過ちの回廊

堕なの。

過ちの回廊

 目を覚ますと、美術館のような場所にいた。しかし、一目でここは現実ではないと分かる様相をしていた。当たりは真っ暗で、絵画の周辺だけが光源もないのにぼんやりと光を発している。そして何より、その絵は宙に浮いていたのだ。


 一番近くにあった絵に近づいてみる。それには、絞首台に掛けられた男が描かれていた。背後に描かれた街や、男の服装などから、中世であることが推測できる。

「ふざけるな、俺は何もやっていない!」

 どこからか声が聞こえる。声は、まるで体育館の中にいるような響き方をした。しかし誰が叫んでいるかなど、一目瞭然であった。目の前の絵画の中にいる男が身体を左右に振って何とか逃れようとしていた。だが首を抑える板は硬く、逃げられる可能性は1ミリもない。

「俺は嵌められたんだ。アイツが全部悪い。だから待ってくれ」

 描かれていない民衆から石が投げられ、ブーイングが飛ぶ。男の静止も虚しく、その首は地面に転がった。

 その瞬間、初めの絵に戻った。辺りには静寂が訪れ、空気は何も無かったかのように振舞っている。その場に居ても何も変わらなそうなので、また近くにある絵の傍に移った。

 男の絵は静かに明かりを落として、そして暗闇に溶けていった。


 次の絵は、食器を洗っている女の絵だった。くすんだ色の服を着て、あかぎれた指先を冷水に浸している。自分の手をギュッと握りしめれば、微かに刺すような痛みが走った。

「仕方ねんだ。あん人は正義感が強かった」

 食器を洗う手を止めた。諦めと、それでも拭いきれない悲しみのこもった声だった。伏せ目がちな目は、何かを憂いてるようにも思う。

「正しさ、と優しさは違う言うてんのに、一切耳も貸さんで。突っ走るからやんなぁ」

 微笑を浮かべた女性は、また手を動かし始めた。そして絵は動かなくなる。


 次の絵に移動すれば、今度は共同墓地に佇む一人の少女がいた。年齢は12歳ほどで、まだあどけなさが残る顔つきをしている。しかし顔には疲労が浮かび、目の下にはくっきりとした隈がついている。どことなく、顔色も悪そうに見える。

「事故だったの?」

 不安定で、どうすればいいのか分からない迷子の声だった。目からは一つ、一つと雫が零れ落ち、地面に染み込んでいく。

「じゃあ何で、逃げるように引っ越したの?」

 自分の中の疑問を、お墓の中にいる誰かにぶつけているようだった。この時代の主流の考え方だったのか、それとも彼女が何かに縋りたいだけなのか。しっかりと勉強してこなかった私には、判断がつかなかった。

「お父さんは、ここにいるの?」

 遂に、女の子は声を上げて泣いた。膝から崩れ落ち、頭を地面につけて、醜聞など何も気にせずただただ泣いた。その声が、酷く耳に木霊した。嫌なことを思い出すようで、この絵を見ないように目を背けて耳を塞いだ。

 声が聞こえなくなってから恐る恐る目を開けると、また絵は戻っていた。


 次の絵は人ではなく、明かりの漏れる家の絵だった。それは今までのような痛みを包含する絵ではなく、幸せな雰囲気に包まれていた。

「明日も仕事?」

「いや、違うよ。明日は久しぶりに家族みんなでどこか行こうか」

「そうね。楽しみだわ」

 それは、さっき聞いた3人の声だった。あの3人は家族だったのだ。ここには、男が処刑される前の幸せな日常が描かれていたのだ。

「これおいしい!」

「そう、良かった」

 笑い声が溢れる家族。在り来りな幸せの中で、確かな幸せを掴み取った人たち。そんな、この先に起こることを知らない家族は、一時の団欒を過ごしていた。

 音が止まった。絵からは生気が感じられなくなっている。動いている瞬間だけ、この絵の中の人は生きているのだろう。そして、この絵が止まることと同時に、その存在を消している。

