メメント・モリ

成瀬七瀬

 

メメント・モリ








 夜眠る前に、日課をこなす。


 虫かごの中の蛾を眺めるのだ。蛾の名前は無い。体長は羽を広げた時で五センチほど。さほど大きくは無いが羽の模様は美しく妖艶で、鱗粉はきらきらと輝きを放っている。


 蛾を飼い始めたのは最近だ。ふと部屋に迷い込んできたそれを捕まえ、何とはなしに手近な籠に入れてみた。餌は与えていない。なので遠からず此は死に至るだろう。


 それは予行演習のつもりだったのかもしれない。


 私はいつからか、恐らくは子供の頃から、死が恐ろしかった。生きていた命がふっと絶えて、無に陥るのが恐ろしかった。死ぬときは気絶する瞬間に似ているのだろうか。不意に意識が途絶え、真っ暗闇に下降していくようなものだろうか。


 今はまだわからない。


 身近な人々の死も恐ろしい。きのうまで普通に会話をし、笑い合ったりすらしていた相手がいなくなる。消える。残るのは記憶だけで、その記憶もいつかは時間という波に飲まれ薄れてしまう。


 私も死んでしまえばただの過去になる。間違いない事実に押し潰されそうになるのを、どうにか耐える為に私は蛾を眺める。


 蛾は美しい。媚びへつらっていない。自らが自らであるための最低限を保っている。いずれ近い将来死ぬというのを気にしていないように蠢いている。


 この私の部屋で命が燃えている。


「もうじき世界は終わるよ」


 ぼうっと蛾を見つめていた時に、どこからか声が聞こえた。私ははっと我に返り、辺りを見回す。誰もいない。テレビも闇を映し出している。窓の外を覗いてみても、人ひとりいない。


 幻聴か? 私は頭を振った。いけない、死を考えすぎて少し、ほんの少しおかしくなっているのかもしれない。今日はもう休もう。蛾の入ったケースを棚に戻そうとした時、また声が聞こえた。




「ねえ、死にたいんでしょう」 


 それは男とも女ともつかない、不思議な声だった。例えるなら子供の声がしっかりしたような感じ。いや、そんなことはどうでもいい。今のは……。 






「……お前か?」


 蛾に向かって話しかける私の様子は、はたから見たらおかしな奴だろう。だが、蛾は羽根をゆらゆらと動かし、返事をした。


「やっと聞く耳を持ったね。なあ、ここから出してよ。窮屈で仕方がなかったんだ」


 蛾がケースの窓にぺたりと張り付く。私は混乱していた。これはやはり幻聴か? それとも現実なのか? はたまた夢を見ているのか?


 自分の額を拳でぶつ。痛い。夢ではないように思える。悩む私を尻目に、声はけらけらと笑い声をあげた。




「人間は非現実的な事に遭遇すると同じようにしなきゃならない、ってマニュアルでもあるのかい?」


「お前は……喋れるのか? 蛾が?」


「ああ、そうさ。正確なところは蛾ではないが……まあ、良いだろ。説明するより、終わる方が早い」




 そうだ。こいつはさっき気になる事を言っていた。ああ、認めよう。私は声を発する蛾の存在を信じた。何故ならば目の前にいるからだ。




「世界は終わると言ったな? どういう意味だ?」


「そのままの意味だよ。近いうち隕石が墜ちてくる。いや、世界の終わりと言うより人類の終わりかな」


「近いうちって、いつだ」 


「それはここから出してくれたら教えるよ」




 私は迷いなくケースの蓋を開けた。蛾は羽根をひらりと動かし、空中を独特の動きで舞った。




「サンキュー」


「それで、いつ隕石が墜ちてくるんだ?!」


 私の剣幕に圧されてか、蛾はすこし仰け反った。が、すぐに体勢を立て直して、クスクスと笑う。




「あんた、死の事をばかり考えていただろう? 隕石が墜ちたらみんな死ぬんだぜ? こんなに愉快なことはないだろう」


「それは……」


 違う。私が一人死ぬなら、誰も気にも留めないだろう。だが人類が滅ぶとなれば、私の数少ない友人、親兄弟、みなに知らせてやりたい。




 「……確かに私はそればかり考えていた。だが、状況が変わったら、考えも……」


「変わるってか? 少しでも生きたいと思ったか?」


「……かもしれない」


 蛾はいつの間にかきらきらと発光していた。それはちょっと神秘的に見えて、私はやはり夢を見ているのかと思ったくらいだ。




「その気持ちを大事にしろ」


「……? どういう意味……」 


「今の話は全部嘘ってことだよ」


「……は?」


 蛾はもう、眩しいくらいに輝いていた。そしてゆったりとした動きで窓の方に向かう。そこは、先程私が外を覗いた時に開けた隙間があった。




「ちょっと、待ってくれ! なんでそんな嘘をついたんだ!」


 私は慌てて蛾のあとを追った。捕まえようと手を伸ばしたが、ひらりとかわされる。


「あの箱から出たかったからに決まってんだろ、ばーか」


 空を切った手がむなしく僅かな風をつくる。蛾はもう、窓の外に逃げてしまっていた。




 私はしばらく呆然と奴の消えた、朝の青空を見上げていた。そして気付く。




 ああ、人生こんなことがあるから。

 メメント・モリなんて馬鹿らしい。










end


20160730

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メメント・モリ 成瀬七瀬 @narusenanase

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