれはないのと一緒だ。
祠が消えればいよいよ誰の意識にも、
そこに子安地蔵があったことなんて残らない」
少女は黙って陽明の言葉を聞いている。
黒い瞳からはどんな感情も読み取ることができない。
そもそも、この少女に感情というものがあるのか、花には分からなかった。
「誰の意識にも存在しない者はこの世にも存在しない。
だから通例通り消えるはずだったんだ。
そこに、その子どもが干渉した」
「干渉……」
花が呟く。
陽明は、ああ、と言うと続けた。
「それをきっかけに境が開いたんだろう。
この世に留まるか、あの世に落ちるか、
それはどちらに強く引かれているかで決まる。
お前の言う「糸」ってのは、この世にその存在を引っ張る力の一種だ。
それが細く、切れかけていれば、その存在はあちら側へと大きく傾く。
それは人間も、人間の想いに支えられる存在も一緒だ」
花はごくりと息を飲んだ。
「そうして迷いこんだ。境に」
陽明の声は冷たく響いた。
「じゃあ、こうた君はどうやったら帰れるの?」
「条件は前に言った通りだ。
帰りたいという願いと、辿ることのできる縁」
「帰れないよ」
こうたの口が動いた。
「僕は帰れない」
うつむいたこうたの表情は読めない。
ただ、赤く濡れた唇だけが無機質な言葉を紡ぐ。
「お母さんは僕のことなんか気にしないもの」
花は反射的に口を開いた。
が、そのまま何も言えずに唾をのんだ。
なんて声を掛ければいい? こうたの言うことは事実だ。
母親はこうたのことを心配もしていなかった。
花はあの母親の態度に、少なからずショックを受けていた。
親が自分に何の関心も抱かない、ましてや触れることさえ拒まれる、
そんな環境でこうたが今までどれだけ傷ついてきたのか、
花には想像も及ばない。
「誰も僕のことなんか必要としてない」
こうたの言葉はよどみない。
淡々と、まるで機械仕掛けのように言葉が紡がれていく。
花にはそれを止めるすべがない。
感情の起伏のない、平坦なこうたの声。
「お前はどうなんだ」
陽明の声がした。
花ははっと顔を上げた。沈みかけていた心がふっと浮き上がるのを感じる。
「お前はどうしたいんだ」
こうたの瞳がかすかに揺れた。
「僕は――」
こうたの唇が震える。
それまでの無機質な言葉とは違い、
吐き出されるのを抗うかのように言葉が揺れる。
「時間切れだ」
ぽつり、と少女が呟いた。悲しげな声だった。
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