オアシスは何処にもない

成瀬七瀬

 

 ……目を開けろ。


 目を開けなければならない。


 義務感で視覚を再開した。




 忌々しいタイルを見つめる。


 まるで生ぬるい膚のようだ。


 忌々しい……?


 違う。


 本当は。


 無機物に体温を与える行為。


 その余裕がある自分を嫌っている。


 いつものように三秒後に気付く。




 夢の中にいる気配。


 原因は微かに聞こえる音楽だ。


 滑らかな旋律。


 夢。


 ゆめ。


 夢は見ていない。


 手首の傷はとうに塞がっていた。


 腕からタイル、排水口へと伝う血。


 馬鹿馬鹿しい曲線を描いている。


 指の爪でカリカリと削る。


 五分で飽きた。




 起き上がっても世界は変わらない。


 綺麗なだけが取り柄。


 マネキンみたいな浴室。


 世界は変わらない。




 俺の世界には無数の武器がある。


 切れ味のいいナイフがある。


 殺傷力の高い銃がある。


 全部俺が探してきた。




 しかし結果はどうだろう?


 結局世界は変わらない。


 オアシスは現れない。


 俺の渇きは癒えない。




 考えている間にも喉が渇く。


 こういう時が一番嫌になる……。


 何故、身体と脳は別々なんだろう。


 脳の命令を無視しやがる。


 身体は聞き分けの無い犬だ。


 今も吠えている。


 喉が渇いた、腹が減った!




 うるさい!


 うるさい身体。


 しつけてやらないと。


 吠える気力もないぐらいに。


 身体に覚えさせよう。


 もう動かないように。


 吠えないように。


 渇かないように。


 そしたらオアシスだって……


 見つかる


 見つかる


 見つかる


 見つかる


 見つかる


 見つかる


 きっと見つける!




 右手にナイフを握り締めた。


 ハンティング用の小型ナイフ。


 刃渡りいっぱいに血が付いている。


 迷うことなく舌で舐める。


 俺の血はクソ不味い。




 左腕の内側を照明の下にさらす。


 青い血管がぷっくりと浮いていた。


 あーあ。


 今もこいつは血液を運んでるよ。


 何勝手な真似してんだ?




 ナイフの切っ先を皮膚に刺す。


 そのまま刃を持ち上げる。


 傷口が噴火口に似た感じで開く。


 もちろん血がどろどろと出る。




 ちくしょう。


 今、俺は変なことを考えた。


 もったいない……。


 そう考えてしまった。




 自分に腹が立つ。




 勢い任せにナイフを縦に引いた。


 手応え。


 動脈が裂ける。


 血が勢い良く溢れ出す。




 まだだ。


 ナイフを持ち上げる。




 首筋に刃先を当てて……。


 渾身の力を込めて突き刺した。


 右手のみにしては良い入り方。


 傷付いた頸動脈から鮮血が噴く。


 それは壁を真っ赤に染めた。




 まだ……。


 まだ……。


 もっともっと出さなければ。


 血のせいで悪い視界の中。


 改めてナイフを掴み直す。




 不意に、くらりと目眩がする。


 目の前が真っ暗になった。


 次の瞬間、タイルに倒れていた。




 気絶?


 失神?


 どっちでもいい。


 今までに無い経験。


 大事なのはそこだ。




 これは……。


 今回こそ。


 いけるかもしれない。




 期待に胸が高鳴る。


 波打つ心臓を意識した。


 それがいけなかった。




 ……あ?


 微かに流れていた音楽が無い。


 聴覚が麻痺した?


 そうならどんなに良かったろう。




 音楽はただ消えている。


 単純な話だ。


 つまり、CDが止まった。


 だって俺の耳は足音を聞いている。


 ゆえに聴覚は正常。




 何ということだろう。


 俺は冷静に判断出来ている。


 パニックなんて全然訪れてない。


 左腕の傷口はゆっくりと癒える。




 首筋は?


 まだ血が止まらない。


 これは止めてはいけない。


 深く抉ろう。


 これは止めてはいけない。




 ナイフを握ろうとする。


 ぬるつく血が手元を狂わせた。


 硬い音を立ててタイルに落ちる。




 馬鹿!


 早く拾え!


 早く拾って首を切るんだ!




 俺の手が届くよりも早く……。


 白い手がナイフを握った。


 赤いネイル。




 目を上げる。


 マネキンみたいな女。


 しかしマネキンではない。


 口を開いたから。








「いい加減に諦めたら良いのに」


「……それ、返せよ」


「オアシスなんか行けないわよ」


「……返せよ」


「こんなナイフで、馬鹿みたい」


「……返してくれ」


「死ねると思ってるの?」


「……頼むから」


「往生際が悪いわね」


「……」


「それより血を取りに行きましょう」


「いやだ!」


「音楽には血が無いと物足りないわ」


「……いやだ」


「ねえ、あなた、本物のオアシスって何処にあるか知ってるの」




 女は言いながらナイフを揺らした。


 そして素早く自分の左腕に刺す。


 一発で動脈を貫いたのか?


 彼女の白い腕から鮮血が溢れる。




 そう、鮮血が。


 迸る生命のように……。


 眩しい輝きが……。




「涅槃にはない。私達のオアシスは生きた心臓。血液。流れる赤、これが真実。あなたもわかってるでしょう」




 唄うように話す彼女の声。


 血を流しても唄うように。




 心臓。


 血液。


 流れる赤。




 ああ……。


 オアシスがタイルに落ちる。


 もったいない……。




「渇きを堪えるのは良くないわ。幸せなことに私達には時間が有り余っている。ゆっくり飲みなさい」




 彼女は尖った牙を見せて笑う。


 マネキンみたいな吸血鬼。




 白い手から溢れる血液。


 それを飲みながら、俺は思う。




 この瞬間にオアシスは消えた。


 人間としてのオアシスは消えた。


 オアシスは何処にも無い。




 だが……。


 この無念もいずれ癒やされる。


 彼女のオアシスによって。








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オアシスは何処にもない 成瀬七瀬 @narusenanase

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