 このままここに居ても何も進まないので、また別の絵に移った。


 次の絵には、胸ぐらを掴んで殴り掛かっている貴族の男と、怯えているメイドがいた。

「俺に恥をかかせるつもりか!」

 怒りと羞恥に震えた様が酷く滑稽で、そして恐ろしい。この男は、愚かしく不完全な人の様を体現しているように思えた。

 メイドはガタガタと身体を震わせ、涙を必死に隠している。彼女以外のメイドはこの光景を遠巻きに見ているのか、絵の中には描かれていなかった。

「申し訳ありません。そのようなつもりはございませんでしたので、どうか御容赦を」

 必死に謝り続ける女もまた、半狂乱の様子で、まともな人間などこの絵の中には誰もいないように思えた。

「うるせぇ」

 その瞬間、男は上げていた拳を振り下ろした。バキッという痛々しい音が鳴って、その瞬間絵は戻った。心臓がバクバクいっている。さすがに殴るとは思っていなかった、なんて通じない考え方なのだろう。まだ動悸の収まらない胸を抑えながら、その絵から離れるように移動した。その絵は暗闇にとろりと溶けて、霧散してそこら一帯に漂った。


 次の絵は、牢屋に入っている男の絵だった。見間違いでなければ、一番初めに絞首台に掛けられていた男と同一人物だった。そして顔は分からないが、もう一人の男が絵に背を向ける形でそこに居た。服などから衛兵のような仕事に就いていると分かる。

「食事です」

「なあ、俺が悪いと思うか?」

 衛兵は口を噤んだ。何度か口を開きかけ、そして、

「僕には分かりかねます。すみません」

 と言ってどこかへ去っていった。その場には苦笑した男と、靴の遠ざかる音だけが残った。そして、靴の音が消えると同時に初めの絵に戻った。

 衛兵は仕事を全うしただけなのだろうが、それが男の求めていた答えではないことは明らかだった。否定して欲しかったのか、それとも責められたかったのか、その真偽は分からないが、この男にも何か事情があったことは伝わった。


 次の絵には、たくさんの人がいた。それは、活気づいた街の絵だった。果物や雑貨、肉や魚など様々なものが売られている。

 すると、ざわざわと賑やかな街の喧騒を感じる。しかしそこに隠れて、ひそひそと話す声も聞こえてきた。耳を潜めると、その話の内容が聞こえてくる。

「あそこの家の主人、人を殺したんですって」

「あら本当?」

 それは、とある人を殺した男の噂話らしかった。どう考えても平常時より多い衛兵から隠れて話しているところを見るに、あまり聞かれたくない話らしい。

「でも、そんなことする人には思えないわよねぇ」

「というより、死んだのって領主様の家のメイドでしょ?」

 彼女たちの最初の警戒心はどこへ行ったのか、近づいてきている衛兵には気づいていないようである。

「もしかしたらあの馬鹿息子が、なんて……」

 女2人は衛兵に腕を掴まれた。顔が青ざめ、違いますと口にしているが、衛兵の耳には届かない。そして、画面の外へと連れていかれた。

 これは日常なのか、街は相変わらず同じように動いている。一瞥しただけで、皆が普段の動作に戻っていった。そして、絵は動かなくなる。


「あ゛ーーー!」

 耳を劈くような叫び声が聞こえた。急いで、次の絵に近づけば、そこには先程見た貴族の男がメイドを刺していた。真っ赤な血がドクドクと床に流れ、貴族の男の手には飛び血が斑に着いている。

「お前が、お前のせいで……」

 貴族の男はフーフーと鼻息を荒くして、手を震えさせていた。それは怒りから来るものか、人を手にかけてしまった恐怖から来るものか。おそらく前者であろう。貴族の男はメイドの死体を睨みつけている。そして、その目の奥の奥を覗き込んでみれば、そこには侮蔑の嗤いが宿っていた。

「ははっ、ははははっ」

 狂気に満ちた、乾いた笑い。それはこの男の口元を歪ませ、心を闇に突き落とした。領主の息子として生まれ、全てのことが許された。何をしてもその立場が守ってくれた。そんな男が人を殺した。おそらくこれも隠されるのだろう。それは、彼の心に圧倒的な乾きと、充足感をもたらす。籠の中に入れられた鳥が、殺すという快楽を覚える。

 絵が止まった。そこには、腹にナイフを刺された瞬間のメイドと、刺した貴族の男が描かれていた。貴族の男の顔は前髪で隠れていて、その瞬間に何を考えていたのかは分からなかった。


 次の絵は、貴族の家の門の前で講義をしている団体の絵だった。その中にはあの処刑された男も含まれていた。

「税を下げろ!」

「そんなに贅沢するな!」

「もう限界だ!」

 男たちは、この屋敷の主と話に来たらしい。しかし、男たちは次々と衛兵に捉えられ、連れていかれる。抵抗する者もいたが、それを仕事にしている衛兵には適わず、全員逃げられなかった。

「俺たちが何をしたってんだ……」

 失意と嘆き。本心から出たその言葉は、暗い空気を纏って伝播していく。男たちは次々にため息をつき、辺りにどうしようもない空気が流れる。これを断ち切ったのは、あの処刑された男だった。

「あの日決めただろ。どうなったって大丈夫だ!」

 底抜けに明るい声。態と出したということが丸分かりな、角ばった声だったが、その言葉から次第にざわめきは収まっていった。そして、衛兵たちに大人しくついていった。その行き先は牢か拷問か。良くない場所であることは明らかで、項垂れながら行く彼らの面差しは決して良いものではなかったが腹を括った様子だった。

 絵の中がテレビの砂嵐のように入り乱れ、そしてプツンと切れた。真っ黒な絵は、底知れぬ怨念だけが感じられる。この黒は後から塗られたもののようで、その下にあった絵がさっき見たものだったのだろう。手をそっと添えてみた。冷たくて、ザラザラしていた。


 次の絵では、処刑された男が、貴族の男に首を絞められていた。顔は真っ赤になり、苦しそうな様子が伝わってくる。そしてその目に宿るのは明確な殺意だった。見ているだけでも背筋の凍るような、鋭い瞳。それは、貴族の男を射抜くようにして向けられていた。

「お前が手にかけたんだろ。この家に使えるメイドを!」

 ニタァと笑った貴族には、何も響いていないように見えた。真っ暗な瞳は、もう何も映さない。虚ろな景色は映せど、それは言わば鏡のようなもので、映るそれに意味を与えない。それはそこに存在するだけのものになる。

「俺に罪を押し付けて、また人を殺すつもりか!」

「お前の嫁と子どもを殺すのも愉しそうだ」

 貴族は愉悦に浸った顔で、青ざめていく男を見た。やめろという静止など耳にも入らないようで、そのままこの場所を後にした。

 絵が戻る。どこか、初めと変わっているような気がする。そうだ、貴族の男がこちらを向いていた。


 絵から、貴族の男が出てきて首を絞める。

「見たな?」

 その細腕からは想像もできないほどの強い力で、苦しさと無力さに襲われた。男は、何度も乾いた笑いを零している。

「お前ら平民と、俺たち貴族は命の価値が違うんだ。同じなのは、その数だけだ」

 痛みと苦しさで薄れゆく意識の中、なぜ自分がこんなところにいるのか、ようやく思い出した。


 私は所謂陰キャで、クラスの端っこにいるタイプの人間だった。別にそれで何かに困ったことはないし、グループワークのときも誰かを弾くようなクラスメイトじゃなかったから、それなりに充実した学校生活を送っていた。それが変わったのは、市長の息子が転校してきたときからだった。

「ダサいお前にはそれがお似合いだろ。お洒落にしてやったぜ」

 ある日は服を刻まれた。必死に親への言い訳を考えて黙っていれば、気に食わないのか殴られた。

「これ食えよ」

 と思えばある日は弁当の中身を地面にぶちまけられた。それしか食べるものがないからと、地面に這いつくばって食べればアイツらは喜んだ。

「程々にしろよー」

 と、先生も問題にしない。だが、私の心は確実に磨り減っていた。そして、どうしたって我慢できなくなって電車に飛び込んだ。私は死んだのだ。


 意識が浮上する。まだ、あの空間に居た。そして、目の前に一つの絵が飾られている。そこには、ベッドで横たわる私がいた。花瓶に生けられている花が風に揺れ、絵が動いていることが分かる。

「……、なんでだよ」

 それは、親友だった女の声だった。私が虐められてからは、一切話すことがなくなった人間の声。心底ムカついた。こんなときにだけ、ごめんと言いに来るのかと。

「ごめん、ごめんなさい。もう絶対に、絶対に離れないから。約束するから。戻ってきて」

 あの日君が見捨てた時点で、私にとっての貴方の価値なんて消えたのに。今更何を言っているのだろうか。理解出来ないし、したくもない。

「××、ごめんね。気づいてあげられなくて。絶対に守るから、起きて」

 守るだなんて、家でもほとんど会話なんてなくて、私のことなんて何も思ってないくせに。人前だとそんな綺麗事が口から出てくるんだね。お母さん。

 さっきの貴族の男の話からしたら、あの市長の息子の命の価値は高くて、私の命の価値は低いってことになる。でも、そんなことない。私の命の価値だってちゃんとある。でも、それはあの世界じゃない。だから、後ろにぼんやり浮かんでいる扉なんて無視する。私は帰らない。

 私は胸糞悪い絵から、さっさと離れて。次の絵に、何かに取り憑かれたように移動した。

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過ちの回廊 堕なの。 @danano

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